宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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今、評価すべき「蘇我馬子」-見たくない事実も直視する日本史観-

遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明は、つつしんで侍臣の怒利斯致契を遣わして朝に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです。 (百済聖明王の国書) (『全現代語訳日本書紀』欽明天皇条 宇治谷孟 講談社)
 
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仏教受容をめぐる大戦争



日本の仏教伝来は、新羅より11年遅れた538年、百済の聖明王が朝廷に仏像や経典を伝えたときです。欽明天皇の対応は、大連の物部尾輿らの強い反対があり、大臣の蘇我稲目に崇仏を許すという措置に止まりました。





仏教信仰は、稲目の子、馬子が引きつぎ、584年から、百済渡来の仏像を安置し、仏殿と塔を建て、三人の少女を出家させ尼僧にさせるなど、大胆に仏教を導入しました。




翌年、疫病が大流行し、物部尾輿の子、守屋は、馬子の崇仏を怒る神々の祟りであると敏達天皇に訴えました。守屋は勅許を得、仏殿、仏像を焼き、塔を倒し、尼僧をムチで打つなど、強硬手段におよび、両派の対立は武力衝突にエスカレートしました。





対立は、政治手腕に長けた馬子が皇子たちや豪族を結集し優位に立ちます。587年、渋川の戦いは、初戦は守屋が指揮する廃仏派が優勢でしたが、守屋が戦死し、崇仏派が勝利を得、仏教が公認されました。日本は、仏教伝来から49年もの長きにわたり、受容可否をめぐり激しい対立がつづいたのです。





戦勝後、馬子は、百済に留学僧を派遣し、百済からは仏舎利がもたらされ、僧侶が渡来し、寺工、画工などもやって来、法興寺(飛鳥寺)を建立しました。そこに、慧慈と慧聡のふたりの渡来僧を住まわせ、この巨大寺院を、仏教宣教と国際交流の拠点としたのです。





日本の仏教受容は、国家を二分する対立をまねき、戦争に拡大しました。新羅は、受容をめぐり葛藤を経ても、イチャドンの殉教だけで公認されました。戦争を経た日本とは大きな差があります。大歓迎で応じた高句麗、百済の仏教伝来とは、あまりにかけ離れたものでした。






日本は、仏教が中華帝国ではなく、百済から伝来しました。百済は友好国で、仏教に対しどんな態度をとっても、相手国の意向を気遣う必要のない、いわば「拘束力」がないものでした。また自国に深刻な脅威をあたえる敵国もなく、仏教の導入如何が国家の命運を分けることでもありませんでした。






注目すべきは、受容の主体が、王権である天皇ではなかったことです。高句麗、百済はもちろん、新羅も受容主体は「王権」でした。ところが日本は、欽明天皇も敏達天皇も仏教受容を決めかね、蘇我氏という豪族が仏教受容を主張し、独自に導入を推進したのです。






世界宗教の導入は、国家の重大事で、諸国では王権が主導しました。日本においては、仏教というアジアの有力宗教であっても、王権が受容を推進しなかったのです。しかもそれが、近世のキリスト教導入と儒教奨励においても共通していたということは、日本の王権のあり方が、諸国と異なる性格を有することを示すことに他なりません。




仏教伝来と蘇我氏の国際性



『日本書紀』には、仏教受容に対し朝廷内の反応を伝える箇所があります。百済聖明王の国書には「遠く天竺より三韓に至るまで、人々はこの教えに従い、尊んでいます」とあり、仏教受容がアジア世界の趨勢であることを強調しました。





蘇我稲目は、「西方の国々は皆これを信じ、礼拝しています、日本だけがこれに背くべきではありますまい」と欽明天皇に言上しました。これは、中華帝国との外交関係で仏教を受容した高句麗や百済の立場、あるいは諸外国の動向を意識して仏教受容を推進した新羅の法興王と同じもので、アジア情勢の潮流に従う意思を示します。稲目のこの認識は、蘇我氏が渡来系諸族と関係が密で、外に目が向き、アジア情報を豊富に得られたからでしょう。




一方、この事実は、日本では、君主である天皇が、一豪族である蘇我氏よりも国際情勢に疎かったこと、それでも、天皇家は、君主として難なくこの国に君臨できたことを示します。





物部尾輿は「我国は帝が王としておいでになるのは百八十神を春夏秋冬お祀りなさるのが努めであり、今それを改めて蕃神を拝まれますならば、恐らく国つ神の怒りを招くでありましょう」と非難し、外国の神は拒絶する排他性をあらわにしました。日本においてこの主張は、排仏の論理として説得力を持ちました。





日本の仏教導入は、中華帝国や三韓諸国からの影響がおよばず、反対勢力の強力な攻撃に晒される逆境のなかでなされました。そのため、仏教をめぐるアジア情勢を感得し、反対勢力に対抗できる勢力がある蘇我氏によって受容が推進されました。すなわち、蘇我氏の役割、とくに馬子の活躍が大きかったのです。





今日まで、馬子が仏教受容に果した役割は注目されませんでした。理由は、彼が崇峻天皇を殺害した「大逆人」だったからです。彼は、日本の伝統精神からは許されない存在です。しかし、歴史を見るとき、好き嫌いを優先し、全体を判断することは、重要な真実を見落とすことになります。





日本の国情は、外来宗教、仏教を導入すること自体、極度の困難を伴なうものでした。仏教を導入するため、天皇を説得し、反対勢力と生死を賭した抗争に勝ち抜かなければならなかったのです。





韓国では、新羅の仏教受容でイチャドンの殉教に注目します。馬子も、仏教受容のために命をかけ廃仏派と戦いました。それは仏教公認の決定的行動でした。馬子が、日本の仏教改宗の最大功労者だったことは否定できない事実です。





6世紀、日本は、高度な哲学をもつ仏教を受容し、アジア諸国と世界観、価値観を共有する国家に変貌し、アジア文明の主流に合流しました。この仏教伝来とアジア文化の積極的導入は「古代入亜」と呼べる文明現象で、後の日本史に及ぼした影響は極めて大きなものがありました。遣隋使、遣唐使を派遣し、仏教を中心とする文化体系を持ち帰り、日本文化は飛躍的に発展しました。仏教は今日も多くの人々が信じる宗教であり、長く日本人の心をアジアと結びつけたのです。





聖徳太子コンプレックス



聖徳太子は仏書を著わし、推古天皇に仏典を進講しました。摂政という権力の座にありながら、宗教家がすべき役割も担ったのです。十七条の憲法を制定し、和の精神重視、仏教信仰、天皇尊重という国家の大きな枠組みを示す一方、隋に対し「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」で始まる国書を送り、中華帝国と対等の立場を主張した外交は優れたものでした。画期的な内政、外交政策を推進し日本の基礎をつくった聖徳太子は、偉大な政治家であるとともに、仏教保護の聖人と称えられるにふさわしい人物でした。





聖徳太子が日本仏教発展におよぼした影響は計り知れません。馬子が仏教受容の最大の功労者であるならば、太子は仏教隆盛の最大の功労者と言え、両者のはたらきは相互に支え合うものでした。





世界宗教受容期に、聖徳太子のように、その教義を深く理解する人物が執権者であったことは世界でも稀で、その上、人徳と功績により後に神格化されたような人物は例がありません。世界宗教受容史から見ても太子は異例な存在なのです。聖徳太子が発する光があまりに強いので、仏教受容もすべて太子の功績のように捉えてしまいます。





日本には「聖徳太子コンプレックス」と言えるものが存在します。仏教受容期に高潔な人物が出現したため、それがひとつの「原型」となり、宗教に関わる権力者は、太子のように立派であらねばならないという観念が形成されたのではないでしょうか。





それは世界宗教受容の現実とは隔たった考えです。キリスト教やイスラム教の受容も、帝国と諸国の外交政策、あるいは国家や教団の生存戦略という要素がつよく作用し、受容した君主に、宗教を深く理解した人物は稀なのです。





あの「ダビンチコード」でも触れていますが、西洋ではコンスタンティヌス帝の改宗動機は疑いを持たれています。しかし、今日、コンスタンティヌス帝の改宗は、「ヨーロッパの改宗」と銘打たれます。自身の離婚問題を契機にカトリックを拒絶しイギリス国教会を創立したヘンリー8世も利己的な人物でした。儒教を国教とした漢の武帝や明の洪武帝も恐るべき専制君主だったのです。







世界宗教を受容した権力者は独裁的で計算高い人物が多く、その実態は、宗教を利用したと言ったほうが真実に近いのです。しかし、諸外国では彼らが宗教受容、奨励に果した役割を高く評価し、それは世界宗教受容史の常識になっています。





このような諸外国の例から見ると、蘇我馬子の専制的な行動で、彼の仏教受容の功績を過小評価することは間違いです。日本には、聖徳太子のような優れた人物を尊崇し神格化する一方で、どんなに功があっても、欠点のある人物の役割には目を背けてしまう傾向があります。この「聖徳太子コンプレックス」は、織田信長のキリスト教保護、徳川綱吉の儒教奨励の評価にも影響します。





日本人には蘇我馬子のはたらきに神の計らいを感じ取る感性が求められる




諸国は、異民族による侵略や暴君の圧政に苦しみました。それがいかに嫌悪すべきものでも、何らかの意義を付与しなければ、歴史に空白が生まれ、自国史が自分達に益するものとはなりません。そのため否定的な過去も、「神の計らい」と受け止める歴史観をつくり上げました。中国はモンゴル王朝のような侵略王朝も、「天命」とし、正統王朝と認める歴史観をもちます。歴史を前進させるのは、決して良い事だけではないのです。






諸国の精神は、苦痛のなかから核になる部分が生まれ、国家の悲劇を「神の試練」、「天命」などと受け止め、絶対者を中心に置く歴史観を形成しました。今日でも、キリスト教徒やイスラム教徒は、深刻な事態に直面すると神に頼る思考が身についています。





日本人に「天命」という観念が希薄なのは、侵略や極端な暴政という艱難を経験せず、それを精神的に克服し得る、絶対者をいただく思想をもつ必要がなかったからです。世界でも稀な平和な土壌から、自然、人間を神格化し、繊細で優しい宗教観、世界観が生まれ、歴史を見るときもその思想が影響します。





日本的感性から見ると、聖徳太子は神になれる条件を完璧にそなえた人物です。反対に、馬子、信長、綱吉のような、専制的で自己主張が強く、「和」を優先しない非日本人的な人物は、恐れられ、嫌われ、彼らが宗教受容に重要な役割を果たしたなどと認めたくない心理を生みました。





三人の背後に、人智を越えた神の計らいを感じ取れず、どこまでも好き嫌いで歴史を判断してしまいます。このような思考は、彼らが宗教受容、奨励に果たした功績を排除し、自国史の重要ポイントを自分達に益するものにできなくさせます。





平和な歴史によってつくられた日本的発想は、大きなスケールで襲ってくる悲劇的事態に対処できない弱さを持ちます。東日本大震災でも、じっくり時間をかけ、根回しや段取りを経て事を運ぶ慣習が、復興を遅らせました。これらは平和を前提として成り立つ「和」の社会のやり方なのです。





突然襲った大津波の被害や原発事故は、侵略と同じなのです。このような凄まじい被害に対しては政府が強いリーダーシップを発揮し、一刻も早く、大規模復興計画を立て断行しなければならないのです。しかし、反対を恐れ、細かいことと調整を大事にする私達には、そのような手荒な方法は馴染みません。復興の遅延という事態も、平安のなかにながく浸かった感性から生じた、島嶼独立国家の副産物と言えます。