宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

4世紀をゆく宗教・天理教 ーおやさまと宗教都市ー

 表は神道、中身は仏教


天理教の中山みき教祖は、世界一列(人類)救済思想を強調しました。そのため、小さくまとまってしまう教団も起こすなと遺言しました。また、天理王命を主神とし天照大神の受容は否定的でした。教祖の逝去の翌年、後継者たちは、天理教と名付けた教団を立ち上げ、天照大神を受容しました(明治教典)。教祖の遺志を継ぎませんでしたが、それをしなければ天理教はつぶされていました。





戦前は、基本的に仏教、神道、キリスト教を認め、「新宗教」は認められませんでした。ですから、「新宗教」の立場を堅持した大本教はつぶされました。そのため天理教は、神道、仏教(真言宗)の下にありました。神の体系は神道であり、人間観は仏教で、「出直し」という輪廻転生を信じ、因縁という因果応報を重視します。天理教は形と表は神道、中身は仏教といわれます。





教団を起こした天理教は爆発的に広がりました。根本的理由は、中山教祖の求心力です。人々を分け隔てず、無条件の愛を捧げ、事実上の殉教をした利他的生涯が、強い求心力を生んでいます。天理教信者に聞けば、おやさま(教祖様)が信仰を支える大きな存在であり中心です。それはキリスト教信仰と類似します。





また、天理教は村(ムラ)的宗教です。ムラ意識が成熟した江戸時代の伝統を引き継ぐもので、日本人にピッタリ合いました。日本人の輪は家庭というよりムラです。「大きなムラ」で、天皇は、中山教祖の血を引く「真柱」、天理教本部は「幕府」、大教会は「藩」という構造で、精神は、おやさま・中山教祖です。まず、天理教経典の言葉を引用しましょう。





「おやさまは、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された」     『天理教経典』.





おやさま



江戸末期は、天理教や黒住教、金光教などが創始された精神の一大覚醒期でした。天理教教祖である中山みき師は1798年、すなわち18世紀に誕生しました。この教団は4世紀をまたぐ歴史をもち、伝統宗教と新宗教の中間にある教団といえます。





宗教にとって教祖の犠牲的歩みは、信者に教えの本質を知らせ、愛の実践をうながす強い動機を与えます。中山教祖は、多くの病人を癒し、安産を祈願し、人々は「お産の神様」と呼びました。





子供を次々に失った人の子に乳を飲ませ、この子が重病になったとき、神に自分の娘二人を捧げるのでこの子を救って下さいと祈り、奇跡的に命を救いました。かわりに二人の娘は命を無くしたのです。常人には成しえない利他愛を実践した中山教祖は、信者から「おやさま」と親しみを込め尊称され、その強い求心力が天理教団を支えます。





教祖は、80代の高齢になって、当局の弾圧で幾度も過酷な取り調べを受けました。それにより命を縮め、1887年、90歳で他界しました。世の栄光を受けることなく、人々におおきな愛をそそぎ、苦難の道を歩んだ生涯でした。それは十字架で死んだイエス・キリストと似ています。





イエス様がたった3年の活動で死んだため、パウロが開祖的役割を果たしたように、天理教も中山眞之亮師と飯降伊蔵師が開祖的はたらきをして、天理教を教団として出発させました。「天理教」という教団名も、後継者によって創唱されたものです。 





 宗教都市・天理



天理教の際立った特徴は、「宗教都市」をもつことです。奈良・天理市を訪れた人は、神秘的都市の威容に圧倒されます。神殿を中心に荘厳な建物が林立し、古風な日本的構えの宿泊施設群など、こころが弾むような宗教的オーラを発する空間が広がります。宗教者であれば、こんな宗教都市が自分の教団にあったらどんなにいいかと、うらやましく思うのが正直なところでしょう。





宗教は、理想が目に見える形で実現することを求めます。ですから多くの教団は理想世界を表象する巨大建築物を創ります。天理教は、教団の理想を「宗教都市」という大きなスケールで実現できた数少ない教団です。天理市は世界の始源とする「甘露台」を中心に広がり、宗教的空間全体を「おやさと」と称する理想世界のひな型なのです。





過去、伝統宗教は国教化した歴史をもちます。すなわち「宗教化された国家」を出現させました。しかし今日、そのような国家はイスラム教国を除きありません。天理市は「宗教化された都市」といえ、誰でも天理市を訪れれば、教団のめざす理想世界を一望できるのです。





しかも天理市は、ヤマトタケルが「大和は国のまほろば」と詠んだ奈良にあり、奈良は日本国家黎明の地です。日本人の心のふるさとに位置する「宗教都市・天理」とは、伝統宗教でも持ち得ない精神的資産です。このような優れた宗教都市をもつ天理教は、日本の歴史と精神の核心と結びつく特殊な教団といえ、その隠れた影響力は計り知れません。





人を助けておのれ助かる



『天理教経典』冒頭にあらわれる、「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。世界一れつをたすけるために天降つた。このたび、みきをやしろに貰い受けたい」という中山家に下された神のお告げは、天理教の性格をよくあらわします。





神は、中山家の屋敷の地を聖別し、世界万民を救うため、中山みき師を「やしろ」として貰い受けるという要求をしたのです。天理教は、中山教祖は神が臨在する「やしろ」であり、神人合一の存在という信仰をもちます。すなわち、おやさまは「神そのもの」なのです。






『経典』を読むと、天理教が指向する理想世界は、人々が陽気に暮らす「村」という印象をうけます。教団が創立された幕末は、日本の村社会が成熟した時期でした。親神天理王命を創造神と仰ぎ、「おやさま」とその教えを心の拠り所とし、大きな天理村理想社会の形成を目指します。「地球村」という言葉がありますが、天理教はこの言葉にぴったりな性格を持つ教団です。





実践の基本は「人を助けておのれ助かる」という、因果応報思想に集約されます。人助けはどの宗教もすすめますが、天理教信者は、人を助けなければ自分が助かる道もないと考えます。信者は、天理市で「陽気ぐらし」を体験し、人が助け合い共生する、理想世界の行動様式を学びます。





そして、死を「出直し」と捉える独特の生死観をもちます。人は死後、ふたたび現世に出直して、陽気ぐらしと人助けの人生をあゆみ、更にすぐれた利他的人間に成長してゆくという「救いのプロセス」を経ると説きます。この明確な救済思想と天理市という宗教都市の存在が、天理教徒が人助けをする豊かな余力を生んでいるように思えます。






 世界宗教・世界宣教



それを拡大するのが、「世界一列を助ける」世界宣教への熱い思いです。天理教の世界への取り組みを知るには、井上昭夫氏が著わした『天理教の世界化と地域化』に明確にあらわれます。





「〈世界諸文明の共存調和をめざす〉 天理教は民族宗教でも自然宗教でもない。人類救済・世界たすけの啓示宗教であり、世界宗教である。海外伝道はあらゆる国と地域に行き渡り、東アフリカ貧困緩和プロジェクトにも及ぶ。世界伝道を視座に創設された蔵書200万冊超の天理図書館は世界文化史上貴重な文献を数多く所蔵。国際的にも〈西のバチカン、東の天理〉として知られる」




このように、世界宣教を強調します。天理教は、最初の啓示で親神さまが命じた、「世界一れつをたすける」人類救済の使命を、着実に現実化している世界宗教ということができます。





天理教とは、一人の女性が奈良の一角ではじめた人助けの実践が、多くの人に引き継がれ、心が通う宗教都市を誕生させ、そこを中心に人助けの輪を世界に広げる、日本を代表する新宗教です。天理教は、伝統宗教と新宗教をつなげる役割をはたすことができ、同教団が宗教の交流、協力を積極的に推進すれば、宗教融和の大きな流れを形成できます。

                    (永田)



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創価学会・激動する巨大教団  ー折伏から対話へー

 創価学会



昔、創価学会といえば、激しい折伏で他宗教を批判する排他的教団というイメージが強かったですが、今は大きく変化しました。また、宗教としては珍しく、「人間」や「民衆」を強調し、「愛」より「生命」を尊重します。公明党を立党し政治にも積極的に参加しています。しかし、この日本最大の新宗教のダイナミックな変貌は、あまり知られていません。まず、池田名誉会長の言葉を引用しましょう。




「仏教徒である前に、人間である。イスラム教徒である前に、人間である。キリスト教徒である前に、人間である。対話を通して、人間性という共通の大地に目を向け、友情が生まれれば、そこから互いの長所も見えてくる。学び合おうとする心も生まれるのだ」
            『池田大作名言100選』




 躍動する宗教



創価学会ほど劇的変化を遂げた教団はありません。第二次大戦中、当局の弾圧により初代会長牧口常三郎師が巣鴨拘置所で殉教を遂げ、二代会長戸田城聖師は、刑務所に収監されました。1960年に三代会長に就任した池田大作師は、10年も経ず、創価学会を日本最大の宗教に成長させたのです。





1975年には、SGI(創価学会インターナショナル)を設立し、世界宣教に力を入れ、1995年に定めたSGI憲章では、「仏法の寛容の精神を根本に他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」と、他宗教と対話、協力する方向に大きく舵を切りました。1993年には、日蓮正宗から独立し、巨大な「新宗教」として再出発したのです。





創価学会は、法華経や日蓮曼荼羅がもつ、旺盛な生命力、躍動感にあふれています。これが今日の発展をみた力の源です。信濃町の50棟におよぶ施設群、創価大学や各地にある文化会館などを見れば、この教団のスケールを実感できます。このパワーを背景に世界で展開する平和運動も、法華経の世界観が反映した雄大で人間性あふれるものです。





多くの人にとって、「新宗教」といえば、まず創価学会が頭に浮かぶでしょう。創価学会は、規模、知名度などからみて、人々の「新宗教イメージ」を形成している教団といえます。テレビの、創価学会、聖教新聞の紹介映像は、たいへん融和的ですがすがしく、明らかにこれは、国民の新宗教観を刷新しています。





特筆すべきは、公明党の存在です。公明党は700万票を上回る得票数をもつ政党で、自民党と共に日本の政権与党を構成しています。天理教が天理市を持つため社会と融和が進んだように、創価学会も公明党を持つことにより社会との融和が進んだのです。都市も政党も公共性が求められ、人々から注目され厳しい監視を受けます。教団中心主義は通じません。宗教は社会活動を通じ、他者を認める寛容さを身に着けることができるのです。





宗教団体が政党をつくることは、政経分離の原則に違反すると激しい批判を受けました。公明党は結党以来50年、日本の民主主義と福祉向上に貢献し、宗教が政党を通じ理想を実現することが、社会にとっても有益であることを証明しました。公明党のあり方は、宗教の公益性を国内外に示すもので、宗教界にとって好ましいことです。





 対話の宗教へ



池田名誉会長は、「地球の運命が一つになった時代に求められる人間像こそ、開かれた心で人類益のために行動する〈世界市民〉である。〈グローバル社会〉には、〈人間のグローバル化〉、〈民衆のグローバル化〉、〈心のグローバル化〉が必須条件である」と、開かれた心、人類益、世界主義を強調します。





池田師は世界各地で講演しました。1993年、ハーバード大学で行った「21世紀文明と大乗仏教」という講演は、宗教家であるにもかかわらず、西洋知識人の言葉を15箇所も引用する学術的な内容で、巨視的、本質的で、東西文明の調和を中心に据えたものです。





大乗仏教を紹介するならば、教義のエッセンスを紹介するだけでも足ります。それを東西の知識を駆使し、宗教と学術の両面から、大乗の教えの真価を西洋文明圏に問うたのです。まさにこれは、東洋文明と西洋文明の橋渡しを成す公演です。創価学会の平和創出へのスタンスは、「宗教」を超え、「文明の融和」を目指すものです。





また、創価学会は国際的視野をもつと同時に、アジアを重視します。世界のなかのアジア文明、アジア文明の中の日本という認識が明確で、日本人が陥りやすい「脱亜的発想」を克服しました。その認識の上に、東西文明の仲介役割を成しているのです。





一方、対話を重視します。聖教新聞の「寸鉄」には、「仏者は他者から学ぶ。“対話の宗教”会長がそれを体現。― 後継よ続け」という短句が載せられていました。「対話」こそ、今日の創価学会の思想と行動を理解するキーワードなのです。





池田師は、トインビー、ゴルバチョフ、キッシンジャーなど、多くの世界的識者、指導者と対話しました。「対話こそ人間の特権である。それは人間を隔てるあらゆる障壁を越え、心を結び、世界を結ぶ、最強の絆となる」と強調し、人が利己的な「少我」でなく宇宙生命に融合した「大我」に立ち、来るべき世紀へ「開かれた対話」に臨むことを提唱し、自ら実践しました。





長年続いた凄惨なアイルランド紛争も対話で解決できたのです。対話こそ、対立抗争する宗教を和解させ、疎遠な教団を接近させ、協力に導くことができる大道です。対話のスタンスは相互主義で、相手の宗教、思想を尊重することが前提になります。これは、異宗教の交流に求められる姿勢です。民衆レベルの宗教間対話を通して、世界平和を実現するために、21世紀を宗教対話、協力の世紀にしなければなりません。 





日本宗教融和のカギを握る教団



日本の宗教のなかで、日蓮宗は独特な立場にあります。過去、主要仏教教団のなかで、日蓮宗は特に有力な宗派だった訳ではありません。しかし戦後、日蓮系の新宗教が続々と生まれ、驚くべき成長を遂げました。いまや日蓮系教団抜きに日本の宗教を語ることはできません。





また日蓮宗は、他宗教と激しく教義論争を行った教団でもあります。仏教には慈しんで人を導く「摂受」と、間違った教えを論破し導く「折伏」という布教方法がありますが、日蓮宗では折伏を強調したのです。






しかし宗教は変化します。改革は宗教の真価があらわれる事象です。最大教団カトリックが、他宗教の価値を認め、協力する方向に転換することにより、世界の宗教が融和へと歩を進める大きな契機となりました。同じように、日蓮思想を受け継ぐ日本最大教団創価学会が、他宗教と対話、交流をめざす方向に転換することによって、日本宗教界も融和の道へと歩みを進めました。池田師は次のように宗教対話を提唱します。





  
「宗教間対話が実りをもたらすためには、互いの教義の比較や優劣を争うことに目を奪われてしまってはいけない。むしろ、現実の社会の問題を解決するためにどうすればよいのかという、問題解決志向型の対話を進めることが大切になるのではないだろうか」




宗教者が教義の違いを克服し、おなじ「人間」として対話し、友情を育み、宗教が協力して世界の問題を解決することを強調します。宗教はそれぞれの方法で人々に救いを与えており、違いはあります。宗教は、人類がかかえる困難を克服するため、「問題解決志向型の対話」に踏み出し、共同歩調を取らなければなりません。





創価学会という巨大教団が宗教の融和、協力を積極的に推進するとき、日本宗教界はおおきな輪を形成できます。そして、世界に尽くすとき、日本宗教が人類の悲願である恒久平和創出を先導することができるのです。    (永田)




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京都、奈良を救ったモルモン教徒 - 世界最大の新宗教モルモン教と日本の数奇な関わり -

モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)



日本で有名なモルモン教信者は、保守派の論客ケント・ギルバート氏と、女優の斉藤由貴さんがいます。モルモン教と日本のあいだには、一般に知られない、意外で重要な関係史があります。本論に入る前に、まず、教祖であるスミス師の言葉を紹介します。





わたしはすべての教派や宗派、門派に対して、この上なく寛大な気持ちを抱き、慈愛を感じています。そして良心の権利と自由を何よりも神聖に、また大切にしており、自分と意見が異なるためにだれかをさげすんだりしません。

 ジョセフ・スミス師.「アイザック・ギャランドへの書簡」




苦難の教団史



2011年のアメリカ大統領選挙では、熱心なモルモン教徒であるミッド・ロムニー氏が共和党の候補になりました。この事実が示すように、今日のモルモン教は、アメリカ社会に強い影響力を持つ宗教に成長しました。モルモン教の成功は、「アメリカ史の神話」と言えるような目覚しいものでしたが、それは過酷な迫害に耐え獲得したものです。




  
1829年、教祖ジョゼフ・スミス師が、天使から授かった金版の古代文字を訳したものが、末日聖徒たちの経典である「モルモン書」です。そこには紀元前600年ごろ、イスラエルからアメリカ大陸に渡来したユダヤ人の歴史が書かれてありました。





古代アメリカ大陸にユダヤ人の国があり、イエス・キリストが復活し、教えを広めたと伝えます。「モルモン書」は、善良なニーファイ人の滅亡期に、指導者モルモンが、後世の人々が正しい教えに従って生きることができるように書き記したものです。





ジョゼフ・スミス師は、1830年から伝道を始め、急速に信者を増やしました。ところが、教団が発展すると、人々から迫害され、拠点を次々に移さざるを得ませんでした。沼地を開拓し建設した2万人都市ノーヴーも、5年の年月をかけた完成目前の神殿を残し、街を去らねばならなかったのです。





1844年、スミス師は、いわれもない反逆罪の嫌疑をかけられ逮捕されたとき、反対者に牢獄を奇襲され殉教しました。39歳、モルモン教会を設立してわずか14年しか活動できませんでした。





理想郷ユタ州と宗教都市ソルトレーク・シティー



スミス師の殉教後、プリガム・ヤング師が後継者になり、おおくの信者をつれ西部に移動し、教祖の死後3年で、今のユタ州の州都ソルトレーク・シティーの場所にたどり着きます。





モルモン教のユタ州開発は、まさに、近代のアメリカ大陸で再現された出エジプト・カナン定着で、これを導いたプリガム・ヤング師は、モーセにも譬えられる伝説的指導者です。ユタ定着後、モルモン教は社会の偏見を克服し、着実に発展を遂げました。





今日のモルモン教は、日本の本州ほどの広大なユタ州を開発し、ソルトレーク・シティーは、2002年冬季オリンピックを開催するほど、先進的な宗教都市に変貌し、そこを拠点に世界宣教をすすめています。





天理教も同じですが、新宗教の宗教都市建設は、理想社会のモデルを示し、多数者と協調のもとでビジョン実現を図る未来戦略といえます。都市を発展させるためには、教団の目的と他者の立場を調和させる、開かれた融和精神が不可欠です。





ユタ州は、治安が良好で、出生率が高く、全米屈指の発展を遂げる州として注目されています。同州のあり方は、国家と宗教、双方の発展に貢献し、モルモン教の公益性を証明します。モルモン教は、超大国アメリカで影響力をもち、理想世界のモデルを発信する広大な土地を背景にもつ、世界の新宗教の中で最も勢力ある教団なのです。





日本のキリスト教解禁とモルモン教



日本にとってモルモン教は、明治初期のよい出会いからはじまり、昭和の困難な時代に日本を助けてくれた特別な教団といえます。このふたつの出来事は、日本の運命を左右した重大事で、モルモン教の歩みであると同時に、私たちが知るべき、日本・米国・モルモン教の関係史なのです。





1870年、日本政府は金融制度調査のため、伊藤博文をヨーロッパへ派遣しました。伊藤はサンフランシスコに上陸し、1年前に開通した大陸横断鉄道に乗って東部を目指しましたが、沿線に中継地としてモルモン教徒が開発したオグデンがありました。オグデンが鉄道交通の拠点となったことが、モルモン教発展の起爆剤となったのです。





伊藤は列車のなかで、モルモン教が発行した新聞の経営責任者であり、高位幹部の弟にあたるアンガス・キャノンと知り合いました。彼はモルモン教につよい関心を示し、アンガスから教団について多くの情報を得ました。伊藤は新政府の重鎮であり、イギリスへ留学し、英語に堪能な、日本の外交政策決定に強い影響力をもつ人物でした。この出会いが、日本の宗教政策を画期的に転換させる動きにつながるのです。





その一年後、明治政府は欧米へ大使節団を派遣します。これが有名な岩倉遣欧使節です。100名あまりの使節団は、日本国家の政策を決定できる人物たちが中心をなしていました。





大陸横断鉄道に乗った使節団は、2月4日、オグデンに到着し、モルモン教は歓迎の代表団を派遣しました。一行はすぐに東に向かう予定でしたが、ロッキー山脈の大雪のため、ソルトレーク・シティーで2週間足止めされたのです。





この2週間のあいだ、モルモン教は使節団に対して格別の待遇をしました。当時、モルモン教はアメリカの国内外から強い偏見の目で見られていました。モルモン教にとって外国使節を公式に迎えることは、教団イメージ好転の絶好のチャンスだったのです。





6日には、ソルトレーク・シティー市長主催で歓迎式典がおこなわれ、一行は市の主要施設を見学しました。そのうえ使節団は、滞在中に、ロング駐日米公使とともに、教会の最高指導者プリガム・ヤング師と3度にわたり面会したのです。





日本近代化の使命を担う使節団は、わずか25年で、ソルトレーク・シティーを近代都市につくりあげたモルモン教徒の強靭な精神力に関心を持ちました。また、2月21日発行された、東京日日新聞の記念すべき第一号、第一面には、ソルトレーク・シティーにおける報告記事が掲載されたのです。





伊藤博文は、アンガス・キャノンと再会し親しく交流しました。アメリカ人外交官は、伊藤がモルモン教に精通しているのに驚いたと伝えられます。





岩倉使節団はその後、ヨーロッパ諸国を視察しましたが、行く先々で、徳川幕府から引き継いだキリスト教禁令を解くように求められました。しかし、新政府の人びとの思想は、むしろ幕府より激しくキリスト教を敵視するものでした。ところが1873年2月、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し、200年以上守ってきた祖法であるキリスト教禁令を、使節団の外遊中に廃したのです。





アメリカにおける「新宗教モルモン教」のあり方は、使節団が、信教の自由を実見できる好例と言えました。2週間のあいだ、使節団はその実態をつぶさに目撃したのです。とくに伊藤博文は、モルモン教について詳しく知り、信教の自由の必要性を誰よりも認識していました。





日本は、このような流れのなかで、キリスト教を解禁したのです。一連の新政府高官とモルモン教との出会いは、近代日本の宗教自由化を後押ししました。1989年、伊藤が中心となり起草した明治憲法には、信教の自由が謳われたのです。





 京都、奈良を救ったモルモン教徒



太平洋戦争の末期、京都は原爆投下予定地となり、奈良など他の古都も空爆の危機が迫っていました。日本の古都空爆阻止に、上院議員であるエルバート・トーマスと、正岡勝という、ふたりのモルモン教徒が尽力した事実はあまり知られていません。





トーマス議員は日本で伝道部長を務め、日本と日本人を心から愛する人物でした。正岡は日系二世で、全米大学生弁論大会で2年連続優勝するほど優秀な人物で、トーマス議員の選挙戦勝利にも鮮やかな弁舌で貢献しました。正岡は20歳代中ごろには、全米日系市民協会の初代事務局長に就任し、野村駐米大使も、わざわざオグデンで途中下車し正岡に会うほど、日米のあいだで重きをなす人物になっていました。





1942年4月、古都空爆に危機感を持った正岡は、上院軍事委員会委員長の要職にあったトーマス議員に、日本の古都空爆禁止を相談しました。トーマス議員は、新日家のグルー前駐日大使や、岡倉天心の弟子で東洋美術学者のランドル・ウォーナー博士、そして正岡を加え会議を開き、その結果を大統領に進言しました。日本の文化財を救った古都空爆禁止指令には、この4人の重要人物の進言が大きな影響を及ぼしたと推測されるのです。





正岡は戦争中、ヨーロッパ戦線でアメリカのため活躍する一方、アメリカの全新聞社に「ジャップ」という蔑称を使わないように勧告するなど、日系人に対する米国民の感情を好転させる活動をしました。





戦後は、小笠原諸島返還に貢献し、1988年には、日米戦当時の日系人強制収容に対する議会の謝罪と国家賠償を推進しました。また、アメリカを訪れた日本の政財界人で正岡の世話にならなかった人はほとんどいないと言われるほど、日米友好のため尽力したのです。





日本政府は正岡に勲二等瑞宝章を贈り、古都の寺院は感謝状を捧げました。感謝状には、法隆寺、興福寺、西大寺、東大寺、唐招提寺、薬師寺の管長の署名がされています。





正岡勝やエルバート・トーマスは、国家を超えた普遍的価値観を持っていました。戦争という最悪の状況下であっても、宗教は、人に偏りのない判断を下すことを可能にします。





注目すべきは、京都や奈良の歴史的建造物はみな、仏教の寺院や神道の神社が中心を成していました。日本の古都を守るということは、外国、それも敵国の異宗教を守るということなのです。これを迷いもなく推進した背景は、冒頭のジョセフ・スミス師の言葉が示すように、モルモン教には、異宗教に対して偏見をもたず、慈愛を感じるほど寛大な気持ちをいだく、開かれた精神があったことを示すものに他ならないのです。





彼らは、国境と宗教の壁を越え、許しと寛容の思想を実践しました。宗教者はどこでも宗教の価値観を生かし、人々の憎悪を乗り越え、世界をより平和で幸福なものにすることができます。二人のモルモン教徒が日本に示した善意は、そのよい証といえるのです。      (永田)





《モルモン教豆知識》



① アメリカ政府は、モルモン教が憲法に違反する一夫多妻制をとっているので、軍隊を派遣して、教団を壊滅させようとしましたが、なんと、モルモン教側が巧みな戦術を駆使し、合衆国陸軍に勝ってしまいます。アメリカ政府は、仕方なく、ユタ州に軍隊を駐留させる条件で講和しました。しかし、この駐留がモルモン教の経済を大きく発展させたのです。




② ラスベガスを発見し、はじめて砦を築いたのはモルモン教徒でした。しかし、現地のインディアンに敗れ、ラスベガスを放棄しました。モルモン教にとってラスベガスは、白人で善なるニーファイ人を滅ぼした、有色人種で悪いレーマン人の子孫に敗北した、因縁の地でした。20世紀になり、ラスベガスの開発資金の大半はモルモン教徒が出資しました。ラスベガスとモルモン教は関係が深いのです。




③ ブローニングという銃の会社は、モルモン教徒のジョン・モーゼス・ブローニングが創始した会社です。また、デルコンピュータ―もモルモン教徒が起こした会社です。



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新宗教と伝統宗教のちがい

 伝統宗教が、「新宗教」だったとき


新宗教とは、ほぼ19世紀以降に創始された宗教で、日本は新宗教の力がたいへん強い国です。新宗教を知るには、伝統宗教と比較するのが近道です。なぜなら、伝統宗教もはじまりは新宗教だったからです。伝統宗教の歴史と現在を知ることによって、新宗教の未来の姿を想像できるのです。





まず、信者数に桁違いの差があります。キリスト教は22億、イスラム教は12億、ヒンズー教は8億、仏教は3億にのぼります。それに比べ新宗教は、創価学会やモルモン教でも1000万に及ばず、多くて100万、ほとんどの教団は50万以下という規模で、伝統宗教とは比較になりません。伝統宗教は1000年以上の歴史があり、「国教」として全国民が信者となった時代を経ました。その歴史によって培った勢力は世界にひろがる巨大なものです。





しかし、伝統宗教もはじめは一から出発し、苦難の歴史を歩みました。キリスト教が「新宗教」だったとき、イエス様は罪人として殺され、信徒はローマ帝国により凄惨な迫害を受けました。約300年間、キリスト教は人々を惑わす邪教として非難を受けたのです。イエス様ほど、死後にも激しく誹謗中傷された教祖はいません。





宗教は、宣教初期と、国家に公認された後では状況がまったく異ります。キリスト教は392年にローマ帝国の国教になり、ゲルマン民族移動後は、ヨーロッパの支配的宗教になりました。ローマのサンピエトロ大聖堂建立は、教団というより、ヨーロッパ・カトリック世界を挙げた事業でした。壮大な聖堂にはミケランジェロのピエタなど、歴史的な芸術作品群が安置され、その途方もない価値に圧倒されます。すべてはイエスキリストの栄光を称えるものです。伝統宗教は国家と一体化した歴史をもち、人々の霊性を高め、文化の発展に貢献し、国民精神を形成したのです。





日本仏教もおなじです。伝来初期は排仏派の物部氏の圧迫をうけ、寺院は焼かれ仏像は破壊され、尼僧は投獄され鞭打たれるなど、激しい弾圧を受けたのです。仏教が公認されてから150年あまり後、東大寺の大仏が建立されました。東大寺は華厳宗の本山ですが、聖武天皇の詔勅により国家的事業として建立され、庶民も汗を流し奉仕しました。国民統合を象徴するこの大寺院は、今日、国宝と重要文化財が安置され、多くの観光客が訪れます。





このように伝統宗教は、新宗教であったときには迫害を受けましたが、国家に公認されてからは人々を指導し、栄光を受け、精神的伝統の創造者になりました。





歴史的しがらみがない新宗教


一方、新宗教も、伝統宗教の初期のように、国家、社会から拒絶され、過酷な迫害を受けました。創価学会の初代会長牧口常三郎師は、当局の弾圧により1944年に獄死し、モルモン教の創始者ジョセフ・スミス師は、1844年、いわれのない嫌疑をかけられ獄に繋がれているとき、反対派に襲撃され殺害されました。奇しくも日本とアメリカの最大新宗教の創始者がそろって殉教しているのです。





この事実は、新宗教が直面した弾圧の凄まじさを物語ります。大本教や天理教なども弾圧されました。新宗教が認められ「市民権」を得るまでには、伝統宗教の時と同じように長い年月が必要でした。まさに歴史は繰り返すのです。宗教の真価が明らかになるのは、歴史の証明を待つしかありません。





また伝統宗教は、現代の幸福な世界をつくるのに多大な貢献をしました。しかし反面、さまざまな問題の責任もあるといえるのです。先に挙げた四つの伝統宗教だけでも、信者数は45億人あまりに達し、70億人類の二分の一を優に超えます。ながく人々を指導し、巨大な勢力を誇っても、いまだに平和な世界を実現できないのです。それは宗教の感化力が及んでいないことを示します。





反対に、新宗教は歴史が浅いので、現代世界の形成にさしたる貢献はしていません。しかしまた、歴史的な責任もない立場といえます。新宗教は、過去のしがらみのない立場から、新時代の平和メッセージを発信することができます。新宗教の課題は、宗教史の負の遺産を引き継がず、未来を志向し、人類のために、今、何ができるか、ということです。






伝統宗教の「光」と新宗教の「熱」


玄侑宗久さんは、臨済宗のお寺の住職の子息に生まれ僧侶になりました。瀬戸内寂聴さんは51歳のとき自ら望み天台宗の僧侶になりました。伝統宗教は多くの場合、家の信仰を継承するか、自ら決意して信仰をもちます。すなわち、お二人は、人生と世界の問題を考えたすえに、玄侑さんは伝統信仰の「光」を受け継ぐことにし、寂聴さんは伝統信仰の「光」を求め、そこに飛び込んでいったのです。伝統宗教には、歴史的伝統が発する「光」があります。





しかし、新宗教の基盤をつくった人々は、街角で伝道されたり、友人から勧誘されたりして入信した人々です。他者による働きかけで信仰をもつようになりました。彼らは、信仰の継承や、強い願望がないかわりに、突然、宗教的世界観に触れ、人生に二度ない精神の高揚を体験しました。ですから、自分が信仰をもっていることは、神や仏の「一方的恵み」と感じます。それは、自然に、つよい感謝の念と奉仕の心を生みます。





新宗教は歴史もあさく、「新興宗教」という差別的な用語で呼ばれ、信者というだけでも社会でハンディーを負うこともあります。しかし信者は、神や仏、永遠を知った喜びに満たされ、伝道の情熱もあります。その心の高揚と、社会的逆境を克服し、教団を発展させるため、自然に「熱」を帯びます。





伝統宗教は、出家者、牧会者が強い指導力を発揮し、多くの場合、信者は、個人として、宗教的真理を実感することや、教団に対する奉仕を要求されません。救いも指導者に依存します。日本の伝統的仏教のあり方などはその典型です。





しかし、新宗教の信者は、個人として、神や仏、永遠の命を知り、救いを実感し、人々に証すこと、また、程度の差はありますが、伝道や社会貢献なども求められます。信者が熱を帯びて語り奉仕するのが新宗教の特徴です。





伝統宗教と新宗教の協力が世界を救う


伝統宗教は人類を救うスケールをもちますが、目的を達成できていません。新宗教は布教に励んでいますが、世界を救えるスケールはないのです。人類の救済は、伝統宗教と新宗教が分裂していては成し遂げられません。





宗教の目的は人類救済で、すべての教祖はそのために苦難の道を歩みました。必死に人類を救おうとした教祖が、宗教協力に反対するはずはないのです。今や、伝統宗教の「光」と新宗教の「熱」を一つにし、人類救済の共同ビジョンを産出し、共に行動することが求められます。





これから、いくつかの新宗教を取り上げますが、紹介すべき教団はたくさんあります。ここで取り上げられなかった教団については、各団体のホームページなどをご覧ください。新宗教の信者は、教団発展のため苦労しました。宗教とは信者の苦労の体系です。これは現代史の重要な1ページを占めるのです。



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