宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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東アジアの知的エリート・士大夫、日本に誕生す!  ー儒教が仏教から独立ー

1.湯島聖堂完成直後、儒学者は仏教から解放



元禄4年(1691)、綱吉は、儒官筆頭の林信篤に束髪を命じ、従五位下に叙し、大学の頭と改称させました。このときまで、儒官は、幕府儒官の長である林信篤でさえ、常春という僧名を名のり、髪を剃り、僧位を授けられていました。





湯島聖堂完成直後に、儒学者の処遇は改善され、綱吉の聖堂参詣に随行した林信篤は、「僧」から「儒者」に変わっていました。僧形、僧名、僧位の儒学者では、儒教の権威を損なうしかなかったのです。





 2.家康の儒教政策を大改革



儒学者を仏教に従属させる扱いは、初代将軍、家康が定めたものです。ですから、儒学者の処遇改革は家康の意向に背き、87年ものあいだ引き継がれた徳川幕府の儒教政策を、根本からくつがえす措置でした。




綱吉の改革は、日本における宗教の在り方を転換させました。これによって日本人儒学者は、東アジア儒教国家の伝統的知的エリートである、「士大夫」として、自らを世に示せるようになったのです。





 3.中・韓の士大夫と日本は別物



士大夫といっても、日本と東アジア儒教国家では社会での地位が大きく異なりました。中国や韓国の士大夫とは、儒教を思想的背景とする支配階層のことです。両国では、科挙に合格し君主に重用された士大夫は、高い地位と権力、広大な土地と莫大な財産を所有しました。中国には、「本のなかに官職、金、美女、全てがある」ということわざがありますが、これは真実でした。





徳川幕藩の体制は、幕府が優越した権力を持ちましたが、各藩主も独立した支配権を持ち、藩主の地位は世襲されたのです。これが幕藩体制の構造で、儒教国家のような、儒者が絶大な権力を持つことになる科挙制度の導入は不可能でした。





日本では、綱吉の儒教奨励政策により、儒教が尊重されるようになっても、儒学者はほとんどの場合、学問を主とする限られた役割しか与えられませんでした。新井白石は例外的に権力を持った儒学者でしたが、広大な土地や莫大な富はありませんでした。幕府儒官の頂点にあった林家ですら、旗本のひとつに過ぎなかったのです。





綱吉代から儒教は武士の必須の教養となり、広く庶民に伝わり、日本は上下を挙げて儒教を尊重する国になりました。それには儒学者の貢献が求められ、日本の士大夫である儒学者は権力や富はありませんでしたが、儒教の理想を継承し、人々に孔子が示した徳の道を教える、教育者の使命を立派に果たしたのです。それが日本の清廉な儒学者たちでした。    (永田)



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儒教があふれる北京・ソウル、儒教がない東京 -湯島聖堂建立の意味-

 1.孔子廟(湯島聖堂)建立は国家的事業



綱吉は将軍宣下から9年間、幕府儒官の筆頭である、忍岡の林家邸内にある孔子廟を訪問しませんでした。父の家光も参詣したのですから、儒教を尊重する綱吉が、9年ものあいだ孔子廟を参詣しなかったのは異常なことです。



おそらく綱吉は、この孔子廟が、儒教の祖・孔子を祀るにふさわしいものでないと考えていたのでしょう。それはまた、綱吉が、新孔子廟建立を早くから考えていたことを示唆し、儒教主義による法律の整備後に、孔子廟を建立するという、儒教奨励政策の長期プランの存在を推測させます。




林家邸内の旧孔子廟は、寛永9年(1632)、尾張藩主徳川義直の援助によって建てられました。綱吉はこれを「私造」で「狭隘」、すなわち一大名が建設し、かつ規模が小さいと指摘しました。私造としたことからは、この孔子廟に対する不満と、逆に、新孔子廟である湯島聖堂は「公的」なものであるという認識が示されています。



「忍岡の地は寺刹に逼近し」とも言い、聖堂建立が、儒教を仏教から分離し、独立させる狙いがあることもうかがえます。




湯島聖堂建立に際し、御三家など、有力大名76家が、典籍、祭器などを献じました。すなわち、新孔子廟建設は、徳川幕府を越え、幕藩体制を挙げた事業、すなわち国家的事業となりました。



綱吉は、孔子像が祀られる大成殿の扁額として掲げるため、自筆の「大成殿」の額字を書く一方、聖堂ちかくの相生橋を孔子の生地、山東省の昌平にちなんで「昌平橋」と改称させました。



そして大掛かりな警護と、厳粛な儀礼とともに、孔子像を林家学寮から聖堂の大成殿に遷したのです。湯島聖堂はこのような措置により、人々から注目され、その権威も高まったのです。




元禄3年(1691)12月、聖堂は完成し、翌年2月11日には綱吉が参詣し、孔子を祀る典礼である釈奠を主催し、自ら儒教経典を講義しました。この孔子廟は、権威、規模において「国教の殿堂」にふさわしいもので、徳川幕府の儒教奨励と教義研究の中心になりました。





 2.湯島聖堂は、儒教の精神世界と権威を示す



孔子廟は、朝鮮王朝、明朝などと日本では、儒教のシステムのなかに占める役割に違いがあります。東アジア儒教国家では、官吏登用のため、儒教を主科目とする「科挙」があり、儒教で権力の配分が成される制度がありました。



王宮や霊廟、天を祀る祭壇なども、儒教思想を反映しており、これらの国には、儒教の精神世界と権威を示すものが溢れています。しかし、日本での儒教の権威は、社会制度や文化、権力の在り方などから発信されるものではありませんでした。




東大寺のような壮大な寺院は、仏教の精神世界を表すとともに、仏教の権威を示すものでもあります。それと同じように、日本では、儒教の精神世界を表し、権威を誇示する壮麗な孔子廟が必要とされたのです。



綱吉は、自身が儒教講義を本格的に開始する前に、湯島聖堂を建立しました。孔子廟が、幕府の統治理念にふさわしいものでなければ、自身がおこなう講義も、儒教の精神世界と権威的象徴を背景としない、安定を欠くものにならざるを得なかったのです。



綱吉死後も、湯島聖堂は儒教の精神世界を表象し、権威を発信し続けました。のちに、綱吉ほど強力に儒教を奨励した将軍は現れませんでしたが、湯島聖堂の存在が、綱吉の儒教政策を継承させるのに重要な役割を果したのです。





 3.東アジア儒教国家と日本のちがい



それはまた、現代の日本で、儒教の影が薄いのは、儒教を表すものがほとんど存在しないことがひとつの理由だということが分かります。中国や韓国では、至る所で儒教的なものに出くわします。



そもそも、首都の北京やソウルは、儒教思想により都市が設計されたと言っても過言ではありません。これらの国を観光すれば、長く両国の国教であった儒教の歴史が迫ってきます。




それに比べ東京では、湯島聖堂にでも行かないかぎり、儒教を感じることはできないのです。今日、日本人の儒教に対する観念は、書物に書かれた孔子の人生訓というものでしょう。私達は江戸時代の200年余り、儒教がこの国の統治理念であったという厳然たる事実を踏まえ、儒教の重要な位置と役割を認識して、正しい日本史観を創出するべきだと思います。 
                                                                    (永田)



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江戸城、巨大な大学と化す! ー熱血教師綱吉の奮闘ー

1.世界史のユニーク現象・最高権力者による宗教教典の講義



日本の執権者である、徳川綱吉が、江戸城において、300名以上の大名、旗本らを集め、自ら儒教経典の授業をしたことをご存知でしょうか。綱吉は、さまざまな形の儒教講義を400回あまりしました。これは、執権者であった聖徳太子が、自ら仏典を講義した以来の出来事といえます。これも、見たくない人物がしたことなので、見なかった重要な歴史的事実です。私たちは、江戸・元禄時代に、一人の徳川将軍が、熱心に儒教を講義したという稀有な事実を、正しく評価すべきです。





綱吉による儒教の講義は、権力者自身が人々に宗教の教理を教育するという、世界でも極めてユニークな宗教奨励でした。外国ではふつう、権力者や指導層は、受容しようとする宗教について深い知識がなかったため、教育者を外国から招請しました。ヨーロッパではカトリック教会が、キリスト教導入をのぞむ国に教師を派遣しました。仏教もおなじで、仏教が隆盛していた国の僧侶が、仏教導入をのぞむ国に赴き仏教を教えたのです。





 2.仏典を講義した聖徳太子、儒教を講義した綱吉



日本は、古代の仏教受容のとき、執権者であった聖徳太子自身が、推古天皇に仏典を講義し、仏書を著しました。おなじように、江戸時代に、儒教を国家統治理念とするとき、執権者である綱吉が直接、儒教の教義を講義したのです。日本は、仏教と儒教の受容、奨励期の執権者が、ともにその宗教教義をよく知っていたのです。これは、日本における、世界宗教の受容環境の特殊性によって生じた現象で、世界宗教の受容・奨励における、権力者の役割の大きさを示すものです。





日本は、キリスト教、仏教、そして儒教など、世界宗教の発信地から遠く離れ、世界宗教を受容した帝国の勢力圏外にありました。そのため、日本のなかに、世界宗教の受容、奨励を請負う、権力者が必要とされたのです。





彼ら宗教伝播の「請負人」は、先にその宗教を受容した、帝国からの影響力行使や支援がなく、国内にも理解者が少なかったため、強固な信念や信仰、また大胆な行動が要求されました。儒教の発祥地である中華帝国と断絶状態にあった徳川時代、儒教奨励の請負人である綱吉が、重要な役割を担ったことは、日本の置かれた状況においてはむしろ必然でした。





 3.なぜ、綱吉は自ら講義したのか?



綱吉の儒教講義は、元禄3年(1690)『大学』の講義に始まり、『徳川実紀』に記録されただけでも300回以上にもおよび、受講者は公家、大名、旗本、役人、宗教者など多彩で、ときには342人の大名、役人に講義することもありました。





幕府に、儒官がいたにもかかわらず、あえて綱吉が儒教を講じた理由は何だったのでしょうか? 綱吉の儒教講義の目的は、人々に儒教を尊重させ、日本に儒教の権威を確立することでした。孔子廟である湯島聖堂を建設し、日本の最高法である武家諸法度を儒教主義で改正し、儒官を仏教から独立させるなど、一連の儒教整備政策によって、目に見えるかたちの儒教の権威は確立しました。しかし、当時の武家社会では、「武」を至高の価値とし、儒教をキリスト教のような外来思想として、警戒、軽蔑する傾向が根強く存在したのです。





綱吉後に、2人の将軍を補佐した儒学者の新井白石は、儒教が国民に学ばれるようになったのは綱吉以後で、それ以前は高位の人物も、儒学徒をキリシタンと同類視するほど偏見を持っていた回想しています。長くそのような通念があった社会で、武士に儒教を、心から尊重させることは容易なことではなかったはずです。





綱吉の儒教講義の意義は、「将軍が儒教を講じた」ということに尽きます。日本においては、「文・武」の葛藤、両者の軽重の問題が根強く存在しました。武家社会では「武」が上位で「文」は下位に位置する概念です。そのような中で、武士にとって、いわば「別人種」である文人の儒官が儒教を講義しても、文、武の逆転はできません。





 4.「武」の幕藩体制で、「文」の儒教の権威が確立



将軍は征夷大将軍、すなわち「武家の棟梁」であり、すべての武士の最高権威者です。綱吉は、儒教の講義の際、儒教経典を丁重に取り扱い、うやうやしく書箱から取り出し、両手で頭上に戴いた後に、講義を始めました。このように、「武」の頂点に立つ将軍が、儒教を尊崇し講義すること自体が、明確に、「武」が「文」を上位に戴いたことを意味し、文・武の上下秩序が確立できたのです。綱吉が講義する限り、受講者は儒教の権威を認めざるを得ないし、命じるままに教理を学ばざるを得ませんでした。厳格な権威主義体制下において、将軍が行なう儒教講義の効果は計り知れないものがあったのです。





東アジアの儒教国家と比べ、武家支配の日本の体制は、儒教の理想と矛盾しました。しかし、幕藩制を廃し、東アジア儒教国家のような体制に転換することは不可能です。どこまでも、日本的体制のなかで儒教を奨励しなければならず、綱吉はこの枠の中で、将軍としてでき得るかぎりの奨励方法を模索しました。自ら儒教経典を講義するという型破りな方法でしたが、それは、幕藩体制下においては、「究極の奨励方法」であり、彼は情熱を傾けてこれに臨んだのです。  (永田)




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黄門様はホームレス殺し -戦国殺伐の風習-

1.見たい歴史の常識を疑い、見たくない歴史を直視すること



「黄門さまはホームレス殺し」、何のことやら分からないと思います。水戸黄門ファンにはショッキングなことかも知れませんが、光圀の素顔の一部を紹介します。見たいものを見て、見たくないものは見ない日本人の歴史観から言うと、黄門さまは見たい歴史人物の代表といえるでしょう。




 見たくない人物である綱吉の、見たくない政策である「生類憐みの令」は、当時の社会にはびこる、乱暴・殺人を何とも思わない、「戦国殺伐の風習」を解決するためでした。山室恭子氏の『黄門様と犬公方』は、綱吉を評価する研究ですが、光圀の行動には、この時代の問題を知る、さまざまな重要な意味が含まれます。光圀の証言の部分から、引用します。





わしがどこからかの帰りに夜更けて浅草の御堂で休んだ折のこと、連れのひとりが、この縁の下に非人どもが寝ておるぞ、引き出して刀の試しにしようと提案した。つまらぬことをおっしゃる、どうして罪なき者を斬れようか、無用なりと退けたのだが、臆病者と嘲られたので、そうまで言われては是非もない、いで私が非人を引きずり出して見せようと、真っ暗な縁の下へ這い入った。非人が四五人ほども寝ていたであろうか、私どもはこんなありさまになっても命は惜しいのに、どうしてかような情けないことをなさるのですと皆奥へ逃げて行くのを、私もそう思うが連れが無理を言うのでやむをえんのだ、前世の宿業とあきらめよと、手にさわった一人を引っ張り出して斬った。そののち、こんな心根の者とは思わなんだと、くだんの友人には絶交を申し渡したことであったよ。
(『玄桐筆記』第七十段)





すさまじい光景である。「いかに情けなき事をし給ふぞ」と手を合わせながら逃げて行く非人たちを掴まえて、「人有りて無理を言はるれば、詮方なし、よくよく前世の業と思へ」、ただ刀の試しにするためだけに無惨にも斬り捨てる。しかも、光圀は自らの振る舞いを決して居心地良くは感じていないものの、隠すほどの悪事とはつゆ思わず、囲炉裏端の回想談として家臣たちに得々と語っている。このすさまじさが、あの時代の通常の感覚であったのだ。人の命を刀の試しにしても何ら痛みを感じない。この感覚がふつうであったのだ。





こうした状況こそ、綱吉の目に「不仁にして夷狄の風俗の如き」と映じたものだったのではないか。どうにかして、この悲惨な現状を変革せなばならぬ、そのためには「仁心」の涵養だ、生きとし生けるものの命を尊ぶことを教えることだと、そんなふうに彼は生類憐みの政策へと導かれていったのではあるまいか。



『黄門様と犬公方』ほど、元禄時代に残っていた、凄まじい戦国殺伐の風習と、綱吉の儒教と仏教、すなわち儒・仏奨励政策の意義を雄弁に解明した研究はありません。





日本人の歴史観は、見たいものだけをみる。徳川光圀は見たいものなので、すべて美談に加工し、繰り返し見る。しかも、光圀自身のことであっても見たくない部分は見ない。ですから、とんでもない虚構の「黄門さま」が誕生してしまいます。黄門さまは、かよわい庶民の味方で、綱吉や柳沢は悪の権化、諸国を行脚して悪を裁く。これでは、この時代の真実は分かりません。見たいものを見る歴史観は、ほぼ日本史のすべてに適用されます。それは歴史の真実ではありません。見たい歴史を疑い、見たくない歴史の真実を直視しなければなりません。





また、光圀は儒教を尊崇しましたが、反対に仏教は大弾圧を加えました。領内の数千の仏教寺院を廃しました。もしも、幕府の儒教政策が光圀と同じようなものだったら、日本における仏教は大きく後退したでしょう。そして、日本における、宗教間対立は深刻なものになり、その後の歴史に影響したことでしょう。綱吉は、儒教を強力に奨励しましたが、仏教もそれに劣らず奨励しました。彼の宗教政策は、儒・仏同時奨励でした。それにより、日本人の宗教観は寛容なものになったのです。





 2.元禄の世と儒教



一般的に綱吉の将軍在職期間を元禄時代といいます。この時代は流通経済が飛躍的に発達するとともに開放的な文化が花開く、経済、文化の興隆期でした。京、大阪、江戸を中心とする人と物の交流により、そこで巨富を築いた豪商たちや、優れた文人たちが活躍し、町人層が台頭して新しい都市文化が誕生しました。





一方、元禄の社会は深刻な問題を内包していました。華やかさの中に、甚だしい貧富の差が存在し、家康以来155家の大名が取りつぶされ、不満を持つ浪人たちが全国に40万人にも達しました。戦国、安土、桃山とつづいた戦乱の時代は未だ人々の記憶と感性に強く残り、巷には不法をはたらく無頼集団「かぶき者」が跋扈しました。暴力が横行し、些細な争いから、あるいは単に面白半分に抜刀し殺人に及ぶ事件も多発したのです。社会に存在するこれら暴力と混沌は、退廃の風潮とともに、為政者にとっては看過できないものでした。新将軍綱吉が直面したのはこれら社会問題の解決でした。





「泰平の世」は徳川の天下となり単純に訪れたものではありません。開幕から11年後の慶長8年(1603)には大阪の陣がありました。その後は、激しいキリシタン迫害時代が続き、家光代には島原の乱が勃発したのです。家綱代は、文治統治に転換したと言われますが、幕府転覆を謀る由比正雪事件が起き、明暦大火は、江戸市中の6割が焼失する戦乱を上回る被害をもたらし、「かぶき者」が引き起こす騒動も深刻化しました。





幕府転覆の陰謀、暴力、かぶき者問題などの根底には、人々の価値観の喪失という問題がありました。天下は統一され、戦乱は過ぎましたが、新しい時代を支える確固たる思想がなく、幕府はどのような価値観で国民を導いてよいか分かりませんでした。かぶき者の中には「旗本奴」と言われる幕府上層の人々もいたのです。キリシタン弾圧のために優遇された当時の仏教界には、時代の問題を解決する力はありませんでした。幕政初期は決して、泰平の世と言える時代ではなかったのです。





綱吉は、戦国動乱以来行き場を失っていた人々の心を、アジア伝来の普遍的思想である儒教を奨励することによって安定へと導こうとしたのです。元禄時代は、幕府の力は充実し、権力は理想主義者で実行力ある将軍に集中し、社会は新しいものを受け入れる気運に満ちていました。明朝、朝鮮王朝においては、儒教を王朝の出発期に国家を精神面から支える建国理念として採用しました。それに比べ日本は、幕府開府から約1世紀遅れ、経済、文化の隆盛期に、時代に求められる精神として本格的に受容したのです。





 3.東アジア儒教国家からの影響


江戸時代の儒教は、東アジア儒教国家から多大な影響を受けました。朝鮮の儒教書籍は室町時代から輸入しましたが、文禄・慶長の役によって大量に日本に運ばれ、これら「朝鮮本」を底本として覆刻、翻刻が盛んに行なわれたのです。儒教は、超越者に対する祈りという宗教的行為がなく、諸経典の学習が基本で、儒教ほど書籍に頼る宗教はありません。朝鮮書籍が、日本の儒教発展と普及に果たした役割は計り知れません。





朝鮮王朝の儒学者である姜沆(1567-1518)は、文禄・慶長の役により、日本に捕虜として抑留されていた人物です。藤原惺窩はこの姜沆と親しく交流し、思想上の影響を受けました。惺窩は家康に招かれ儒教を講義することになり、後に幕府儒官になることを要請されましたが、断わり、かわりに弟子の林羅山を推薦しました。この羅山の儒教も、朝鮮儒教から多くを学んだのです。徳川幕府の儒教には、姜沆―惺窩―羅山という流れが存在しました。





師弟関係を辿れば、藤原惺窩の弟子は松永尺五、その弟子の木下順庵門下から新井白石、雨森芳洲などが輩出し、かれらは姜沆と繋がっているのです。捕囚であった一人の儒者が日本儒教に与えた影響は大きなものがありました。 





朝鮮通信使は新将軍就任のたびに朝鮮王朝から派遣され、綱吉以前にすでに6回日本を訪れました。通信使との交流には、儒学者が中心的役割を果たし、彼らはとくに、朝鮮の儒学者李退渓に関心が深く、その学問や人となりについての情報を得ようとしました。日本の儒学者にとって、通信使との接触は儒教についての新知識と刺激を得られる絶好の機会だったのです。





一方、中国からの亡命儒学者である朱舜水(1600-1682)は、水戸藩主徳川光圀の賓客となりました。光圀は、朱舜水に対面した際、篤く弟子の礼をとったといわれます。江戸の水戸藩邸に住んだ朱舜水は、安積澹泊など水戸学派の学者と交わり、後に庭園の設計、築造に協力し「治者は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」という中国古典の一節を取り、「後楽園」と命名しました。





彼は水戸学派の思想に影響を与えただけでなく、広く日本の儒教、日本人の中国認識に影響を与えました。また、当時の儒学者の間では、中国語学習が流行し、綱吉も柳沢邸で中国語による儒教経典の問答を聞きました。





宗教の交流は政治、文化の交流も伴います。日本は儒教の先輩国である韓・中両国から新しい儒教を学ぶとともに、これらの国での儒教の在り方、明から清にかわる中国の状況などの情報を得ることができたのです。この時代は、日本と東アジアとの文化、学術、国際情勢などの情報交流に、儒教が媒体となり儒学者が重要な役割を担いました。





それにより、江戸初期の儒教は発展しました。しかし、幕府の儒教政策は、後代まで威光を放った家康のものをほぼ忠実に踏襲するもので、外部の動きが幕府の儒教政策を変更させる力を持ちませんでした。なぜなら、幕府理念政策は徳川宗家である将軍家が担うもので、他の干渉を受けるものではなかったからです。徳川幕府の儒教政策転換は幕府の外からの影響ではなく、その中心から起こらなければ実現できないものだったのです。
                                                                  (永田)



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キリスト教・仏教・儒教における「武」のちがい

 1.家康、藤原惺窩から儒教を学ぶ 



話しは80年ほど遡ります。文禄2年(1593)、徳川家康は肥前名護屋に儒学者藤原惺窩を招き対面し、同年12月より、江戸で、惺窩から唐時代の政治書である『貞観政要』の講義を受けました。





時は、前年より文禄・慶長の役が開始されていました。秀吉が、隣国と自国民の不幸を顧みず征服という「覇道」に突き進むなか、家康は高名な儒学者を招き、「王道」の思想である儒教を本格的に学ぼうとしたのです。これは、関が原合戦(1600)から7年も前のことで、彼は権力者になる前に、儒教にかかわる様々な事柄について知り、考察する時間がありました。





藤原惺窩は、朝鮮の儒学者姜沆から学び、朱子学について、また東アジアでの儒教の在り方について深い知識をもつ人物で、家康が惺窩から得た情報は極めて貴重なものでした。





徳川幕府の開幕後、家康は、儒官の任用や儒教書籍の出版、足利学校内の孔子廟改築、京都伏見の学校開設、江戸城内の文庫建設などの儒教政策を実施し、儒教は幕府のなかで一定の地位を獲得することになりました。長いあいだ、一部貴族の家学、臨済宗の五山で学ばれる学問として埋もれてきた儒教が、徳川幕府に取り入れられることによって、表舞台に登場したのです。





 2.仏教に従属した儒教



しかし、その儒教政策は臨済宗僧侶である閑室元佶が多くを担当し、おなじ臨済宗僧侶である崇伝なども参与しました。家康自身も敬虔な仏教信者であり、政策ブレーンも儒学者の林羅山よりも僧侶である崇伝や天海などを重用しました。





また、孔子廟は地方にある足利学校のものを整備するに止め、儒学者の髪を剃らせ僧形とし、僧名、僧位を与える中世の儒学者処遇を踏襲しました。幕府の最高法である「武家諸法度」には、儒教の思想はほとんど反映されず奨励策は消極的だったのです。





東アジア儒教国家では、儒教主義に立つ法律、孔子廟や天を祭る天壇、そして科挙制度や学校などが国家によって整備されました。明では建国以前にほとんど整えられ、朝鮮王朝では建国後次々に整えられたのです。





 3.儒教が徳川幕府の統治理念になる4つの条件



日本において、儒教が徳川幕府の統治理念になるには、次の4つの条件が必要でしょう。



① 儒教の思想が徳川幕府の最高法である武家諸法度に反映される。



② 権威ある孔子廟が建立される。



③ 儒学者に固有の地位が認められる。



④ 人々に儒教を学ぶことを奨励、教育する。




このような条件を備えない江戸時代初期の儒教は、仏教に従属する、不相応で不名誉な状態に置かれ、とうてい統治理念などとは言えないものでした。 





家康の消極的政策の理由は、儒教思想と武家政権は矛盾する部分があるということを知り、儒教に枠をはめたものだったと思います。国内情勢も、「文」優位、平和主義の思想である儒教奨励にはそぐわない厳しいものでした。





 4.儒教は武断統治と両立しない



家康の将軍宣下が慶長8年(1603)で、彼が儒教政策を推進できた時間は元和2年(1616)の4月に死を迎えるまでの13年間でした。この期間は、高い権威を持ち、巨大な大阪城に居を構える豊臣家問題に直面していました。大坂の役は家康が死ぬ前年のことです。老年の家康は、未だ幕府体制が磐石でないまま、20万もの大軍を動員する「大阪の陣」を準備しなければならなかったのです。





武家政権である徳川幕府が、武家であり公家でもある豊臣家を倒す論理は、力あるものが天下を治めるべきであるという「戦国の論理」でした。また、幕藩体制は、大名が軍事力を保有し、各領地を統治する体制で、幕府は彼らを圧倒する武力が必要です。家光代まで、国情は不安定で、幕府は武断統治を行ないました。武断統治と儒教は両立しないのです。





 5.「武」に対する、仏教、キリスト教、儒教のちがい 



諸行無常のインド的・仏教的思想は、世俗における力や権力の役割を相対化し、超越します。聖徳太子は「世間は虚仮なり、唯仏のみ真なり」と考えました。仏の世界を「真」とし、現世を「仮のもの」とする仏教は、俗世界を超越し、どんな国家体制でも、聖、俗を分けることによって共存できます。貴族支配の国であろうと武人支配の国であろうと、それは「俗」なる仮の世のことで、「聖」である仏教とは関係なく、統治者が仏教を奨励すれば、仏国土になります。仏教は、武家政権である徳川幕府と棲み分けが可能なのです。





西洋・キリスト教的思想は、正義は、悪と戦うため力を持つのが義務で、力を積極的に肯定しました。キリスト教はローマ帝国に受容された時から、強い召命意識と、力を崇拝するギリシャ・ローマの思想が結び付き、宗教が国家防衛と領土拡張に貢献することは「聖なる使命」であると認識されました。十字軍は、十字架を描いた武具を着、十字架の旗を掲げアジアに遠征しました。キリスト教国の力は、キリスト教の栄光でもあるのです。この思想が信長とキリスト教が結び付くことができた背景です。「力を重視」するキリスト教や、「力を超越」してしまう仏教は、武家政権との両立が可能なのです。





ところが儒教は、「力」や「武力」を蔑視する思想傾向を持ちます。『論語』に「子、怪力乱神を語らず」という言葉がありますが、孔子は、奇跡、力、戦争、霊魂を忌避しました。孟子により王道、覇道という概念が生まれ、「覇道」である武力やその行使は更に軽視されるようになったのです。





儒教国家の担い手である文臣は、国を儒教で統治する任を負い、「必要悪」である戦争は武臣が担当しました。今日でも、中国や韓国の博物館には、日本やヨーロッパと違い、武器や武具類がほとんど陳列されていません。儒教思想では戦争に関るものは忌むべきものなのです。





このように、霊魂、来世を問題にせず、世俗に重きを置き「力」や「武」を忌避した孔子以来、儒教は世俗の在り方としての「政治」と、武を抑制する価値観としての「文」、すなわち「文治」を重視したのです。これらの国では、乱をしずめ治に至れば、乱を引き起こす可能性を持つ「武」は警戒され、武人に力を与える対外侵略は極力避けました。中国や朝鮮王朝の政治はこのような立場に徹していたのです。





明の洪武帝は恐るべき専制君主でしたが、それは個人の問題で、体制としての明朝はどこまでも「文絶対優位」の国でした。精悍な満州族によって開かれた清朝も、儒教を国教とし、すっかり文の国に変貌してしまいました。このような性格を持つ儒教を、武人政権である徳川幕府が、未だ政権基盤が安定しない幕政初期に積極的に奨励することは困難だったのです。





 6.綱吉のみ成し得た儒教奨励政策



家康は儒教を尊重しましたが、統治理念とするに足る政策を行うことなく曖昧な立場に留めたため、儒教をどうするかは後継者たちの課題となりました。2代秀忠、3代家光、4代家綱と将軍職が継承されましたが何れの将軍も儒教に強い信念を持つ人々ではなく、儒教を幕府の統治理念とする政策は綱吉が現れるまで推進されることはなかったのです。





家光の時代、幕府儒官の林家邸内に、孔子廟と学寮の建設が行なわれ、政治の中心である江戸に孔子廟が設けられました。そこで孔子を祀る釈奠を復活させたことも意義あるものでした。しかし、この孔子廟は規模が小さく、どこまでも林家の「私的」なもので、建設も幕府ではなく、尾張藩主徳川義直が推進しました。しかも、家光は孔子廟を訪れる際に、東照宮詣の帰りに立ち寄るという、孔子廟参詣をついでのものとするかたちをとりました。このような孔子廟の扱いは、幕府における儒教がいかに曖昧で不安定な立場であったかを象徴します。





綱吉の儒教奨励は、絶大な権力を背景に推進したので、難なく達成されたように感じますが、儒教政策を進めるには、儒教思想と矛盾する武家支配の在り方という、体制、理念問題が絡む障害を乗り越えなければなりませんでした。換言すれば、幕藩体制下での儒教奨励は、儒教に強い信念をもつ人物が専制的権力で推進しなければ達成できないものだったと見ることができるのです。         (永田)



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