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朝鮮・日本・仏教伝来の国際関係 -高句麗、百済、新羅、そして日本の仏教受容のちがい-

仏教、東アジアへ



仏教は、紀元前3世紀の中ごろ、マウリヤ朝のアショカ王に保護され、インド全域に広がり、海を渡りセイロン島まで伝わりました。マウリヤ朝滅亡後には、迫害期や停滞期もありましたが、2世紀にクシャン朝のカニシカ王に保護され、ガンダーラ美術を生みだすような全盛期を迎えました。仏教は、インドのふたつの帝国に受容され、帝国領と周辺に伝わったのです。





西域(中央アジア)から中国への伝播は、数百年をかけ、インドや西域の僧、仏教を学び経典をもち帰るために西方におもむいた、中国人求法僧たちによって成されました。ながい時間を要したのは、現世超越的なインド的思想世界と、現実的な中国的思想世界の乖離という問題もあります。それ以上に、西域と中国を隔てる厳しい自然条件により、両地域の交流は困難を極め、西域の仏教を受容した帝国が、中国への仏教伝播に影響力を行使できなかったことが主な理由です。





4世紀になり、仏教は五胡十六国時代の中国で隆盛し、中華帝国の直、間接的影響により周辺に伝播し、4世紀後半には朝鮮半島に伝わりました。朝鮮三国のうち、中華帝国の強い影響下にあった、高句麗と百済の仏教受容は順調に行われましたが、中華帝国の影響圏外にあった新羅に至り、強い反対に遭遇しました。中華帝国から遠く離れ、政治的影響力が全く及ばない日本では、仏教受容をめぐり大戦争が勃発したのです。





アジアにおける仏教受容も、帝国の役割が重要で、朝鮮半島と日本の仏教受容のあり方を見るとそれが明確になります。平和のうちに進行した仏教東漸が、新羅、日本に至り、大きく様変わりしたのです。この受容のあり方のちがいは、国家における世界宗教受容が何によって決定的影響を受けるかを教えます。





先にあげた、「世界宗教はそれを受容した帝国の影響力が及ぶところでは順調に伝播した」、「その世界宗教を受容した帝国の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という仮説は、東アジア地域の仏教受容にも適用できるのです。





何が、朝鮮三国に仏教を受容させたのか?



古代朝鮮三国における、仏教伝来の過程を見てみましょう。中華帝国と国境を接する高句麗は、372年に北朝の前秦から、僧の道順が派遣され仏教が伝来しました。小獣林王はこれに謝意を示す使節をおくり、道順に子弟の教育をさせます。まさに、国を挙げて仏教を歓迎したのです。この王は、仏教だけでなく律令頒布、大学設立など、中国の諸制度を取り入れ、王権を強化し、広開土王時代の発展の礎を築きました。





中華帝国と海上交流を行なっていた百済は、384年、南朝の東晋からインド僧マラナンダがやって来て仏教を伝えました。枕流王はすぐにマラナンダに帰依し、なんと、王宮に、マラナンダを住まわせるという格別の待遇で迎え、寺院を建立し、10人の百済人を出家させました。百済は、高句麗以上の敬意をはらい、仏教を受け入れたのです。





それに対し、新羅の仏教公認は、高句麗、百済と国境を接するにもかかわらず、約150年も遅れました。527年、法興王は、仏教受容の意向を臣下に諮りましたが、仏教徒であるイチャドン(異次頓)のみが賛成し、他の全員が反対したのです。





『三国史記』では、イチャドンがみずから望み殉教したとき、その首を切った瞬間、胴体から白い液体がほとばしり出るという奇跡が起こり、人々は驚愕し、反対を止め、法興王はようやく仏教を公認できたと伝えます。新羅の仏教受容は、大歓迎で受け入れた他の二国とは異なり、殉教という犠牲がともなったのです。





仏教受容の国際関係



朝鮮三国の仏教受容の背景を考えてみましょう。高句麗の仏教受容は、中華帝国との正式外交として成されました。その前年、高句麗は、故国原王が百済軍との激突で戦死するという悲劇に見舞われました。強敵百済の脅威に直面する状況では、宗主国前秦との関係は何にも優先する重大事で、小獣林王は仏教を拒絶せず、積極的に受容する選択をしたのです。





高句麗の仏教受容は中華帝国と友好関係を強化し、律令制導入と大学設立を行ない、国力を強化することによって、百済との競争に優位に立とうとする、内外政策と結び付いて成されたのです。





百済の仏教伝来は、中華帝国との正式外交ではありませんでしたが、マラナンダ渡来の2ヶ月前、東晋に朝貢しており、その際に僧侶派遣を依頼した可能性があります。中華帝国との外交関係が、仏教伝来の背景にあったことは間違いありません。





百済も高句麗との対決上、東晋との関係は損なえません。すでに高句麗は仏教を導入し、国家制度を改革し、国力を充実させています。宗主国である東晋と、競争国高句麗で仏教が受け入れられ篤く信仰されている状況で、マラナンダが東晋から渡来して来たのです。この僧侶と仏教をどう処遇するかは、国家の命運を左右する問題であり、百済は積極的に仏教を受容する決断をしたのです。マラナンダを王宮に住まわせるという最大級の処遇は、明らかに、高句麗の仏教受容を強く意識した行動です。





古代東アジアにおける仏教とは、中華文明を背景とし、学問、芸術、建築などの諸文化をともなう体系で、仏教受容は中国との思想的、政治的なつながりを強めるとともに、自国の文化水準を高め、国力を増強させます。高句麗と百済の仏教受容は、中華帝国の政治力と文明力が背景となるものだったのです。





一方、新羅の仏教導入は、中華帝国とは無関係で、法興王の発意によるものでした。新羅は高句麗と百済の二国にさえぎられ、中華帝国との交流ができなかったのです。弱小国であった頃に、高句麗の使節に従って前秦に朝貢したことがありますが、顔見せ程度のものに過ぎませんでした。





中華帝国との交流は、それに携わった人々に、アジア世界に対する豊富な知識を与えます。中国と国交のあった高句麗や百済の支配勢力は、仏教がアジアで広く信奉され、受容は避けがたい潮流であることを認識できました。中国との交流がほとんどなかった、新羅支配層は、大陸での仏教をめぐる情勢を感じ取ることはできなかったのです。





法興王が仏教導入を推進したのは、君主として、諸外国の動向を注視していたからです。王は仏教受容に先立つ七年前、律令を頒布するほど中国を意識し、その制度を取り入れることに積極的でした。高句麗と百済が仏教受容を契機に、中華帝国と関係を深め、文化と国力を発展させている状況を知り、新羅も仏教導入が必要だと判断したのです。新羅の仏教受容は、中華帝国との関係によって成されたものではありませんが、その間接的影響と言えるでしょう。





朝鮮三国の仏教受容は、中華帝国を中心とする国際関係と諸国の対立関係、そして内政改革が絡み合う、国家の生存戦略の一環であったのです。それはヨーロッパにおけるキリスト教、西アジアのイスラム教の受容とも類似し、世界三大宗教の受容に、帝国の影響と国家の生存戦略という要素が同じように深く関っていたことが分かります。



次回は、日本における仏教伝来がどのような様相を呈したか見てみましょう。