宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』について

1.江戸日本は、鉄砲を捨てた世界が見習うべき国


1979年、アメリカで『鉄砲を捨てた日本人』という本が出版され反響を呼びました。著者はノエル・ペリン氏です。ペリン氏は、朝鮮戦争に従軍し、日本にやって来たことがある人物ですが、戦国時代の日本は、世界一の鉄砲生産国でした。しかも、実戦で盛んに使用したにもかかわらず、江戸時代になるや、鉄砲の改良を中止し、多くを破棄するという、世界にかつてなかった軍縮を成し遂げたことを高く評価しました。日本語版の序文には次のように述べています。





日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ400年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発とを中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるべきものです。




ペリン氏は、鉄砲を捨てた「徳川の平和」を、世界史的な、また核のコントロールにも学ぶべき意義ある時代だと賞賛しています。




2.アジアが平和だから鉄砲を捨てられた



しかし、大きな事実を見過ごしています。徳川時代、日本が鉄砲を捨てられたのは、日本周辺の国際環境が平和だったからです。ペリン氏は、同時代のヨーロッパは、火器を開発し、盛んに戦争に使用したと指摘しましたが、それは、ヨーロッパの国際環境が平和ではなかったからです。もし、徳川時代の東アジアに、当時のスペインやフランス、あるいはイギリスのような国家があったら、日本も鉄砲を捨てることはできなかったのです。





「徳川の平和」は、近隣国家が、中国の明、清王朝や、朝鮮王朝のような対外侵略意思を放棄した国々だったから実現したもので、決して日本が単独で達成したものではありません。日本が島嶼独立国家たりえた主要な条件も、東アジアの覇権国であった中華帝国が、平和的な文治の帝国だったからだという事実を忘れてはならないのです。





3.鉄砲を捨てられない現代日本



ここまでの内容をベースに、現代のアジア情勢について、二つ、指摘できることがあります。一つは、中国批判に、共産主義の脅威とともに、中華帝国・中華思想を加えることが多々あります。しかし、歴代中華帝国は、建国期には対外拡張策をとりますが、中国本土の豊かさを知れば、対外戦争の愚を悟り、侵略を止めます。その後は、東アジアにながく平和な時代が訪れました。中華思想は、儒教が根にあって、中華文明を尊重する国ならば、宗主国の徳をしめすため、搾取するどころか、中国皇帝に捧げた以上のものを朝貢国に与えました。世界にこんな帝国はなかったのです。




今日の中国の脅威は、「共産主義・共産党」に尽きます。中国が共産主義を捨てれば、儒教の平和主義に戻るしかなく、この国は、世界平和に貢献する国家に生まれ変わります。





もう一つは、反対に、中国が共産主義をかかげ、共産党が独裁的支配をする限り、中国国民は苦しみ、世界は危険にさらされるということです。現代中国の対外強硬政策は、暴力革命を使命とする共産主義思想のあらわれです。そのうえ、同じ共産主義国家である北朝鮮は核兵器まで保有してしまいました。




このような東アジアの情勢を見るとき、現代の日本は「鉄砲を捨てる」という選択肢はあり得ません。むしろ、憲法を改正し、しっかり自主防衛の権利を明記し、国防軍をもち、国防力を増強しなければなりません。現代の国際情勢は、元禄日本の時代のように、国防に力を入れなくても、天下泰平を享受できるほど穏やかなものではないのです。             (永田)



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ヨーロッパから見た「元禄日本」 -ケンペルの驚くべき証言-

1.「彼は孔子の教えによって教育された」


当時、強い関心をもって日本を観察していたひとりの西洋人がいました。元禄4年(1691)、オランダ船船医として長崎、出島に渡来したドイツ人医師ケンペルです。彼は博物学者であるとともに東洋研究家で、彼が著わした『日本誌』に、綱吉とその統治、鎖国下の日本についてこう記されてあります。





国の周りを囲む島々、琉球、蝦夷、高麗は日本に服属している。シナもまた、測り難い版図を持つ広大な国であるとはいえ、日本から見れば恐るるに足らず、むしろ日本が脅威を与えている側である。何しろシナ人は惰弱で優柔である。そしてシナの征服者、タタールの系譜をひく皇帝はこれまでにも様々の国土と国民を統治してきたのだが、その征服欲を日本までひろげてゆこうとは決して試みもしないであろう。現在帝位にあるところの綱吉は ― 気宇雄大にして傑出した資性の人物で、父祖の徳をよく継承し、国法の厳格な監視者であると同時に、臣下に対しては極めて仁慈深き君である。彼は少年時代から孔子の教えによって教育され、それを奉じて、国民と国土にふさわしいような政治を執り行っている。この君主の下で万民は完全に一致協和し、皆々その神々を敬い、法律を遵守し、長上の意に従い、同輩には礼譲と友誼をつくしている。 - もし日本国民の一人が彼の現在の境遇と昔の自由な時代とを比較してみた場合、あるいは祖国の歴史の太古の昔を顧みた場合、彼は、一人の君主の至高の意志によって統御され、海外の全世界との交通を一切絶ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代をば遂に見出すことはできないであろう 
      (『 鎖国の思想』小堀桂一郎著 中央公論社)  




                  
このなかで注目すべきは、綱吉が「孔子の教え」、すなわち儒教で教育を受けたことを特筆していることです。中国や朝鮮王朝では、人が儒教教育を受けるのは当たり前のことですが、徳川時代初期の日本では、この事実がトピックになるほど異例なことだったのです。そして、綱吉がこの新思潮である儒教で国民を統治し善政を施していると言っており、外国人にも、元禄日本の思想や政治を理解するキーワードは「儒教」だったことを表しています。国際的にも、当時の日本が「儒教の時代」と認識されていたのです。





ここで、驚くことは、むしろ、今の日本において、ケンペルのように綱吉を評価することはないということです。まず、綱吉が孔子の教えで教育されたことを知っている日本人が、いったい、どれくらいいるでしょうか。綱吉が、江戸時代の日本人の思想、生活にどれほど大きな、そして、良き影響を及ぼしたでしょうか。ドイツ人ケンペルはそれを明確につかんでいました。現代に生きる私たちは、日本の歴史の真実を捉えるため、犬将軍と軽視する偏見を改め、綱吉の思想と成したことを公正な目で振り返り、正しく評価しなければなりません。





2.ヨーロッパの発想で、東アジアを日・中対立構造とみる



中国について言及した部分は、国家間の関係を対立的に見る西洋の国際感覚を反映しています。ケンペルは日本は強力な国で、朝鮮を従属させ、中国は巨大ですが弱みがあり、日本が中国に脅威を与えていると観察するなど、東アジアを日・中の対立構造と捉えているのです。





徳川幕府は、文禄・慶長の役で断絶状態になった明に対して、国交回復を切実に願い働きかけました。明との国交は成りませんでしたが、朝鮮王朝とは修交を遂げ、通信使を厚遇して友好関係を築きました。これは、対外強硬政策を棄て、隣国との共存を計る国策の一環で、内外に平和を強調するメッセージでもありました。



 


また、綱吉が儒教の教えで政治を行なっていると強調していますが、そのことの意義がケンペルには判っていません。儒教は中国で生まれた普遍宗教です。「普遍宗教」である限り、発祥した国をつよく意識する必要はありません。普遍宗教は、国家を越えて全人類に適用する教えであることに意義があるからです。キリスト教がユダヤを、仏教がインドをことさら強く意識しないのと同じことです。





3.儒教は中国・漢字文化を尊重する
 


しかし、キリスト教や仏教は、発祥地を離れて発展地域が移り変りましたが、儒教は中国で生まれ発展し続けるなかで近隣に伝わったのです。中国で展開した儒教の体系は、中国・漢字文化に負うところが大きいのです。漢字文化圏に属する国では、儒教経典を漢字という原文で読むことができます。そのため儒教を学ぶ人々は、自然に中国・漢字文化に敬意をはらうようになります。




徳川時代、日本は中国と張り合ってはいませんでした。特に、元禄はアジアと価値観において接近しようと努力していた時代で、中国と対抗する意識や、朝鮮を従えているという意識はなかったのです。




当時のヨーロッパは、諸国がパワーゲームを繰り広げ、世界で植民地獲得のため覇を争っていました。ケンペルの見方は、このようなヨーロッパ国際関係を東アジアに適用しているのです。同時代、日本は平和な国際環境のなかで、戦国脱亜時代のアジアに対する意識を変革し、アジアの一員と認識し、価値観の世界において入亜の道を歩んでいました。その核心的事業が、「孔子の教えを奉じる将軍」が推進した、儒教奨励政策だったのです。            (永田)



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「天下泰平の世」はどうして実現できたのか?

1.綱吉の強力な文治主義


幕府と朝廷、そして儒教界・仏教界という文治のつながりは、社会に「文」の価値を復興させ、「戦国殺伐の余習」を克服する力を発揮しました。この戦国余習の悪弊は根強いもので、3
代将軍家光のような武断統治の政権や、つづく、4代家綱の脆弱な文治主義では到底解決できず、5代綱吉の「強力な文治主義」が求められました。『徳川実紀』には当時の混乱する社会状況を次のように記しています。




戦国掘強の余風なをいまだ改まらず。世人多くは暴戻残悍をもて武とおもひ。意気慷慨をもて義となす類ひ。殺伐の余習より出て。大道にそむき不仁の所為に陥る事すくなからず。当代兼てよりこの弊習を改化し給はん思召にて。― 殊に聖人の道を御尊崇ありて。文学を励むべき旨しばしば令し下され。 ― 四海風にむかひ。文運大に勃興し。戦国の余習斬に変じて。昇平雍熙の治を開かせ給ひ。



 


ここでは、社会に大道にそむき不仁の行いが横行し、その原因は「殺伐の余習」すなわち長い戦国動乱によって習いになってしまった暴虐、蛮勇の弊習で、「世人多くは」と、社会の広範におよぶ深刻なものと指摘しています。






2.古代中国・孔子の時代も同じ社会状況だった



そもそも、中国における儒教誕生の動機も戦国動乱の克服でした。孔子が生きた春秋戦国時代は、諸侯が覇を争い、謀略と武力の巧みな行使が国の命運を左右しました。諸侯は、勇猛な、あるいは知略に優れた人物を優遇したため、野心と能力ある者にとっては、立身の機会に恵まれた時代でした。洋の東西を問わず、このような弱肉強食の世には、力が重視され、人々の間に蛮勇を良とする風潮が生まれます。孔子は、この混沌とした時代に、「力の政治」より、「仁の政治」が必要だと訴え、君主の思想を正すことで平和を取り戻そうとしたのです。





日本の戦国時代も、武将たちは強力な軍事力の保有と、敵を倒すため、あらゆる戦略、戦術を駆使しました。大規模な戦闘が各地で行なわれ、腕力ある者なら武士になることができ、ならず者でも世に出る機会が与えられました。そして、鉄砲が普及し、破壊力が強化されることによって、ついに外国を侵略するまでに至ったのです。この100年余りに及んだ戦乱によって、人々の心の中に荒々しい気風が根を下ろし「戦国殺伐の余習」が生まれました。





家康は、日本古来の伝統的価値を尊重し、外への膨張よりも内政を重視しました。家綱代になり、文治統治に転換し、綱吉時代に至り、本格的に戦国余習の克服に取り組むようになったのです。孔子や孟子が、中国の混乱する状況を儒教道徳の力で克服しようとしたように、綱吉も、儒教道徳の力で国民の精神を安定に導こうとしました。儒教の教えは、元禄日本でも、古代中国と同様の役割が期待されたのです。





3.これが「生類憐みの令」の真実
 


「生類憐みの令」も、戦国余習克服の一環として発令されました。この法は、貞享2年(1685)から頻繁に出された、動物に対する保護令で、次第に強化され、鳥類の捕獲、殺生、鳥魚類の食用売買などを禁じ、国民は犬を傷付けることや、魚や鳥肉を食すこともできなくなりました。この法は庶民を苦しめた「天下の悪法」といマイナスイメージが強いものです。





法の発令動機について、通説になっているのは、綱吉が長男を亡くして以来、子に恵まれなかったので、僧の隆光が「子に恵まれないのは前世の殺生の報いで、子を得るには生類を慈しみ、とくに綱吉が戌年生まれなので犬を慈しみなされ」と進言したからだというものです。





山室恭子氏は、綱吉が隆光を知る前に、すでに「生類憐みの令」は発令されていること、隆光は日記で「生類憐みの令」について一切触れていないこと、綱豊を後継者と決めた後にもこの法令を撤回しなかったことなどを挙げ、この説を否定しました。



また山室氏は、法に違反した者は容赦なく罰したという今日までの通説に対しては、史料をもとに、幕府は違反者には極力温情をもって臨んだと指摘しました。「お犬様を傷つけたりしたら重罪になった」のような話は誇張されたものだったのです。





「生類憐みの令」の重要な意義は、武士の価値観を根底から変えたことです。鳥獣の生命を損じることが罪ならば、人命はなおさらであり、武士にとってこの法は、自分達の価値観を根本的に変革せずには、到底向き合うことができないものでした。このような法を武家政権が発令したこと自体が驚きなのです。





『徳川実紀』では生類憐みの令の発令動機が、「また殺生禁断の御事も、はじめはかの殺伐の風習を改めて。好生の御徳を遍く示し給はん誠意より出しが」と、「殺伐の風習=戦国余習」の解決にあったとしています。この法令の目的も、儒教奨励とおなじ、戦国余習の克服だったのです。





4.儒・仏の感化力が「泰平の世」を開いた



元禄14年、綱吉の儒・仏奨励政策が完成をみた頃に発せられた「大名戒諭」は、「忠孝をはげまし、礼儀を正しくし」という儒教的な文言から始まりますが、「仁愛のこころざしを専とし、生類をあはれむべし」という言葉があらわれます。大名戒諭に「儒教」と「生類憐み」が同時に強調されているのです。




綱吉にとってこれらは「車の両輪」、すなわち一つのものであったことが分かります。この法は、仏教の慈悲と儒教の仁政思想を背景とし、生類に対する憐みの情を喚起させることにより、人々を善導しようとした、儒・仏奨励政策なのです。 





幕政初期は、社会も人々の精神も決して平和なものではありませんでした。今日、徳川時代が平和な時代であったと語るのは、人々の価値観が変わった元禄時代以降を回想する言葉です。「泰平の世」は、幕府が儒・仏を奨励し、その教えが人々に尊ばれるようになったことと深く関係しており、アジア伝来の宗教である儒・仏の感化力が、徳川の平和を創出したのです。
                                                                         (永田)


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韓国の忠臣蔵・「死六臣」-日・韓、こころの決定的違い-

1.忠臣蔵・赤穂事件と「生類憐みの令」


赤穂事件は、元禄の社会にセンセーションを巻き起こし、300年を経た現代でも日本人の精神に大きな影響を及ぼしています。浪士の行動は、忠義、勇気、同志愛、潔さなど武士道の良き面を備え、彼らは尊敬され、時には「義士」と呼ばれました。





この「赤穂事件」と「生類憐みの令」とは、直接的因果関係がないにもかかわらず、よく結びつけて論じられます。児玉幸多氏は、「世は犬公方の治下である。足もとに吠えつく犬も追うこともできない時代であった。その抑制された気分が、隊伍堂々と旗本屋敷へ攻め入って、亡君の意趣をはらしてきたこの事件によって、自分たちの憂さをはらすことにもなったのである」と述べました。おおくの書物の論評が、「生類憐みの令」で苦しめられている庶民の鬱憤が浪士たちの行動に喝采をおくらせた、というものです。





赤穂事件が、劇や放送などで演じられるとき、事件の社会的背景として、綱吉の専制ぶり、悪政としての「生類憐みの令」、浅野長矩に対する不公平な裁きが取上げられ、綱吉のイメージは低落しました。この事件は、日本の「武」の伝統を強く想起させ、綱吉の「文」の政策と対立するイメージを形成したのです。





2.死六臣とは?



文、武という視点から赤穂事件を考えるために、韓国の朝鮮時代、1456年におこった赤穂事件と似た事件を取り上げてみましょう。朝鮮王朝の第6代王、端宗は、わずか12歳で即位しましたが、叔父に当たる首陽大君は、端宗の王位を奪い7代世祖となりました。





この王位簒奪行為を非とする人々が、世祖を倒して、端宗を復位させるクーデターを計画したのです。宮中で、明からの使者のもてなしの儀式が行なわれる場で、事を決行しようとしましたが、計画を延期したため、仲間の中から裏切りが出、首謀者の6人は捕らえられました。彼らは過酷な拷問を受けても、死ぬまで志を曲げず、端宗への忠誠を貫いたため、「死六臣」として今日までも韓国国民に尊敬されています。





死六臣と忠臣蔵、両事件は似ています。「死六臣」は端宗への忠義、「忠臣蔵」は浅野長矩への忠義が動機で、結末は死刑に処せられましたが、人々はその志操の高さを称賛したのです。





3.死六臣と忠臣蔵の決定的ちがい



しかし、両者の行動、また人々の受けとめ方に差がありました。死六臣はどこまでも「文人」として、赤穂浪士は「武人」として人々から評価されたのです。死六臣の中には、武官が一人いました。計画に狂いが生じたとき、彼は計画どおり行動を起こそうとしましたが、文官の指導者がそれを制止しました。結局、この延期が原因で裏切り者が出、決起は失敗したのです。武人には、強力な敵を倒すには果敢な行動が必要で、このチャンスを逃がせば事の成就は難しいと判断できたのです。まさにこの集団は、文官が絶対的主導権をもち、武官が従うという儒教国家そのものの構造でした。彼は逮捕されてからも「あの役立たずの文人ども」と叱責しています。そもそも文官がこのような行動を計画したこと自体に無理があったのです。





しかし韓国人はこんな失敗などは気にしません。韓国の精神の核は「文」であり、志操の高さこそが重要で、決起に失敗したことはさほど問題にはならないのです。たとえ計画が成功したとしても、儒教国家では武力で政権を倒した事実自体が忌避され無視されるのです。忠臣蔵のように、武勇談で語り継がれることなどはあり得ません。





文官は「文」のみに依拠し、断固として「武」を遠ざけたので、教育者、助言者として王の信任を得、人々にも尊敬されたのです。清廉な文官は、正しいと信ずることのためにはたとえ殺されるようなことがあっても道理を主張しました。文官にその覚悟があったからこそ、武官に対して精神的に優位に立つことができたのです。儒教を重んじる国のメンタリティーとはこう言うものです。





4.忠臣蔵の人気は見事な討ち入り成功



赤穂浪士の場合は勿論すべて「武人」です。討ち入りのために47人もの人が周到な準備をし、作戦をたて勇敢に戦いました。これは武士団のいくさであり、長年武術を鍛錬した武人にしかできない行動です。





もしも、浪士の計画が仲間の裏切りにより失敗したり、あるいは討ち取られていたら、私達の反応はどうでしょうか。彼らの忠義心は認めるが、その志操の高さだけで今日私たちが赤穂浪士に抱いている尊敬や人気はもち得ないでしょう。忠臣蔵は、勝どきを上げる瞬間がクライマックスで、その人気は討ち入りの見事な成功によるところが大きいのです。





日本では、武士であるかぎり武術の心得がなければならず、刀を抜けば、勇気と力量を示さなければなりません。日本と韓国、同じような行動でも、文と武という視点から考えると、根本的な違いがあります。この違いを国家に拡大すると、文の思想である儒教が、「原型」のまま、日本に定着することがいかに難しいことであるかが理解できます。





5.元禄日本は新しいかたちの儒教国家を創出



綱吉は、幼いときから2人の兄に従順に従うため、文の思想である儒教の教育を受け、武から遠ざけられました。それによって形成されたメンタリティーは「文人」のものです。「忠臣蔵」でなく「死六臣」のメンタリティーなのです。元禄というのは、「武人」とは異質の、「文人」の精神的バックボーンを持つ人物が、武人支配の日本を統治した時代と言えます。





綱吉は、自身の価値観を「忠臣蔵の世界」に強引に導入しました。儒・仏を強調し、「生類憐みの令」を発し、人々にきびしく価値観の転換を迫ったのです。綱吉の政策は、日本の「武」の伝統と感性を越えて推進され、人々はそれに強い違和感をもち、その抑えられた感情が、赤穂浪士の行動を際立たせました。この心理構造が、綱吉の不人気の底にあるものです。





日本と韓国の精神的背景の違いから、日本人が綱吉とその政策に拒否反応を示した理由を見てきました。そこには、儒教によって確立した文、武という、東アジアだけに存在する思想的、文明的概念が横たわっています。東アジア儒教国家は、文、武の上下秩序が確立しており混乱はありません。しかし日本は、儒教が台頭するとき、文、武における、上下、軽重の葛藤問題は避けられないものでした。





綱吉は、「武」という強固な壁に穴をうがち、元禄日本に「文」の思想を導入し、国民の価値観を、東アジア儒教国家の人々と接近させました。文の価値重視は、綱吉後も儒教主義継承という形で社会に定着し、吉宗代にいたり、文・武のバランスを実現させました。それは、儒教という普遍宗教の影響圏が、海を越え日本にまで拡大し、東アジアに、中国や韓国とも異なる、新しいかたちの儒教を尊ぶ国家が出現したことを意味したのです。
                    (永田)


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将軍綱吉は韓国の血を引く -生母桂昌院の母は韓国人-

1.「日本シンデレラ」 -海音寺潮五郎氏の感想-


ショッキングなタイトルかも知れません。そもそも、本稿執筆のきっかけは、韓国留学時代に、海音寺潮五郎氏の歴史エッセイで、綱吉の生母である桂昌院の出自について言及した部分を読んだからです。引用します。




五代将軍綱吉の実母桂昌院は、京都の八百屋何某の娘から、女にして従一位まであがったというので、日本における女子の出世がしらということになっている。彼女の位がこうであったばかりでなく、その権勢のすさまじさは歴史にちょっと比すべきものが見つからない。徳川家の権勢が最も張った時代の将軍生母であり、またその将軍が孝道中心の儒教道徳を真向から信奉している人であったからだ。 ― さて、この桂昌院の素性だが、『遠碧軒記』という、当時芸州藩の儒医であった黒川道祐の著書中の記述によると、桂昌院の母親は朝鮮人であったとある。京都堀河に酒屋太郎右衛門というものがあった。怠けもののグウタラだったので、妻は子供一人生むと、摂関家二条家へ乳母に上がってしまった。太郎右衛門氏は女房におん出られてこまったが、間もなくその家に久しく召しつかっていた朝鮮人の女に手をつけ、これを女房にして娘が二人生まれた。その妹娘が後の桂昌院であるというのである。真偽のほどは、他に参照すべきものが見当らないからわからないが、この書物の他の記述は、史料として相当信用されているのである。ぼくはほんとうであろうと思っている。


                                 『日本歴史を散歩する』「日本シンデレラ」142P




これを読み、面白いうわさ話もあるものだと思いましたが、その後、綱吉について調べて驚いたのは、彼と儒教との関係でした。綱吉の儒教奨励が徹底したものだったからで、日本に儒教を根づかせたのは綱吉だと確信しました。これは日本の精神史に対する大変な貢献だと感じるとともに、将軍が経典を講義してまで儒教を奨励し、それを押し立て政治をしたという事実が、日本史のなかで大きなウエイトを占めていないことが不思議に思えたのです。





2.「韓国・儒教・綱吉」がつながる



儒教が専門でもない私が、綱吉の儒教政策に関心を持ったのは、韓国に住んでいたからです。韓国は儒教が深く浸透している国です。ここでは「儒教」というものが巨大で、私の観念のなかでの儒教も大きな存在になっており、そんなものを日本に根づかせた綱吉の業績も偉大に感じられたのです。以上のような過程を経て、「犬公方」というマイナスイメージの綱吉像が一変しました。




儒教奨励を他の時代に拡大すると、仏教を導入した蘇我馬子、キリスト教を保護した織田信長にも綱吉と同じことが言えることに気づきました。二人とも、宗教受容の功績について正しく評価されず、関心も持たれていないのです。




儒教奨励における綱吉のみならず、仏教とキリスト教受容にも同じことが言えるということは、これが三人個々の評価問題ではなく、日本という国家がもつ「何か」を表すことではないかと思ったのです。そして諸国における世界宗教受容と日本のそれを比較して本稿の枠組みができ上がりました。




3.歴史は敗者が復活する



歴史の面白さは、ドラマ以上に意外性があることです。特に、敗者が、かたちを変えて復活するストーリーは、意外性の最たるものです。織田信長は、自分を裏切った妹婿である浅井長政の頭蓋骨で盃をつくり、武将たちにその盃で酒を飲ませました。お前たちも裏切るなという強烈なメッセージです。




しかし、長政と信長の妹の市とのあいだにできた娘のうち、一人は秀吉の跡継ぎである秀頼の母「淀」に、もう一人は徳川三代将軍家光の母の「江」になりました。敗者である長政の「種」は、当時の日本の二大権力の長になり、たとえ関ヶ原の合戦でどちらが勝っても、日本の最高権力者となることができたのです。反対に、信長の種は権力者を生みませんでした。




家光の乳母で、絶大な権勢を誇った春日局は、敗者である明智光秀傘下の武将の娘でした。関ヶ原の合戦の敗者である長州と薩摩が、徳川家を滅ぼし明治維新を成功させました。




秀吉の朝鮮の役で、韓国から連れてこられた、一人の女性が、京都の八百屋の女中となり、後に、八百屋の主人とのあいだにもうけた娘が、徳川三代将軍である家光の目にとまり、綱吉を生みました。その母と子が、徳川幕藩体制、すなわち日本国家の精神に大刷新を起こす、儒・仏奨励政策を推し進めたのです。  (永田)


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