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ヨーロッパから見た「元禄日本」 -ケンペルの驚くべき証言-

1.「彼は孔子の教えによって教育された」


当時、強い関心をもって日本を観察していたひとりの西洋人がいました。元禄4年(1691)、オランダ船船医として長崎、出島に渡来したドイツ人医師ケンペルです。彼は博物学者であるとともに東洋研究家で、彼が著わした『日本誌』に、綱吉とその統治、鎖国下の日本についてこう記されてあります。





国の周りを囲む島々、琉球、蝦夷、高麗は日本に服属している。シナもまた、測り難い版図を持つ広大な国であるとはいえ、日本から見れば恐るるに足らず、むしろ日本が脅威を与えている側である。何しろシナ人は惰弱で優柔である。そしてシナの征服者、タタールの系譜をひく皇帝はこれまでにも様々の国土と国民を統治してきたのだが、その征服欲を日本までひろげてゆこうとは決して試みもしないであろう。現在帝位にあるところの綱吉は ― 気宇雄大にして傑出した資性の人物で、父祖の徳をよく継承し、国法の厳格な監視者であると同時に、臣下に対しては極めて仁慈深き君である。彼は少年時代から孔子の教えによって教育され、それを奉じて、国民と国土にふさわしいような政治を執り行っている。この君主の下で万民は完全に一致協和し、皆々その神々を敬い、法律を遵守し、長上の意に従い、同輩には礼譲と友誼をつくしている。 - もし日本国民の一人が彼の現在の境遇と昔の自由な時代とを比較してみた場合、あるいは祖国の歴史の太古の昔を顧みた場合、彼は、一人の君主の至高の意志によって統御され、海外の全世界との交通を一切絶ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代をば遂に見出すことはできないであろう 
      (『 鎖国の思想』小堀桂一郎著 中央公論社)  




                  
このなかで注目すべきは、綱吉が「孔子の教え」、すなわち儒教で教育を受けたことを特筆していることです。中国や朝鮮王朝では、人が儒教教育を受けるのは当たり前のことですが、徳川時代初期の日本では、この事実がトピックになるほど異例なことだったのです。そして、綱吉がこの新思潮である儒教で国民を統治し善政を施していると言っており、外国人にも、元禄日本の思想や政治を理解するキーワードは「儒教」だったことを表しています。国際的にも、当時の日本が「儒教の時代」と認識されていたのです。





ここで、驚くことは、むしろ、今の日本において、ケンペルのように綱吉を評価することはないということです。まず、綱吉が孔子の教えで教育されたことを知っている日本人が、いったい、どれくらいいるでしょうか。綱吉が、江戸時代の日本人の思想、生活にどれほど大きな、そして、良き影響を及ぼしたでしょうか。ドイツ人ケンペルはそれを明確につかんでいました。現代に生きる私たちは、日本の歴史の真実を捉えるため、犬将軍と軽視する偏見を改め、綱吉の思想と成したことを公正な目で振り返り、正しく評価しなければなりません。





2.ヨーロッパの発想で、東アジアを日・中対立構造とみる



中国について言及した部分は、国家間の関係を対立的に見る西洋の国際感覚を反映しています。ケンペルは日本は強力な国で、朝鮮を従属させ、中国は巨大ですが弱みがあり、日本が中国に脅威を与えていると観察するなど、東アジアを日・中の対立構造と捉えているのです。





徳川幕府は、文禄・慶長の役で断絶状態になった明に対して、国交回復を切実に願い働きかけました。明との国交は成りませんでしたが、朝鮮王朝とは修交を遂げ、通信使を厚遇して友好関係を築きました。これは、対外強硬政策を棄て、隣国との共存を計る国策の一環で、内外に平和を強調するメッセージでもありました。



 


また、綱吉が儒教の教えで政治を行なっていると強調していますが、そのことの意義がケンペルには判っていません。儒教は中国で生まれた普遍宗教です。「普遍宗教」である限り、発祥した国をつよく意識する必要はありません。普遍宗教は、国家を越えて全人類に適用する教えであることに意義があるからです。キリスト教がユダヤを、仏教がインドをことさら強く意識しないのと同じことです。





3.儒教は中国・漢字文化を尊重する
 


しかし、キリスト教や仏教は、発祥地を離れて発展地域が移り変りましたが、儒教は中国で生まれ発展し続けるなかで近隣に伝わったのです。中国で展開した儒教の体系は、中国・漢字文化に負うところが大きいのです。漢字文化圏に属する国では、儒教経典を漢字という原文で読むことができます。そのため儒教を学ぶ人々は、自然に中国・漢字文化に敬意をはらうようになります。




徳川時代、日本は中国と張り合ってはいませんでした。特に、元禄はアジアと価値観において接近しようと努力していた時代で、中国と対抗する意識や、朝鮮を従えているという意識はなかったのです。




当時のヨーロッパは、諸国がパワーゲームを繰り広げ、世界で植民地獲得のため覇を争っていました。ケンペルの見方は、このようなヨーロッパ国際関係を東アジアに適用しているのです。同時代、日本は平和な国際環境のなかで、戦国脱亜時代のアジアに対する意識を変革し、アジアの一員と認識し、価値観の世界において入亜の道を歩んでいました。その核心的事業が、「孔子の教えを奉じる将軍」が推進した、儒教奨励政策だったのです。            (永田)



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