宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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『緋色の研究』とモルモン教

Coffee Break 2編



『緋色の研究』とモルモン教



緋色の研究 (A study in Scarlet)は、1887年、貧乏な医者コナン・ドイルの、ようやく掲載が決まったシャーロックホームズの一作目です。モルモン教に対しひどい偏見に満ちた内容で、ジェレミー・ブレッド主演のBBC放送のホームズシリーズでは、ホームズと相棒のワトソンが出会った大事な場面があるにもかかわらず、あえて制作されなかったほどです。例をあげれば、こんな調子です。


いちど迫害の犠牲になった人たちは、こんどは勝手に迫害者のほうへと鞍がえした。スペインのセリビアの宗教裁判、ドイツの夜間秘密裁判、イタリアの秘密結社といえども、当時ユタ州を暗闇にとざしたこのおそるべき制度には比ぶべくもなかったほどである。 (訳延原謙)




モルモン教は、ブローニング銃を開発し、アメリカの安全保障に貢献し、デルコンピュータ―もモルモン教徒が創始しました。モルモン教徒が開拓したユタ州は、発展し安全な州として知られ、2002年には州都ソルトレイクシティーで冬季オリンピックを開催しました。モルモン教はアメリカに大きく貢献した宗教なのです。それにしても、130年以上ものあいだ、恐怖のテロ宗教と伝えた世界的ベストセラーで、モルモン教がどれほど誤解されたでしょうか。保守の論客ケント・ギルバート氏はモルモン教の熱心な信者です。





聖・ひじり



「ひじり」とは、天皇、高徳の僧、そして諸国を遊行する僧など、実に意味がおおい言葉です。庶民にとって「ひじり」といえば、遊行僧です。家がないのだから「乞食坊主」ともいえますが、全国にたくさんいた彼らこそ、権威あるお寺の僧侶より、庶民に寄りそい、その魂を癒した、真の救済者といえます。




前途を嘱望された比叡山延暦寺のエリートだった法然は、全てを捨て「ひじり」になりました。そして、誰でも「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば阿弥陀さまが救ってくれるという、庶民にとってありがたい浄土宗をおこしました。その弟子が親鸞。聖たちが修行したところは「別所」ともいわれ、氏名や地名として今に残ります。

戦争と平和 -東洋的「文」と「武」の視点から

1.不変の原則



「戦争と平和」というテーマを考えるとき、極めて本質を得た名言があります。中国戦国時代の兵法家である司馬穣苴(しばじょうしょ)が、『司馬法』のなかで語った言葉です。「国大なりといえども、戦いを好めばその国必ず亡び、国安しといえども、戦いを忘るればその国必ず危うし」






まずは、いかに国力が強大でも、侵略を好む国家や指導者は必ず亡ぶということです。例として、史上最大の版図を持ったモンゴル帝国、ナポレオンのフランス、ヒットラーのドイツ、そして、世界一の核戦力を誇ったソビエト連邦などをあげることができます。日本においては、天下布武を掲げた織田信長軍団などもそうでしょう。反対に、一時の平和に安住し、戦いを忘れた国家は危ういのです。文弱でモンゴルに滅ぼされた宋王朝、第二次大戦のフランス、そして、まさに、自己防衛の権利を放棄した非常識な憲法を持つ、今の日本がそうです。






一方、東洋的な思想で、戦争と平和の問題を論じれば、「文」「武」という概念を挙げることができます。「文」は聖人の教えを尊び、平和を追求することです。「武」は、戦争にそなえ、軍備を怠らないことです。実に、国家にとって最も大事なことは、この「文・武」のバランスなのです。司馬穣苴が言ったことも同じで、イタズラに戦いを好まず、そして軍備も怠らない国家が真の平和を維持できるのです。しかし、皮肉なことに、この言葉が生まれた当の中国は、むしろ、この文・武のバランスを欠いていました。






歴史的に、中国歴代王朝は、武力で覇権を獲得し、建国初期は、さらに領土を拡張しようと隣国に攻め込みました。しかし、時代が過ぎると、豊かな中国大陸の物産に満足し、海外拡張政策を捨て、武断的統治から、儒教的な文治政治に転換し、平和的な治国に専念しました。






その時代になると、真逆に、極端に「文」を重んじ、「武」を軽んじるようになります。文官が武官に対し絶対優位に立ち、武官など汚れた存在と軽蔑するようになります。中国には「よい鉄はクギにしない。よい人間は武人にならない」という言葉があり、反対に、文官の登竜門である科挙に合格することを、「書のなかに、権力も財産も美女もある」と、学を修めた文官が強大な権勢を持つようになることを譬えます。






中華帝国の興亡パターンは、国防を重視しない文官官僚が支配し、国は弱体化し、周辺の民族に攻め込まれ、異民族が立てた王朝にとって代わられました。中国の歴史はこれをくり返したと言っても過言でありません。1644年、日本ならば徳川幕府の初期にあたりますが、中国に清朝を立てた満州族は、たった5万の軍隊と50万の国民しかいませんでしたが、当時1億ちかい人口をもつ明朝を征服し、268年にもおよび中国大陸に君臨しました。しかし、清も、「文」優位の体制に転換し、精強な満州族も文弱に陥り、文・武のバランスが崩れます。そして近代になり、アヘン戦争で敗れ、荒波の如く押し寄せてくる西洋列強の力に対抗できず、大部分の国土を蝕まれ、半植民地国家に転落してしまいます。






朝鮮王朝も、開化期、日本をモデルに軍の近代化を図ろうとしましたが、文官が汚職をし、旧軍の俸禄米に多くの糠を混ぜて配り、怒った軍人たちが反乱を起こし、改革は挫折しました。中華帝国の影響を受けた韓国も、明らかに文・武のバランスが崩れていたのです。






2.鉄砲を捨てた日本



それでは、日本はどうでしょうか。先に指摘しましたが、戦国時代の日本は世界で最も多くの銃(鉄砲)を保有していた国でした。しかし、徳川時代になり、銃を武器庫深くしまい込んで、260年ものあいだ、銃を使用も改良もせずに時代遅れになってしまいました。アメリカ人のノエル・ぺリン氏は、これに対し『鉄砲を捨てた日本』という本を出し、反響を呼びました。ペリン氏は、朝鮮戦争に従軍し日本にやって来たことがある人物ですが、戦国時代の日本は世界有数の鉄砲生産国で、実戦で盛んに使用したにもかかわらず、江戸時代になり鉄砲の改良を中止し、多くを破棄するという、世界にかつてなかった軍縮を成し遂げたと評価しました。日本語版の序文には次のように記しています。






日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ400年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発とを中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるべきものです。  (中央公論社.1991)






ペリン氏は鉄砲を捨てた「パックス・トクガワ―ナ(徳川の平和)」を、世界史的な意義ある時代だと賞賛しています。しかし、大きな事実を見逃しています。徳川時代、日本が鉄砲を捨てられたのは、日本周辺の国際環境が平和だったからです。ペリン氏は、同時代のヨーロッパは火器を戦争に使用し発展させたと指摘しましたが、それはヨーロッパの国際環境が平和ではなかったからです。もし、徳川時代の東アジアが、当時のヨーロッパのように戦争に明け暮れ、スペインやフランス、あるいはイギリスのような国家があったら、日本は鉄砲を捨てることなどできませんでした。「徳川の平和」は、近隣国家が明、清や朝鮮王朝のような対外侵略意思を放棄した国々だったから実現したもので、決して日本が単独で達成したものではありません。






3.日本における文・武のバランスと武士道



確かに、徳川時代、日本は鉄砲を捨てたといえますが、「武」の伝統を捨てたわけではありません。武士たちは、剣を命の如く大切にし、武術を錬磨し、「武」を尊重する伝統を堅く守り続けたのです。それが、武士道です。武士道とは、戦国時代ではなく、徳川時代、すなわち平和な時代に、古来からの日本の「武の伝統」を体系化したのです。






日本における文・武のバランスを論じるとき、徳川幕府の開祖である徳川家康の思想に注目しなければなりません。家康は、文・武、両方を強調する言葉を残しました。





彼は、武将であるにもかかわらず人を殺めたことはないと広言し、「馬上をもって天下を得ても、馬上をもって天下を治めることはできない」と言い、日本は聖人の教えで文治的政治をしなければならないと語り、儒教を徳川幕藩体制に導入しました。





一方、「朝夕の煙立る事はかすかにても。馬具の具きらびやかにし。人も多くもたらむこそ。よき侍の覚悟なれ。― 随分武士は武士くさく、味噌は味噌くさきがよし。武士は公家くさくても。出家くさくても。農商くさくてもならず」とも語り、武士たるもの「武」の伝統を忘れるなと命じたのです。







家康は、聖人の教えを守ることと、武人の心得を並行的に強調しています。それが、後に、武断統治の時代とともに、儒教や仏教を尊重する文治統治の時代も出現し得る余地をのこしたのです。徳川幕府は3代家光時代まで武断統治を行いました。しかし、5代将軍徳川綱吉が推進した儒・仏奨励政策は、家康の文治的統治観を反映したものでした。ところが、「文」を強力に押し出す一方で、「武」の奨励はしないどころか、生き物を殺してはならないという「生類憐みの令」は、武家政権としてはあり得ないほど極端に武を否定するもので、まさに家康が嫌った「出家くさい」法でした。






6代家宣、7代家継の時代は、儒学者の新井白石が補佐し、綱吉代の儒教的な「文」を重視する政治を継承しました。ところが、8代将軍の吉宗は、「万事権現様(家康)の定め通り」という指針を掲げ、家康の統治思想の「武」の側面を強調することによって、綱吉代とは異質な時代をつくりました。しかし、「文」である儒教も奨励しました。吉宗政権の性格は、文・武調和と言えるもので、儒教という普遍思想と、武を強調した二本立ての政治を行ない、強い求心力を持ちました。






吉宗のこの姿勢は、「武」を主とし「文」を従とする古来からの武家の伝統と合致しています。武術に優れているが、儒教的礼節もわきまえている武士像は、吉宗後、武家における正統となりました。吉宗の高い評価は、名君という個人的要素と、文・武のバランスが日本の伝統と合致し、人々に共感されたからです。吉宗は良きサムライの典型です。武術を好み、庶民の事情も配慮する思いやりがあり、分をわきまえ政治に専念しました。まさに、武士道を実践した模範的武士で、今日でも歴代徳川将軍のなかで最も慕われている将軍です。その後、11代将軍家斉の時代に、吉宗の孫である松平定信は、儒教的禁欲を強調し寛政の改革を行います。






徳川時代は、このように文・武のバランスを取る歴史を歩みました。ですから、黒船がやってきて、力で開港を迫ったとき、「武」を復興させ、明治維新を成し遂げ、軍事力を強化し、西洋列強の影響を排すことができました。日本は、以上のように、「文」を偏重し「武」を怠った中華帝国や朝鮮王朝とは、大きく異なる歩みをなしました。






4.アメリカにおける文と武のバランス



では、アメリカにおける、「文・武のバランス」は、何をもとに考えるべきでしょうか。その重要ファクターは、「キリスト教」「合衆国憲法修正第2条」です。まず、アメリカはキリスト教を尊重し、キリスト教主義に立った、自由、独立の民主主義を発展させました。これが、東洋的な、聖人の教えに従い平和を維持するという「文」に相当する信念体系といえます。






神のもとの平等を追求したアメリカ民主主義は、豊かで自由な社会をつくり上げ、高度な文明と活力ある文化は、世界で圧倒的な魅力を放っています。ですから、今も多くの人々が、このアメリカ民主主義文明の恩恵にあずかるため、この国への移民を希望しています。






一方で、アメリカは、自由と独立を守るため、合衆国憲法修正第2条で、市民の武装の権利を認めています。これこそが、アメリカにおける「武」の核心です。日本では武士が剣を大切にしたように、アメリカでは自由な市民が銃を大切にしてきたのです。それを的確に象徴する存在が、昔も今も、修正第2条を支持し、銃を所有する牧師が多いことです。この自発的で強力な「武」のパワーがあったからこそ、アメリカ民主主義は守られてきたのです。







更に、アメリカは、自国の民主主義だけではなく、他国の民主主義を守る歴史を歩んできました。今日、多くの国が民主主義を謳歌できるのも、アメリカが「武」の力を発揮して、全体主義から諸国を守ったからです。多くの国がアメリカに頼り、全体主義の弾圧に苦しむ人々がアメリカに住みたがるのも、アメリカが強力で、全体主義から自分を守ってくれると信じられるからです。






このように、アメリカにおいては、キリスト教的民主主義と合衆国憲法修正第2条によって、文・武のバランスが保たれてきたのです。また、アメリカは、国防において脆弱な民主主義国家と同盟を結び、安全を保障することによって、世界の文・武のバランスを保ち、平和を維持してきました。






5.人類の危機を克服するために



しかし今、世界の文・武のバランスを大きく崩す存在が台頭しました。それが赤い全体主義・中共です。先に論じたように、歴史的に中国は、文・武において、むしろ極端に「文」に偏重した国だと指摘しました。しかし、本来の中華王朝とは反対に、共産主義中国は、モンゴル帝国のように、極端に「武」に偏重した国家なのです。それも自己防衛のための「武」ではなく、世界を共産化するための侵略的な「武」です。





これは本来の伝統的中国の姿ではありません。最近、ポンペオ国務長官が、「中国」と「中国共産党」を分けて考えなければならないと強調しましたが、実に正しい見解です。中国問題とは共産主義問題なのです。人を物質と信じ、人を殺すことを物を壊すこととしか感じない、唯物共産主義思想が中共の悪の核心です。今、中国、北朝鮮、そして文在寅・韓国で起こっている、数々の不可解で残虐な事件は、この共産主義の実体を如実に示しています。






中共は、世界の高度技術を盗み、5Gで先端技術を席巻し、人類を奴隷のように監視する体制づくりを進める一方、中国ビジネスで諸国を縛り、親中派をつくって、世界を支配下に置こうとしています。しかし、世界は、武漢ウイルスの蔓延で、中国共産党が危険であることが分かり、警戒を強めました。今や世界は、中共問題に真剣に取り組むようになったのです。







21世紀初頭にある現在、人類は、民主主義のアメリカに付くか、全体主義の中国共産党に付くか、厳しく二者択一を迫られています。軍事、国力において世界1位の国と2位の国が鋭く対決しているのです。世界にも日本にも、中共とむすび利益を得ようとする親中派が少なくありません。中共が支配する世界になれば全ての国がウイグルや香港のようになります。この現実を正しくみて、中国を賛美し、アメリカを批判していた人々は目覚めなければなりません。今、アメリカは、中共全体主義の下で苦しむ人々を救うため、この国が歴史的に培ってきた、文・武の力を発揮して、世界の自由と独立を守り、中国共産党を倒し、中国の人々まで解放しようとしています。







このような危機に直面する世界において、日本がすべきことは何でしょうか。それはまず、武士道を見直すことです。天下泰平の徳川時代にも、日本人に「武」を忘れさせなかった武士道こそ、文・武のバランスを守り、日本が西洋の植民地になることから逃れられた精神でした。今、平和ボケした日本の状態を克服する精神も、武と礼節を重んじる「サムライ」の心を想起することではないでしょうか。





日本に凶悪犯罪が少なく平和な社会を維持しているのも、武士道で高い志操をもって、剣という「武の力」を正しく管理した長い歴史があったことが一因となっています。それらの伝統は、アメリカの「キリスト教」と「合衆国憲法修正第2条」の精神と類似し、武士道はそれと融和させることができる思想です。今や、危機に直面する世界において、アメリカと堅く手を結び、全体主義・中共の脅威に対抗しなければなりません。同時に、「武士道」と「合衆国憲法修正第2条」の思想を生かし、武力の正しい所有と管理のあり方を、日本とアメリカが共同で発信する時代が到来しました。それが、21世紀の日本が世界に果たせる大きな役割ではないでしょうか。 (永田)

東西来世観のちがい-輪廻転生と霊界永生-

1.人生の初めと終りをはっきりさせる西洋



「東洋人の生と死は、本の1ページだ。ページをめくれば、次のページが出て、新たな生と死がくり返される。それに比べ、西洋人の生と死は、1冊の本で、初めと、終わりがある」
これは、オーストリアの貴族で、日本人の母(青山光子)をもつ、リヒャルト・グーデンホーフ・カレルギーの言葉です。ちなみに彼は、ヨーロッパ統合に尽力し「EUの父」と称され、また、不朽の名作「カサブランカ(1942)」の、イングリット・バーグマンをめぐり、ハンフリー・ボガードの恋敵で、反ナチスの活動家ビクトル・ラズロのモデルともいわれます。
 



 
上の言葉は、仏教の輪廻転生と、キリスト教の霊界永生の違いを見事に表しました。この宗教観の差は、広大で深淵なものです。西洋では、例えば、人が死ねば、「リヒャルト・グーデンホーフ・カレルギー(1894.11.16ー1972.7.27)」と、好んで、生きた期間を冷厳、客観的に、初めと終りを明確にし、親しい人に自分の写真に人生の期間を書いた葉書を送ります。




しかし、東洋人は、この習慣に馴染みません。何か、とても無情に感じます。長く輪廻転生の思想を持ってきたので、深層心理のなかで、人間はいつか現世に戻るので、生没年で自分の人生を、こんな風にバッサリ区切られたくないと感じるからでしょう。仏教徒ならば次の生があると信じ、特に仏教徒でなくとも、何となく、次の生があると感じています。






2.インド的来世観とキリスト教的来世観が混在する日本



人は、死んだら生まれかわるのか、それとも霊界に行くのかというのは、インド的来世観とキリスト教的来世観が混在する日本ではたいへん重要な問題です。仏教では輪廻転生すると考えますが、キリスト教では霊界で永遠に生きると考えます。仏教のなかでも、浄土宗や浄土真宗では極楽往生を説き、一方、仏教である幸福の科学も、霊界永生を説きます。






日本では、「輪廻派」と「霊界派」の優劣はつけ難いと思います。輪廻は、天国や地獄がある霊界より信じやすいもので、素朴な考えから、生まれ変わりを信じている人が多いと思います。一方、霊界を信じる側からすると、人間がまた生まれ変わる、しかも動物に生まれ変わるかもしれないという輪廻は、荒唐無稽に感じます。






3.東西世界観のちがい



しかし、仏教やヒンズー教の輪廻転生には、「仏・神-人間-動物」を区別せず、存在するもの全てはつながっているという考えが根底にあります。曹洞宗開祖の道元も、『正法眼蔵』で、「法というものは、自己と万象の違いを脱すること」と言っています。人と万有との一体を強調するのがインド系宗教の特徴で、自然は止まることなく流転しますから、人間も輪廻すると考えるのです。





それに比べキリスト教は、「神-人間-動物」を厳格にわける思想傾向があります。聖書の創世記第一章には、「神は御自分にかたどって人を創造された」「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と、神は全知全能の創造主で、人間は神から生き物を支配する権限を与えられていると考えます。ですから人は死後、神のもとに帰り永遠に生き、動物は永遠の存在ではないと考えます。





4.暗さのない新しい輪廻転生説



しかし、アメリカでつくられたロビン・ウイリアムズ主演の「奇跡の輝き(1998)」という映画では、主人公の夫婦が霊界に行った後、生まれ変わってふたたび出会う場面で終わります。ベルナルド・ベルトルッチ監督の「リトル・ブッダ(1993)」は、輪廻転生をテーマとしています。キリスト教が優勢な西洋でも、人が輪廻するというストーリーを自然に受け入れており、西洋にも輪廻転生を信じる人が増えています。輪廻は、人間の素朴な願望の中にあり、「生まれ、死に、また生まれる」という生死の循環説は説得力があります。「あなたこの世に生まれたんでしょう、だから、またこの世に生まれるんですよ!」と言われると、はた、と考えてしまいます。






また、輪廻説に立つ宗教やスピリチュアリティーは、輪廻が、さまざまな人生を経験し、霊魂を成長させる心の再生プロセスという積極的解釈を強調します。この考えに立つと、動物に生まれ変わる悲劇という、輪廻転生に付きまとう暗さが解消されます。また、善行を行う明るい動機になります。





5.霊界・霊人と共に生きる立体的人生観



一方で、守護霊や背後霊という考え方があります。人は死んで霊界に行っても、子孫や、自分に似た性格や使命がある特定の人を、霊界から見守り、助ける霊となるという考えです。守護霊は人をみちびき守り癒す霊で、背後霊は、使命達成を応援する霊団です。






霊視すると、助けられる人と守護霊があまりにも似ているので、まるで守護霊が輪廻転生したように見えますが、両者は別人です。本人が記憶している、あるいは霊能者がいう「前世」は、自分の前世でなく、自分と深い因縁がある「守護霊」ということになります。






この考えに立つと、生きている人は、霊界から数多くの因縁ある霊人が見守り、生者と死者が関係をもちながら生活しているという、立体的な人生観、世界観がつくられます。ですから、自分がいいことをすれば、過去の多くの人も共に救われるという、善行をする強い動機も与えられるのです。これも多くの人が信じる来世観です。





6.東西人間観の壮大な交流、異宗教者とよき交流



いずれにせよ、霊界、輪廻、それぞれ深い思想的背景があるもので、一方を頭から否定し、悪い考えと決めつけるのは間違えです。霊界で永遠に生きるのか、輪廻転生を永遠に繰り返すのかという違いで、人間存在はこの世かぎりという、唯物論的な不幸な人間観に比べれば、遥かに素晴らしい思想です。このふたつの来世観は、インド文明と西洋文明の発想の違いがはっきり表れるもので、学び合う点がたくさんあります。まさに東西人間観の壮大な交流です。異宗教者同士が語り合うよきテーマなのです。

U.S.A『銃を持つ民主主義』について ー銃所持反対論ー

2004年に、『銃を持つ民主主義-「アメリカという国」のなりたち』(小学館)という本が出版されました。著者の松尾文夫氏は、共同通信社でワシントン支局長を歴任したジャーナリストです。本書は、日本エッセイスト協会賞を受賞し、2007年には英訳され ”Democracy With a Gun: America and the Policy of Force" としてアメリカの出版社から公刊されました。





松尾氏は、アメリカにおける、市民が武装する権利を認めた合衆国憲法修正第2条と、現行のアメリカ社会における銃所持のあり方に反対します。この『銃を持つ民主主義』は、一般向けにアメリカの銃所持問題について書かれ、本国においても出版された、アメリカにおける銃所持問題を本格的に論じた書籍です。





1.合衆国憲法修正第2条による「武力行使のDNA」



松尾氏の論旨は明確です。アメリカを「武力行使を盛んに行う国家」と規定し、その源流を、国民に銃を所持する権利を認めた憲法修正第2条にあると結論します。松尾氏は、戦争中に福井県でB29の空襲に遭い、近くに焼夷弾が落ちましたが、不発弾だったため一命を取りとめた体験で、「容赦のない武力行使をするアメリカ」を感じ、そのような「武力行使のDNA」は、銃所持を認めた憲法とアメリカの歴史によって形成されたと主張します。松尾氏の主張を見てみましょう。





私はこの作業の切り口を、敗戦直前の1945年7月19日夜、墳墓の地である福井市でB29百二十七機による焼夷弾爆撃を受け、欠陥親爆弾のおかげで九死に一生を得た原体験に求めた。福井空襲の総指揮官カーチス・ルメイ将軍とその「夜間無差別焼夷弾爆撃」戦略での「容赦のない武力行使」の系譜をたどることから始めた。そして、それが現在のイラク戦争、ブッシュ・ドクトリンにもはっきり継承されていることを確認したあと、さらにその源流を1791年に制定され、二百十七年たった今も居座っている合衆国憲法修正第二条に見つけた。





「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」(斎藤眞訳、岩波文庫『世界憲法集四版』所収1983年)との規定である。結果としてこの攻め口が有効だった。一気に、武力の行使がその民主主義のⅮNAとして組み込まれているアメリカ建国の原点に迫ることになったのみならず、銃規制問題という現在のアメリカでの最もホットな社会問題と向き合うことになったからである。 (文庫版あとがき p.431)





自らがその目標となった、どこまでも荒々しいルメイ将軍の武力行使への信念と「ブッシュ・ドクトリン」との連続性を意識したとたん、アメリカが世界に誇り、世界もまたそれを受け入れている自由と平等の民主主義の理念そのものに、武力行使というⅮNAが組み込まれている構図が見えてくる。アメリカの民主主義の栄光の裏側には、武力の行使をいとわない顔があるという事実が見えてくる。
             (第2章 武力行使というⅮNA p.62)






それに、「メイフラワー誓約」というアメリカ民主主義の原点を手にして、アメリカの土を踏んだピルグリム・ファーザーズは、「それなりの武装集団」でもあった。私が追いかける武力行使というⅮNAは、間違いなく彼らとともにプリマスに上陸していた。そして、現在にいたるまでアメリカ民主主義と武力行使は表裏一体の関係となる。
                    (第4章 原点としてのメイフラワー p.138)





ちなみにペリー提督が乗っていた旗艦「サスケハナ」は、メキシコとの戦争後に海軍が建造した七隻の完全蒸気式戦艦のなかでも最高の艦であった。日本開国には圧倒的な武力の示威が必要とのビドル艦隊の失敗に学んでいた。三本マストの両側外輪船であった。つまり、武力行使というⅮNAを内に秘めた「明白な天命」路線の一環として、使命感に満ち満ちた日本開国の要求であった。 (第5章「明白な天命」を信じてp.181)





2.人類歴史と武力行使



松尾氏の、アメリカの「武力行使のDNA」は、合衆国憲法修正第2条を源流とするという主張は妥当なものでしょうか。まず、人類にとって「武力行使」とは如何なるものでしょうか。人類史は戦いの歴史であり、歴史は戦いによって変わりました。あらゆる時代、あらゆる地域も同様で、人類史において武力行使は普遍的ともいえる行動でした。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の世界4大文明といわれる古代国家も、軍事力で周辺部族を征服したのであり、武力行使を前提に成立していました。国家の成立は武力行使によってなされ、日本も「神武東征」によって建国されました。「武力行使」は、アメリカに限られたものでなく、人類に共通するものです。






アメリカ以前、世界の超大国だったイギリスは、スペイン、オランダ、フランス、ロシアなどと戦争を行い、勝ち進んで、七つの海を支配する大英帝国をつくりあげましたが、それには上にあげた国家との「容赦ない武力行使」が伴ったのです。1840年、清朝に対し横暴なアヘン戦争を仕かけ、最後は、文化的価値の高い壮麗な円明園を徹底的に破壊しました。イギリスが覇権国家でなくなった1982年にも、フォークランド島をアルゼンチンに占領された時、航空母艦2隻を主力とする部隊を送り、激しい戦闘の末、島を奪還しました。これも「容赦ない武力行使」です。







ローマ帝国も、強力な競争者だったカルタゴや、頑固に反抗したユダヤは、徹底的に壊滅しました。ゲルマン民族移動後、西ヨーロッパを制覇したフランク族はカトリックに改宗し、アリウス派を信じていた他部族を異端討伐を理由に次々に討伐し、800年にカール大帝が教皇レオ3世から、ローマ皇帝の冠を授かりました。この戴冠からヨーロッパが始まったと言われます。ヨーロッパの形成は、フランク族の「容赦ない武力行使」によって成されたのです。







その後も、ヨーロッパの歴史は戦いが繰り広げられました。十字軍戦争、宗教戦争、スペインの覇権、ナポレオンのヨーロッパ制覇、ドイツ統一戦争、そして、第1、第2次世界大戦など、まさに、「容赦ない武力行使」によってヨーロッパ史は進行したのです。







西洋だけではありません。歴代中華帝国も同じです。モンゴル人が建てた元は、ローマ帝国のように、反抗した国は徹底的に滅ぼしました。日本の武家政権(幕府)も、武力行使によって立てられ、韓国やベトナム、また、多くの小国家も武力に優った集団が建国しました。アメリカの建国理念をたずさえ、未知の大陸に渡ったピルグリム・ファーザースが武装していたことは特別なことではありません。







このように武力行使は洋の東西を問わない、国家建国、発展の普遍的行動でした。そして、巨大国家や帝国を形成した後には、領域の治安と通商路の安全を維持するため、強力な軍事力が必要で、国内に反乱が発生したときにも武力行使により鎮圧しました。





3.武力行使のDNA


松尾氏は、インディアン迫害史をアメリカの「武力行使のDNA」の表われと指摘しました。確かに、インディアンに対する迫害は米国史の深い闇です。しかし、現地人に対する迫害は南米諸国も同様です。スペイン人は、インカ帝国とアステカ帝国を亡ぼし、原住民に苛酷な奴隷労働を強い、多くの人々が死亡しました。南北アメリカ大陸における現地人迫害は類似していましたが、アメリカのみが、それを銃所持を認めた憲法が源流をなす「武力行使のDNA」に原因を求めるというのは納得できないものです。






また、果たして、「武力行使のDNA」はアメリカ国民のみがもつ好戦的性質なのでしょうか。ならば、先にあげた国家における「武力行使のDNA」は何に求めるのでしょうか? 大英帝国、スペイン帝国、ドイツ帝国、モンゴル帝国などにおける「武力行使のDNA」は何でしょうか? これら諸国には「武力行使のDNA」は発見できず、アメリカのみに発見できるのでしょうか? 「武力行使のDNA」という普遍的現象を論じるならば、世界における事例との比較は不可欠なはずです。それを、世界の中からアメリカ一国だけを取り上げて「武力行使のDNA」を論じることは無理があると思います。






そもそも、文系概念である「武力行使」と、理系概念である「DNA」を結びつけるのも疑問です。武力行使や戦争という不確実で流動的な人間集団の行為と、血縁鑑定が99.999…などという確率で割り出せるDNAという科学的概念を結合させ、「武力行使のDNA」という用語をつくり、一国の成り立ちや、戦争や闘争における民族性を論じるのは如何なものでしょうか? この用語は、マルクスが共産主義を「科学的社会主義」と呼称したことを彷彿させます。「科学的社会主義」は間違った概念であり、共産主義の実態は、経済も社会制度も、科学的合理性とは縁遠いものでした。






武力行使の意思は、国家であるかぎり不可避的に備えているものです。文明は内外から暴力による挑戦を受けます。領民を守るため、暴力的挑戦に対抗し武力行使するのは、むしろ権力者の義務ですらあります。領土拡大のための武力行使、反対に、国防においても、武力行使が必要な状況は、歴史には数え切れないほどありました。






長く日本を統治した武士は、剣で戦い、剣の力で政権を担ってきた人々といえます。さらに、日本人は剣に高い精神的価値を付与しました。剣こそ日本における戦いのシンボルです。明治以降の日本は、日清、日露、シベリア出兵、第1、第2次大戦など、多くの戦争をしました。戦前、日本刀をかかげ戦闘を指揮した将校も多かったのです。ならば、日本刀こそ、日本における「武力行使のDNA」の源流なのでしょうか。もし、あるアメリカ人がそのような論理で日本人における剣を、「容赦ない武力行使のDNAの源流」と論じたら、私たちは納得できるでしょうか? 同じように、松尾氏の主張をアメリカ人が納得するとは考えにくいものです。






4.誤解されていること



松尾氏の思想は、銃は悪というもので、銃の役割を肯定的に評価する部分は皆無です。イギリスの植民地支配に対し、自分の銃を持って立ち上がったアメリカ市民にとって、銃は独立のために必要とされたものです。彼らに銃がなければ自由と独立は得られず、世界初の民主主義革命はアメリカでは成されなかったでしょう。





一方、今日、スイス国民において、銃の所持、管理は、永世中立という国家戦略を貫き平和を維持するために必要なものです。スイス国民にとって銃は、自分たちの自由と独立を守る必須で貴重なものです。さらには、日本の警察が銃を携帯していることが、日本社会の治安維持に役割を果たしていないでしょうか。






武力行使も同様です。アメリカが行った戦争が、他国を一方的に攻撃する侵略戦争だったでしょうか。第1、第2次世界大戦、朝鮮戦争、湾岸戦争などは、他国が行っている戦争に介入したのであり、他国の領土を狙った戦争ではありませんでした。






ベトナム戦争は、共産主義の浸透に対抗するものでした。1975年、アメリカがベトナムから撤退した後、ベトナムにはどのような事態が発生したでしょうか。共産主義の迫害から逃れるため、インドシナ諸国から120万人以上の大量の難民が自由主義諸国に亡命しました。当時、彼らは「ボート・ピープル」と喧伝されました。アメリカは82万人ものインドシナ難民を快く受け入れたのです。この歴史を見ても、誰が正しかったか分かります。ベトナム戦争とは、アメリカがベトナム国民の自由と人権を守る戦争だったのです。







一方、銃の所持がアメリカ社会の治安維持に役割を果たさなかったでしょうか。広大なアメリカにおいて、警察権の行き届かなかった時代の銃所有は、社会の治安と人々の安全を守りました。そして、銃の所持というものは、必然的に、銃の正しい管理がともないます。アメリカで長く銃が所持されているという事実は、人々が銃を正しく管理してきた歴史があることを証明します。もし、銃の弊害が大きければ、誰に言われなくとも、アメリカ市民は自ら銃を捨てたでしょう。






5.権力は銃口から生まれる


毛沢東は、「権力は銃口から生まれる」という有名な言葉を残しました。この言葉は意味深長です。共産党のような全体主義集団にとって銃とは、実に、権力を奪取し、自分が権力者になる道具だと明言しているのです。それが共産主義革命です。銃で権力を握り、反対に、市民からは銃を取り上げ、抵抗の手段を奪い、人々の自由と権利を奪います。共産主義国家は例外なく国民の銃所持を認めません。






しかし、アメリカの銃所有の思想は違います。「市民の銃が権力者を牽制する」というもので、反対なのです。横暴な権力者が市民の自由と独立を奪おうとするとき、市民がそれに対抗する力が銃なのです。この銃所持思想はアメリカの独特なものです。それこそまさに「銃を持つ民主主義」で、「アメリカの国のなりたち」に関わることです。アメリカの銃は、市民の自由と独立という民主主義的権利を守ることが主眼なのです。さらには、連邦政府に対し州の独立を守る力でもあります。






多くの国も、銃は国家が独占しますが、自由主義国家は国民の自由と権利を保証します。しかし、今日、自由主義諸国は全体主義国家・中国の脅威に直面しています。私たち自由市民は、自らの自由と独立を守るために自己防衛に努めなければならない時代になりました。諸国は、国家も国民も力を持たなければならないのです。現在の国際政治は、自らの自由と独立は、自らの力で守るというアメリカ人の精神に学ぶところがあるのです。






6.今、明らかになった真実



現在、世界は深刻な問題を抱え、危険な状況になっています。その背後には中国共産党が存在し、それは世界の共通認識になりました。長く、中国国内の人権弾圧は伝えられてきましたが、多くの国では中国との経済交流を優先し、そのことには目をつぶってきました。しかし、昨年の香港民主化デモに対する当局の苛酷な暴力的弾圧を目の当たりにして、世界は中国共産党を強く非難しました。それとともに、ウイグルやチベットに対する非人道的弾圧も注目されるようになりました。






2020年には、中国発の武漢ウイルスの被害によって、世界中が中国の真の姿を知るようになりました。中国共産党は自らを守るため、隠ぺいと偽りで、世界を危険にさらし、数十万人の人命を奪いました。人類は、身をもって中国発の感染症の恐怖を味わい、世界の重大問題が中国の全体主義であることを認識しました。





いったい、巨大な軍事力、経済力を持つ全体主義国家中国に対し、アメリカ以外どの国がその横暴をくい止めることができるでしょうか。香港の市民、台湾の独立をどの国が守ることができるでしょうか。中国の弾圧を受けている人々にとって、唯一の、また究極的希望はアメリカという国の意思と力です。その意志と力は、自分は自分の力で守るというアメリカの自己防衛の精神が培ってきたのです。今、まさに、アジアの民主主義は、悪しき権力に対抗する力を与える、市民の武装の権利を認めた合衆国憲法修正第2条によって支えられているのです。






一方、今、アメリカ市民は、共産主義者であるアンティファ(ANTIFA)の暴動に対抗するため、銃を買い求め、銃も、実弾も在庫がない状態になりました。アメリカ人が銃を買う動機は、まずは安全のため、そして、全体主義者のアンティファから自由と独立を守るためです。この市民の行動にアメリカにおける銃の意義が表われています。そして、銃規制論者の主張は説得力を失いました。アメリカの「銃を持つ民主主義」は、その言葉の通り、「銃を持つ全体主義的権力」に抵抗し、自由と独立を守ることができる、「銃を持つ強力な民主主義」のことなのです。

スイス「民間防衛」の精神

スイスは、永世中立国として、長くヨーロッパでの戦争に巻き込まれることなく、平和を維持しました。スイスが平和を守った国家戦略は「武装中立」です。充実した自己防衛力を持っていたため、第一次、第二次大戦でも、ドイツはスイスに侵攻しなかったのです。今、NATOの壁に守られた、スイスをめぐる国際環境は安全です。近隣に中国や北朝鮮がある日本などよりも、はるかに安全です。しかし、スイスは、すこしも警戒をゆるめません。国民は、徴兵に服し、家々では、有事に備え、銃を所持管理しなければなりません。ここで紹介する、スイス政府が発行した『民間防衛』という書籍は、スイス国民が、なぜ、銃を所持し、徴兵に服さなばければならないかを説明した本で、各家庭に一冊ずつ配布されました。自己防衛の精神を知るうえで、これ以上の本はないでしょう。世界の危険な情勢、何のために自己防衛をするのか、そのために必要な精神、思想は何か、日本国民が、ぜひ学ぶべき内容が満載です。『民間防衛』の最初の部分のなかから、自己防衛の必要性とその精神を示した内容の一部を、抜粋して紹介いたします。今まさに、中国共産党によって、自由と独立を奪われている、香港、ウイグル、チベットなどの人々の惨状を思うとき、同書の内容が、実感をもって迫ってきます。





まえがき 〈前書きは全文引用しました〉


国土の防衛は、わがスイスに昔から伝わっている伝統であり、わが連邦の存在そのものにかかわるものです。そのため、武器をとり得るすべての国民によって組織され、近代戦用に装備された強力な軍のみが、侵略者の意図をくじき得るのであり、それによって、われわれにとって最も大きな財産である自由と独立が保障されるのです。





今日では、戦争は全国民と関係を持っています。国土防衛のために武装し訓練された国民一人一人には、『軍人操典』を与えられますが、『民間防衛』というこの本は、わが国民全部に話しかけるためのものです。この2冊の本は同じ目的を持っています。つまり、どこから来るものであろうとも、あらゆる侵略の試みに対して有効な抵抗を準備するのに役立つということです。





われわれの最も大きな基本的財産は、自由と独立です。これを守るために、われわれは、すべての民間の力と軍事力を一つに合わせなければなりません。しかし、このような侵略に対する抵抗の力というものは、即座にできるものではありません。抵抗の力は、これに参加するすべての人々が、自分に与えられた任務と、それを達成するため各自の持つ手段方法を、理解し、実地に応用できるように訓練して、初めて有効なものとなるのです。そこで致命的な他からの急襲を避けるためには、今日からあらゆる処置をとらねばなりません。





われわれは、脅威に、いま、直面しているわけではありません。この本は危急を告げるものではありません。しかしながら、国民に対して、責任を持つ政府当局の義務は、最悪の事態を予想し、準備することです。軍は、背後の国民の士気がぐらついていては頑張ることができません。その上、近代戦では、戦線はいたるところに生ずるものであり、空からの攻撃があるかと思えば、すぐに他の所が攻撃を受けます。軍の防衛線のはるか後方の都市や農村が侵略者の餌食になることもあります。どの家庭も、防衛に任じる軍の後方に隠れていれば安全だと感じることはできなくなりました。





一方、戦争は武器だけで行われるものではなくなりました。戦争は心理的なものになりました。作戦実施のずっと以前から行われる陰険で周到な宣伝は、国民の抵抗意思をくじくことができます。精神 ー 心がくじけたときに、腕力があったとて何の役に立つでしょうか。反対に、全国民が、決意を固めた指導者のまわりに団結したとき、だれが彼らを屈服させることができましょうか。





民間国土防衛は、まず意識に目ざめることから始まります。われわれは生き抜くことを望むのかどうか。われわれは、財産の基本たる自由と独立を守ることを望むのかどうか。国土の防衛は、もはや軍にだけ頼るわけにはいきません。われわれすべてが新しい任務につくことを要求されています。今からすぐにその準備をせねばなりません。われわれは、老若男女を問わず、この本と関係があるのです。この本は、警告し、相談にのり、教育し、激励します。私どもは、この本が国民に安心を与えることができることを望んでいます。

     スイス連邦法務警察長官 L.フォン・モース.





深く考えてみると



今日のこの世界は、何人の安全も保障していない。戦争は数多く発生しているし、暴力行為はあとを断たない。われわれには危険がないと、あえて断言できる人がいるだろうか。





絶えず変動しているとしか思えない国際情勢を、ことさら劇的に描いてみるのはやめよう。しかし、最小限度言い得ることは、世界が、われわれの望むようには少しもうまくいっていない、ということである。危機は潜在している。恐怖の上に保たれている均衡は、充分に安全を保障してはいない。とかく恒久平和を信じたいものだが、それに向かって進んでいると示してくれるものはない。こうして出てくる結論は、わが国の安全保障は、われわれ軍民の国防努力いかんによって左右される、ということである。





自由と独立は、われわれの財産の中で最も尊いものである。自由と独立は、断じて、与えられるものではない。自由と独立は、絶えず守らなければならない権利であり、ことばや抗議だけでは決して守り得ないものである。手に武器を持って要求して、初めて得られるものである。






理想と現実


もしも国民が、自分の国は守るに値しないという気持ちをもっているならば、国民に対して祖国防衛の決意を要求したところで、とても無理なことは明らかである。





国防はまず精神の問題である。自由と独立を守るためでなければ、どうして戦う必要があろうか。自由と独立こそは、公平と社会正義がみなぎり、秩序が保たれ、そして、人間関係が相互の尊敬によって色どられている社会において、りっぱな生活を保障するものである。





国家の防衛 ー これは、今日、平和な都市の中で、われわれの置かれている真の状態を、雄々しく、かつ、明敏に認識することから始まる。





受諾できない解決方法


平和と自由は、一度それが確保されたからといって、永遠に続くものではない。スイスは、何ら帝国主義的な野心を持たず、領土の征服などを夢みるものでもない。しかし、わが国は、その独立を維持し、みずからつくった制度を守り続けることを望む。そのため力を尽くすことが、わが国当局と国民自身の義務である。軍事的防衛の準備には絶えざる努力を要するが、精神的防衛にも、これに劣らぬ力を注ぐ必要がある。国民各自が、戦争のショックをこうむる覚悟をしておかねばならない。その心の用意なくして不意打ちを受けると、悲劇的な破局を迎えることになってしまう。「わが国では決して戦争はない」と断定するのは軽率であり、結果的には大変な災難をもたらしかねないことになってしまう。




将来のことはわからない


将来われわれに何が起こるかは、だれにもわからない。今、世界は、平和と戦争の間に生きている。あちこちで新しい戦火が燃えあがっており、地球を二分するイデオロギーの潮流は、局地戦争を全面戦争に変えてしまう可能性がある。いかなる根拠のもとに、われわれには戦争の危険などないと主張できるのだろうか。わが国の周辺で、どの国が武器を放棄したか。どこでも軍事費は増大している。世界には、恐るべき核戦争の脅威がのしかかっている。毎朝、新聞がわれわれに思い出させてくれる真実は、残念ながら、以上のようなものである。




全く、われわれに将来何が起こるかは、だれにもわからないのだ。われわれの平和な生活をその手中に握っている超大国が、理性的であり賢明であることを、心から希望する。しかし、希望を確実な事実であるとみることは、常軌を逸した錯誤であろう。そこで、最悪の事態にそなえる覚悟をしておく必要がある。





あらゆる災害


戦争の悲惨な様相は一般に知られている。しかし、まだわれわれの知らない新しい様相もつくり出されるかもしれない。戦争について考えてみよう。— 空を横切る爆撃機、落下して市街を破壊するロケット弾、煙の出ている廃墟を押しつぶす装甲車。 ー  戦争では、もっとひどいことが行われる可能性もある。直接の攻撃を受けなくても、ある国は、放射能のチリを浴びせられるかもしれない。また、その泉、その水が汚染されて、疫病が住民全部に被害を与えることもあり得る。これらについても、よく考えておく必要もある。それも、今日から。






われわれの義務


いずれにせよ、われわれの義務は、被害を最小限に食いとめるために、最悪の事態に備えることである。戦争がなくても、われわれは、恐ろしい災害や重大な危険に脅かされる可能性がある。ダムの破壊や人工湖の崩壊による洪水についても考える必要があるし、また、核実験による大気圏内の放射能の増加についても考えておくべきであろう。




他方、現代の科学技術は、人間の手に実に強大な力をゆだねているので、ちょっとした失敗が、はかり知れない重大な結果をもたらす可能性がある。こうして、たとえば、原子力の平和利用に伴う事故から、一地域全体が放射能で汚染される危険すらあり得るのだ。単に技術の面だけでも、われわれは常に危険にされされている。効果的な防衛方法は、間に合わせにつくるわけにはいかないのだ。





今の世界情勢に焦点を合わせると、どうしても、疫病は武漢ウイルス、ダムの破壊は三峡ダムを考えてしまいます。本来、それらの災厄も、国民が自主的な「民間防衛」の精神で克服すべきものです。2020年に入り、世界は、急速に危険を増しました。中国は、各地で軍事挑発を繰り返し、ついに、「香港国家安全維持法」で、自由世界に挑戦状を突き付けました。世界各国は、共産全体主義から、自由と独立を守るため、自己防衛力強化に努めなければならない情勢になったのです。スイス「民間防衛」の精神は、激動ヨーロッパのなかで、「武装中立」の道を歩んだこの国の歴史が培った、実際に即した指針を示してくれます。自由、民主主義を尊ぶすべての人々に確信と力を与えてくれる内容です。今回は、そのなかのほんの一部を紹介しました。 (永田)