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韓国の忠臣蔵・「死六臣」-日・韓、こころの決定的違い-

サンクチュアリ通信BLOG-平和研究

1.忠臣蔵・赤穂事件と「生類憐みの令」


赤穂事件は、元禄の社会にセンセーションを巻き起こし、300年を経た現代でも日本人の精神に大きな影響を及ぼしています。浪士の行動は、忠義、勇気、同志愛、潔さなど武士道の良き面を備え、彼らは尊敬され、時には「義士」と呼ばれました。





この「赤穂事件」と「生類憐みの令」とは、直接的因果関係がないにもかかわらず、よく結びつけて論じられます。児玉幸多氏は、「世は犬公方の治下である。足もとに吠えつく犬も追うこともできない時代であった。その抑制された気分が、隊伍堂々と旗本屋敷へ攻め入って、亡君の意趣をはらしてきたこの事件によって、自分たちの憂さをはらすことにもなったのである」と述べました。おおくの書物の論評が、「生類憐みの令」で苦しめられている庶民の鬱憤が浪士たちの行動に喝采をおくらせた、というものです。





赤穂事件が、劇や放送などで演じられるとき、事件の社会的背景として、綱吉の専制ぶり、悪政としての「生類憐みの令」、浅野長矩に対する不公平な裁きが取上げられ、綱吉のイメージは低落しました。この事件は、日本の「武」の伝統を強く想起させ、綱吉の「文」の政策と対立するイメージを形成したのです。





2.死六臣とは?



文、武という視点から赤穂事件を考えるために、韓国の朝鮮時代、1456年におこった赤穂事件と似た事件を取り上げてみましょう。朝鮮王朝の第6代王、端宗は、わずか12歳で即位しましたが、叔父に当たる首陽大君は、端宗の王位を奪い7代世祖となりました。





この王位簒奪行為を非とする人々が、世祖を倒して、端宗を復位させるクーデターを計画したのです。宮中で、明からの使者のもてなしの儀式が行なわれる場で、事を決行しようとしましたが、計画を延期したため、仲間の中から裏切りが出、首謀者の6人は捕らえられました。彼らは過酷な拷問を受けても、死ぬまで志を曲げず、端宗への忠誠を貫いたため、「死六臣」として今日までも韓国国民に尊敬されています。





死六臣と忠臣蔵、両事件は似ています。「死六臣」は端宗への忠義、「忠臣蔵」は浅野長矩への忠義が動機で、結末は死刑に処せられましたが、人々はその志操の高さを称賛したのです。





3.死六臣と忠臣蔵の決定的ちがい



しかし、両者の行動、また人々の受けとめ方に差がありました。死六臣はどこまでも「文人」として、赤穂浪士は「武人」として人々から評価されたのです。死六臣の中には、武官が一人いました。計画に狂いが生じたとき、彼は計画どおり行動を起こそうとしましたが、文官の指導者がそれを制止しました。結局、この延期が原因で裏切り者が出、決起は失敗したのです。武人には、強力な敵を倒すには果敢な行動が必要で、このチャンスを逃がせば事の成就は難しいと判断できたのです。まさにこの集団は、文官が絶対的主導権をもち、武官が従うという儒教国家そのものの構造でした。彼は逮捕されてからも「あの役立たずの文人ども」と叱責しています。そもそも文官がこのような行動を計画したこと自体に無理があったのです。





しかし韓国人はこんな失敗などは気にしません。韓国の精神の核は「文」であり、志操の高さこそが重要で、決起に失敗したことはさほど問題にはならないのです。たとえ計画が成功したとしても、儒教国家では武力で政権を倒した事実自体が忌避され無視されるのです。忠臣蔵のように、武勇談で語り継がれることなどはあり得ません。





文官は「文」のみに依拠し、断固として「武」を遠ざけたので、教育者、助言者として王の信任を得、人々にも尊敬されたのです。清廉な文官は、正しいと信ずることのためにはたとえ殺されるようなことがあっても道理を主張しました。文官にその覚悟があったからこそ、武官に対して精神的に優位に立つことができたのです。儒教を重んじる国のメンタリティーとはこう言うものです。





4.忠臣蔵の人気は見事な討ち入り成功



赤穂浪士の場合は勿論すべて「武人」です。討ち入りのために47人もの人が周到な準備をし、作戦をたて勇敢に戦いました。これは武士団のいくさであり、長年武術を鍛錬した武人にしかできない行動です。





もしも、浪士の計画が仲間の裏切りにより失敗したり、あるいは討ち取られていたら、私達の反応はどうでしょうか。彼らの忠義心は認めるが、その志操の高さだけで今日私たちが赤穂浪士に抱いている尊敬や人気はもち得ないでしょう。忠臣蔵は、勝どきを上げる瞬間がクライマックスで、その人気は討ち入りの見事な成功によるところが大きいのです。





日本では、武士であるかぎり武術の心得がなければならず、刀を抜けば、勇気と力量を示さなければなりません。日本と韓国、同じような行動でも、文と武という視点から考えると、根本的な違いがあります。この違いを国家に拡大すると、文の思想である儒教が、「原型」のまま、日本に定着することがいかに難しいことであるかが理解できます。





5.元禄日本は新しいかたちの儒教国家を創出



綱吉は、幼いときから2人の兄に従順に従うため、文の思想である儒教の教育を受け、武から遠ざけられました。それによって形成されたメンタリティーは「文人」のものです。「忠臣蔵」でなく「死六臣」のメンタリティーなのです。元禄というのは、「武人」とは異質の、「文人」の精神的バックボーンを持つ人物が、武人支配の日本を統治した時代と言えます。





綱吉は、自身の価値観を「忠臣蔵の世界」に強引に導入しました。儒・仏を強調し、「生類憐みの令」を発し、人々にきびしく価値観の転換を迫ったのです。綱吉の政策は、日本の「武」の伝統と感性を越えて推進され、人々はそれに強い違和感をもち、その抑えられた感情が、赤穂浪士の行動を際立たせました。この心理構造が、綱吉の不人気の底にあるものです。





日本と韓国の精神的背景の違いから、日本人が綱吉とその政策に拒否反応を示した理由を見てきました。そこには、儒教によって確立した文、武という、東アジアだけに存在する思想的、文明的概念が横たわっています。東アジア儒教国家は、文、武の上下秩序が確立しており混乱はありません。しかし日本は、儒教が台頭するとき、文、武における、上下、軽重の葛藤問題は避けられないものでした。





綱吉は、「武」という強固な壁に穴をうがち、元禄日本に「文」の思想を導入し、国民の価値観を、東アジア儒教国家の人々と接近させました。文の価値重視は、綱吉後も儒教主義継承という形で社会に定着し、吉宗代にいたり、文・武のバランスを実現させました。それは、儒教という普遍宗教の影響圏が、海を越え日本にまで拡大し、東アジアに、中国や韓国とも異なる、新しいかたちの儒教を尊ぶ国家が出現したことを意味したのです。
                    (永田)


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