宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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宗教は生存戦略である!

国家の生存戦略とキリスト教受容



中欧のハンガリーとポーランドは、キリスト教国家との熾烈な闘争のなかで、国家生存のためにキリスト教を受容し、大国に成長しました。オットー大帝に敗北したマジャール人(ハンガリー人)の指導者ゲーザは、自分を打ち破った敵国の宗教であるキリスト教を受容し、キリスト教共同体の一員となることで、国家の生き残りを計りました。その子イシュトヴァーンは、改宗を拒む者を武力で抑え、キリスト教を国教化し、紀元1000年にはローマ教皇から王冠を贈られ戴冠し、ハンガリー王国を成立させます。ハンガリーは、ヨーロッパを苦しめた異教徒の蛮国からキリスト教世界の東方を守る要衝国家に生まれ変わったのです。







ポーランドは、966年、首長ミェシュコがカトリックに改宗しました。この改宗により、自らを標的とするドイツ騎士団国家の異教討伐という大義名分を奪い、カトリック国のボヘミアや、ドイツ諸侯国と同等の外交的地位を獲得したのです。その後ポーランドは、ボヘミア、神聖ローマ帝国と友好関係を結び、ドイツ人遠征軍を破って、バルト海沿岸を領有し、強国となりました。








バイキングが建国したデンマーク、スウェーデン、ノルウェーという軍事強国は、10世紀後半から11世紀の初めにかけてキリスト教を受容しました。ノルウェーのオーラブ1世は、オランダ、イギリスなどを訪問中にキリスト教に改宗しました。オーラブ1世は、何と、多神教を信じ改宗を拒否する豪族を即座に殺害したといいます。この三国は、国家統合と王権強化のために、キリスト教とヨーロッパ文明の受容を決意したのです。ヨーロッパを荒らし回ったバイキングは、キリスト教文明に感化され、北欧キリスト教圏を形成しました。








遊牧民との戦いを続けていたロシアでは、988年、キエフ大公ウラジミール1世が、ビザンティン皇帝の妹と結婚し、ギリシャ正教に改宗し、これを国教としました。同時に、ビザンティン帝国の専制君主制と文化を導入し、ヨーロッパ・キリスト教圏を構成する一員となったのです。







以上、ヨーロッパのキリスト教受容の流れを見てきました。諸国はながく、多神教の民族宗教やキリスト教の異端を信じており、本来、改宗は容易に成されるものではありませんでした。しかし、諸国は外からはキリスト教帝国の文化的影響と政治的圧力、また周辺国との生存競争に直面し、内には、王権強化という課題を抱えていました。それらを解決するために、キリスト教帝国と友好関係を結び、国内外に対して、自らの権威と自国の優位を確立するため、超国家的権威を有するキリスト教受容に向かったのです。ヨーロッパのキリスト教受容は、国家の生存、発展戦略として行なわれ、受容主体は王権でした。国家理念の制定と普及は、王権のみが決定、実行し得る事業だったからです。







以上のような背景のもと、10世紀から11世紀にかけて、多くの国がキリスト教化し、ヨーロッパではキリスト教国でなければ、国際社会の成員とは見なされなくなりました。こうしてキリスト教は全ヨーロッパを覆う宗教となったのです。







更には、近世の大航海時代以降、ヨーロッパ諸国の世界進出による、キリスト教文明圏の拡大は、征服、植民地化、それにともなう移民など、一層、直接的なキリスト教帝国による対外活動と影響力の行使によって成し遂げられました。それにより南北アメリカ、アフリカ、オセアニアなどに多くのキリスト教国家が誕生したのです。





イスラム帝国とジハード



イスラム教の歴史は、世界宗教伝播における、帝国の役割と、国家の生存戦略という背景を、キリスト教以上に反映しています。イスラム国家は、砂漠の多いアラビア半島で誕生し、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)とペルシャ帝国という巨大帝国に隣接していました。イスラム国家は、半島を越え、領土を拡張しない限り、どちらかの帝国に従属するしかなく、宗教共同体国家の独立と生き残りのため、自らが帝国となる道を選択したのです。






イスラム教にとってジハード(聖戦)は、説得や統治、また戦いという手段を用いて、イスラム教を伝播する行動です。マホメットは、メッカで宣教を始めましたが、迫害を受けてメディナに逃れ、そこで、政治権力を握りました。






王権を獲得したマホメットは、イスラム共同体(ウンマ)を整え、メッカを攻略し、全アラビア半島を制圧した後、632年に62歳で他界しました。イスラム教が他の世界宗教と異なるところは、教祖の代に、国家建設を成し遂げたことです。






第2代カリフのウマル1世は、周辺帝国に対する大征服を決意し、シリア、エルサレムを攻略し、641年にネハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシャ軍を破り、翌年、ビザンティン帝国からエジプトのアレキサンドリアを奪い、中東から北アフリカにおよぶ大帝国をつくりあげました。






これはマホメットの死後わずか10年のことです。イスラム帝国は、ウマイア朝に至ってさらに領土を拡張します。イスラム教徒にとってジハードは、宗教的理想と国家の生存戦略がひとつとなった宗教的実践であり、それによって建設された帝国は、イスラム教の理想を実現するという明確な目的を持ったのです。






中東のイスラム化は軍事力によるものでしたが、アフリカでは、イスラム教徒の隊商が、教勢拡張に大きな役割を演じました。東南アジアへのイスラム教伝播も、文明力を背景に成され、イスラム帝国の優れた文物が交易によりこの地方にもたらされ、現地の商人や指導層がイスラム教を受容しました。15世紀はじめには、イスラム教国のマラッカ王国が樹立され、国民を教化し、今日の、二億人を越える東南アジアイスラム圏形成の基礎を築いたのです。





宗教は人間の生存戦略



そもそも、より本質的には、宗教は人間の生存戦略です。分かり易くは、「交通安全のお守り」とは何でしょうか。縁結び祈願、合格祈願なども、明らかに、生存、発展のために神に祈る行為です。更には、神の存在、世界の本質、人間とは何か、生・老・病・死の苦しみから逃れる道を求める宗教的問いかけも、人生を生きるための生存戦略でもあります。宗教は、人間にとって、不幸にさせるあらゆる強敵に打ち勝ち、幸福をつかむ戦略を教えるものです。





その中で、人生最大の敵は「死」です。現代文明は、死に対し無防備で、明るさを強調して、死を忘れさせる文明です。日頃、死については考えず、楽しいことを追い求めて生き、むしろ、死について正面から向かい合っている宗教者などは、暗いことを考える不幸せ者としか思いません。しかし、誰しも年老い、死に直面するようになると、苦しみは増し、辛く悲しい死に向かい合わなければならなくなります。






普通は、立派な葬式、ちゃんとしたお墓に入ることが死への準備ですが、おおくの人は、心のなかでは、悲しみと苦しみに満ちた不幸な死を迎えます。人にとって、極楽や天国と無関係な死は悲しみです。宗教をもたない人と、宗教をもち、心から死に向かい合った人の違いは、死の場において大きな違いがあらわれます。






人間は死んだら無になる、という恐怖に打ち勝てる人間など存在しません。私もとうてい無理です。無宗教の人は、途轍もない恐怖と戦いながら死を迎えるのです。反対に、死などという嫌なものと人生をかけ向かい合った、素朴に宗教を信じていた人の死は、何か神々しさがあります。身近な人々の死の有様を見て、率直に感じることです。






宗教の、この人間に対する強い力があればこそ、宗教が、帝国、国家、部族の生存戦略にもなり得るのです。いつの時代にも宗教は、帝国、国家を守り、人に幸福をもたらす役割をしてきました。もちろん、宗教が間違った道を歩んだ時代もありましたが、さまざまな変遷を経て、今なお宗教が生きて働く世界であることをみるとき、生存戦略という人類に対する宗教の役割は変わらないと思います。