宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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戦国一大奇観〈覇者信長とキリシタン跳躍〉

信長、フロイスの勇気に感動 (二条城会見顛末)



永禄12年(1569)の4月3日、今度は、信長が会見を申し出、場所は二条城の建設現場を指定しました。信長は、堀の橋の上でフロイスを待ち、橋の板に腰を下ろして談話を始めました。





信長はフロイスの年齢、ポルトガルとインドから来てどれほどになるのか、どのくらいの期間勉強したか、親族はポルトガルでフロイスと再会したいと願っているか、ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るか、また、どれくらいの道のりなのか、そして日本にデウスの教えが広まらなかった時には、インドへ帰るかどうか等の質問を立て続けにぶつけました。





フロイスは最後の質問に対して、「たとえ信者が一人でも、その者のために終生日本に留まる決意である」と答えたのです。また、宣教師たちが、どんな動機でこのような遠国までやって来たのかという問いに対しては、日本に救いの道を教えること以外は、如何なる現世的利益も求めないと答えました。信長は、危険な航海を顧みずやって来た宣教師の勇気と、堂々とした返答に大変感銘を受けました。それは次にとった言動で判ります。





群集が、ふたりの様子を見ていましたが、そのなかには僧侶もいました。信長は、僧侶を指差しながら大声で、「あそこにいる欺瞞者どもは、汝ら(キリスト教宣教師)のごとき者ではない。彼らは民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また彼ら(人民)に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と言い放ったのです。(フロイス『日本史』)





信長は、政治権力をもつ仏教勢力を抑え込もうとしていました。この言葉には、世俗権力を持ち、自分に反対する僧侶への不信と、世俗的利益を求めず、遠い異国からやって来た宣教師に対する好意という、彼の、仏教とキリスト教に対する認識があらわれており、それは生涯変わりませんでした。翌年、信長と石山本願寺との対立は激化し、2年後にはあの延暦寺焼打ちを行なうのです。信長のキリスト教保護は仏教弱体化政策と表裏をなすものでした。





4月8日、信長はキリスト教布教許可の朱印状を与えました。フロイスは、7本の銀の延べ棒を献納しようとしましたが、信長はこれを受け取らず、無償で朱印状を与えたのです。信長はフロイスを自室に通し、自身が飲んだ茶碗で茶を飲ませ、美濃の干柿を振舞い、ヨーロッパとインド事情に関心を示し、話は2時間余りに及んだのです。





信長は、自分が岐阜に帰る前にふたたび来訪するようにフロイスに言い、その時は、ヨーロッパの綿織りの服を見せてくれと頼みました。他の贈物は受け取らなかったのに、先回のビロードの帽子といい、綿織りの服の依頼といい、ファッションに強い関心をもつ信長の趣向をよく表しています。





信長は4月29日、フロイスと僧侶日乗の宗論(教義論争)を行なわせ、300人余りの信長軍団の主だった人々が参席しました。フロイスの日本語能力は充分ではなく、ロレンソという琵琶法師出身のイルマン(修道士)が議論に立ち、神の存在有無を中心に、激しい論争を展開しました。





宗論はキリシタンの圧勝で、日乗は論争最中に怒りだし、信長の面前であるにもかかわらず、ロレンソに切りかかったので、数人の者に制止されました。このなかには秀吉も居たといいます。信長は日乗のふるまいを激しく非難しました。この宗論の結果、キリシタンの教えに好意を抱いていなかった家臣も考えが変わり、京の市中にもこの顛末が伝えられたのです。





岐阜城・信長の驚愕の行動、かくて、信長・キリスト教連合成立


宗論に敗れた日乗は、キリシタンに激しい憎しみを抱き、朝廷にはたらきかけて、再び宣教師追放の綸旨を発させ、市中に不穏な動きもあり、キリシタンに危険が迫りました。フロイスは信長に助けを請いに岐阜城に赴きました。信長は、突然訪ねてきたフロイスを暖かく迎え、山のふもとにある館の内部を自ら案内して見せ、フロイスはこの館の巧妙なつくりと美しさに感動しました。





その後、信長は山上の城で驚くべき行動をとります。食事のとき、フロイスの膳を自らが運び、日本人修道士のロレンソには、次男の信孝に運ばせたのです。予想外の事態にフロイスは驚き、膳を頭上に戴いて感謝の意を表しました。





当時は戦乱の時代で、政治は不安定でした。そのような時代には、権力者の直接的行動が強い影響力を持ちます。岐阜城でのこの出来事はすぐに岐阜城下から京都へ伝えられ、信長がキリスト教に対し並々ならぬ好意を抱いていることが広く伝わり、日乗をはじめとする反対派は、これ以上の妨害は行なえなくなりました。





信長軍団は親キリスト教勢力となり、信長の影響下にある地域では、キリスト教が歓迎されるようになったのです。そのような連鎖反応を誰よりも知るのは信長自身で、後に、自分のこの日の振る舞いは、バテレンの名声を高めるためであったと語っています。これは事実上、信長とキリスト教の連合が成立した瞬間でした。この時を境に、人々のキリシタンに対する見方は一変し、日本におけるキリスト教の躍進が始まったのです。





岐阜城でも、2人は3時間ほども話し、信長は自然の構成要素である、地水火風や日月星辰、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、その答えに満足したのです。フロイスはルネッサンス期の教養を身に付け、人並み外れた好奇心で物事を観察する人物で、ポルトガル王室の秘書庁で働いた経歴もあり、貴人との接触も慣れていました。彼は優れたメッセンジャーであるとともに、文章家で、彼の書いた『日本史』は戦国時代を知る貴重な文献です。





信長はフロイスと18回も会い、親しく語り合いました。そこで信長が得た情報は、中国皇帝、朝鮮国王といえども知らない世界の最新情報でした。信長は事実上、当時の東アジアでもっとも優れた外交ブレーンを持つ権力者と言えたのです。





天正2年(1574)には、大村純忠が全領のキリスト教化を断行し、領民にキリスト教への改宗を強要し多くの信者を獲得します。天正4年には、有馬義貞、6年には、大友宗麟が洗礼を受けました。天正5年には、京都に「南蛮寺」が完成し、ザビエルがキリスト教を伝えてから28年を経て、首都京都に教会が建てられ、この異国風の建物は京の名所になりました。





キリスト教発展は信者数に表れています。信長とフロイスが会った翌年(1570年)のキリシタン数は京都で700人、全国で26000人でしたが、12年後の1582年には、京都で25000人となり36倍、全国で150000人に上り、6倍に増加し、キリスト教は一大宗教勢力に成長したのです。





高山右近の篤い信仰、キリシタンを窮地から救う



ところが、天正6年(1578)、信長とキリシタンのあいだに大問題が発生します。高山右近の父子は高い地位と人望とによって、畿内キリシタンの代表者のような存在でしたが、彼らの上司である荒木村重が、信長に不信を抱き、本願寺と通じ、在岡城に立てこもり叛旗をひるがえしたのです。





京都支配を軸に勢力圏を拡張していた信長にとって、京の近くで起こったこの謀反は、有利な状況を一気に覆しかねない極めて危険な動きでした。信長は、宣教師オルガンティーノを通じて、右近に対し投降して、高槻城を明け渡すように強く催促しました。





高山右近は、村重に翻意を促すため、在岡城に赴くとき、自分の嫡子と妹を人質として同行させました。村重は右近の誠意に心を動かされ、信長に許しを請いに城を出ましたが、反対する重臣達に城に連れ戻されてしまったのです。





この深刻な事態に、信長は、泣きすがるような表情すら浮かべ、オルガンティーノに高山父子が協力するよう働き掛けることを要請しました。もし、右近が信長を裏切るようなことがあれば、キリシタン全体に災いが及び、宣教が壊滅的打撃を被ることは火を見るより明らかでした。





右近は、人質を取られる一方、自分の決断如何が、キリスト教の運命を左右するという身を引き裂かれるような立場に追い込まれたのです。進退に窮した右近は、捨て身の行動に出ました。すべての地位を投げ出し、髪を剃り落とし、紙の衣を着て、信長に許しを請うたのです。信長はこれを受け入れ、右近を元の地位に復させました。





高槻城は開城し、在岡城への攻撃が開始されました。包囲は長期に及びましたが、村重は城を脱出し、尼崎に落ち延び、兵士らも撤退しました。信長は、村重の妻と2人の娘、近親36名を処刑し、貴婦人120名を磔に処し、514名の男女を小屋に押し込め焼き殺すという残虐な報復をしました。





信長を襲った危機は、オルガンティーノの協力と高山右近の捨て身の行動によって解決することができました。信長は、裏切りが常の戦国の世に、キリシタンは裏切らないことを知り、彼らを深く信頼し、以前に増す庇護を加えるようになるのです。