宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

宗教は多数者の体験 哲学は少数者の知識

ラファエロ「アテネの学堂」 



宗教と哲学が追求するものは、万有の原因的存在、世界と人間の存在意義、幸福の実現と善の実践などです。追求するものは同じでも、宗教を信じる人は多く、哲学を学ぶ人は少数です。この差は何なのでしょうか。





宗教と哲学のちがいを示す、ルネッサンス期の芸術作品があります。ラファエロの「アテネの学堂」は、プラトンとアリストテレスを中心に、58人の哲学者や科学者が、議論し、あるいは書を読み、文章を書き、思索などをしている姿が描かれています。ピタゴラスやプトレマイオスなど、人類の知的発展にすぐれた貢献をし、人々から尊敬される学者が集っています。






ここにいるのは高い知性をもつ人たちです。普通の人は、彼らの輪に入ってゆくことはできません。これは現代も同じで、哲学や思想について学問的に論じられる人は、千人に一人もいません。彼らはノーベル賞受賞者のような秀でた知能をもつ、極めて希少な人々です。



ダビンチ「最後の晩餐」



一方、ダビンチの「最後の晩餐」は、イエスを中心に12弟子が描かれています。イエスの一番弟子ペテロをはじめ、主だった弟子は漁師でした。その他の弟子もユダヤ社会の指導階層や神学者はいません。むしろ、律法を知らない無学な階層の出身者、人々から嫌われた取税人とその兄弟などで構成されていました。






ここにいるのは普通の人やハンディーを負う人々です。そもそもイエス自身が、罪人として死に追いやられることになるのですから、社会的には全員が、犯罪者に従う愚か者ということになります。ラファエロの「アテネの学堂」の面々とはあまりにも開きがあります。






しかし、この12弟子のあり方は、誰でもイエスの弟子になれるということを意味します。エルサレムの片隅に追いつめられた一群は、今日、22億人のキリスト教信者に拡大し、世界最大の宗教を形成しました。宗教が偉大なのは、すべての人が参加できる、大きな輪であることです。







宗教が、このように多くの人を包括できるのは、信仰というものが、「知」ではなく「体験」で持てるからです。イエスは数おおくの奇跡を行いましたが、奇跡を見た人は驚くべき体験をした人々です。弟子たちはいきなり強烈な体験をさせられました。ペテロや漁師の仲間は、イエスの言葉に従って網を下ろしたら大漁になり、この人は普通の人ではないと思い従いました。高い知性をそなえたパウロでさえ、イエスを信じるようになったのは「教義的知識」ではなく、まぼろしを見、イエスの声を聴いた「宗教的体験」だったのです。





宗教的体験は知を包括 



仏教の知も「悟り」を得るための叡智で、現実的な知ではありません。悟りを得るためには、瞑想、座禅、念仏など、宗教的体験を積み重ねなければなりません。





日本を代表する哲学者西田幾多郎は、「神は我々の自己に心霊上の事実として現れるのである。神は単に知的に考えられるのではない。単に知的に考えられるものは、神ではない」と言っています。西田も宗教を知るため座禅をしました。宗教を真に理解するには、心霊上の事実、すなわち「宗教的体験」が必要なのです。






人類は旧石器時代、死者を埋葬するとき、花などの副葬品を埋めた形跡があり、すでに宗教意識がありました。ですから、文明以前に宗教はあったのです。宗教心とは、森羅万象にそなわる真・善・美に霊性を感じ、生活で遭遇する神秘的体験が加わり、人の心に自然に生まれるものです。文明が開始しても、多くの人々は文字も読めず、信仰とは、神聖なものを拝み、祈り、願をかけるという「体験」の日常化でした。






そもそも、仏教の受容も、仏像の慈悲深い姿を見てありがたく感じたからです。戦国時代のキリシタン信仰も、人々がキリスト教の祈り、聖歌、十字架、ロザリオ、聖像などが発するつよい神秘に打たれ爆発的に広がりました。あの恐ろしい織田信長やしたたかな豊臣秀吉も、カトリックのグレゴリオ聖歌を聞いて感動しました。秀吉は、3度もリクエストしました。これも立派なキリスト教体験です。






人は、体験で親の愛を知ります。同じように、神の愛を知るのも体験なのです。宗教者にとって「知」は、「体験」に包括されます。知は必要ですが、その「知」はむしろ、「知識」で捉えられない「目に見えない霊的価値」を悟ることができる「知」です。僧侶は、経をあげ、あるいは禅を組み、苦行することなどによって信仰を深めました。「体験」がもっとも重要で、「知」は信仰をささえる一要素なのです。





西田幾多郎は、宗教的体験を哲学の上においた 



また、「宗教的経験」は、熱心な人のみができる難しいものだけではありません。仏教者は、人と仏教のささいな出会いも「仏縁」として大事にします。これは小さな体験も貴い種になるという優れた智慧です。おなじように、宗教はさまざまな「方法」を講じ、あるいは「もの」を通じて、信者に宗教的体験を提供します。礼拝などの集会、儀式、祝祭、聖地巡礼、出版物やインターネットなどによる教育や情報提供、また、お守り、置き物、絵画、写真などの「スピリチュアルグッズ」、数えたらきりがありません。






昔も、寺社が発行する「お札」が信仰を育みました。修行をつんだ僧侶や修験者などが各地を巡り配るお札は、霊験あらたかと尊ばれました。一方、円空は、諸国をめぐり自分が削った12万体の仏像を庶民に配ったのです。






お伊勢参りや善光寺参り、初詣、もっと言えば旅行も宗教的体験になります。お寺に足を踏み入れれば、仏教とは何かを感じることができます。教会に入ったら、キリスト教信仰の深みを感じます。




体験は、信仰の初歩であり導き手です。体験をきっかけに信仰をもち、体験を通じて神のはたらきを感じ、神と生きるようになるのが信仰です。






西田幾多郎は「単なる理性の中には、宗教は入ってこないのである」と述べ、宗教と哲学に関しては、「宗教的意識というのは、我々の生命の根本的事実として、学問、道徳の基でもなければならない。宗教心というのは、特殊の人の専有ではなくして、すべての人の心の底に潜むものでなければならない。これに気づかざるものは、哲学者ともなり得ない」と断じました。






宗教的意識は生命の根本であり、すべての人が生まれながら備えています。ですから、すべての人が、難解な「知」ではなく、誰にでもできる「体験」で、宗教という素晴らしいものを手に入れることができます。







人との交流も同じです。「知」で自他を分別したら対話は成り立ちません。他者の「体験」を尊重し、その体験をさせた、愛の神を中心に交流するものです。