宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

なぜ、宗教は広がったのか?

世界帝国のふたつの使命


ここでは、帝国=悪、とは考えません。帝国こそ、文明の守護者で、帝国がなければ、人類の広域文明は形成されませんでした。本来の帝国の役割は、その権力で、領土の治安を維持し、安全な交易を保証して経済を発展させ、国民の生活を安定させることです。





もうひとつ、役割があります。聖人の教えを広げ、人々が正しい人生をおくることによって、平和で幸福な社会をつくることです。宗教の保護、奨励も帝国の重要で、神聖な使命です。





しかし、多くの帝国は、主権者みずから、聖人の教えに背き、腐敗し、暴政をおこない、悪なる統治機構に堕してしまいました。そのため、堕落した帝国は滅び、王朝が代わったのです。現代のグローバリストの世界帝国も、暴利を貪らず、人類の幸福に寄与するならば、問題はありません。





ここでは、人類の精神の発展、すなわち、帝国が世界宗教を拡大、奨励した歴史に焦点をあてます。それにより、世界宗教発展の真実、そして、世界的帝国から独立していた「島嶼独立国家・日本」の、宗教受容における、極めて特殊な様相を知ることができます。


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全世界に出て行き、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ。

          イエス・キリストの大宣教命令. 『聖書』
  
 

帝国は宗教を伝播する


イエス、釈迦、孔子、マホメットなど、世界宗教の教祖が人類史におよぼした影響は絶大で、どんな世俗の覇者もおよびません。その崇高な精神は、おおくの国々に伝播し、世界史の発展をリードしました。しかし、世界宗教の伝播は「世界的帝国」の活躍を抜きに語り得ません。





世界宗教の伝播は、ふたつの段階があったと言えます。第一は、教祖が布教し、そして、教祖の死後、信徒たちにより宣教が進展し、社会的基盤をつくり、帝国によって宗教が公認されるまで。第二は、その宗教が、帝国の国教となった後の段階です。






世界宗教は、帝国に公認されるまでは、社会の少数者、弱者として宣教する苦難の時代を経て、帝国の国教となった後は、一変し、社会の多数者、強者に転換しました。優れた普遍思想をもつ世界宗教は、帝国統合の理念、国民の信仰となり、帝国自体が、普遍宗教的な国家に豹変したのです。教えの内外への伝播は、帝国の文明力と政治力を背景に推進されました。





世界宗教の歴史は、帝国の役割なしに語ることはできません。そしてほとんどの場合、次の仮説が適用できます。





1.世界宗教はそれを受容した帝国(強国)の影響力が及ぶところでは順調に伝播した。


2.反対に、その世界宗教を受容した帝国(強国)の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った。




歴史的に、多くの国は自国が帝国であったか、あるいは帝国の影響下にありました。諸国における世界宗教受容のあり方は、ほとんど前者の仮説を適用できます。





しかし、帝国の支配と圧力を受けなかった、「島嶼独立国家・日本」は、後者に当てはまり、日本に伝来した世界宗教は困難に遭遇したのです。古代における仏教伝来は朝廷を二分する大戦争を引き起こし、近世のキリスト教は大迫害を受け、儒教は国家統治理念になるまで長い時間を要しました。諸国の世界宗教受容の歴史と日本のそれを比較すると、日本の特殊性が際立つとともに、国家の世界宗教受容において、何が決定的影響力を持ったかを明らかにします。





迫害される宗教から支配的宗教に



ここではまず、ヨーロッパにおけるキリスト教の歴史を中心に見てみましょう。




キリスト教は、教祖イエスが33歳で十字架にかけられ生涯を終え、その教えは弟子達に引き継がれました。約300年間、ローマ帝国のきびしい禁令下で信者を増やし、313年にコンスタンチヌス帝によって、ようやく公認されました。当時、キリスト教信者は全ローマ帝国住民の約10分の1を占めていたと言われます。





この公認までの期間こそ、キリスト教にとって長く困難な時代でした。クリスチャンは執拗に迫害され、その凄まじさは総延長560キロにも及ぶローマのカタコンベ遺跡が雄弁に物語ります。ローマ帝国下での迫害は、先に挙げた「世界宗教を受容した帝国の影響が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という状況を示します。






しかし、キリスト教はローマ帝国に受容され劇的な変化を迎えます。392年、テオドシウス帝が「国教」とした後は、ローマ帝国の支配的宗教となり、反対に、他の宗教は禁止されました。クリスチャンは弱者として迫害される時代を終え、ローマ社会の強者に変貌したのです。キリスト教と帝国政府は強固に結び付き、奨励、宣教は国家の政策となり、その教えは広大な帝国領と周辺に伝播して行きました。






カトリックによるローマ帝国再建



476年の西ローマ帝国の滅亡により、ローマ・カトリック教会は、後ろ盾を失い、ヨーロッパの新しい主人であるゲルマン民族の中に庇護者を求めました。当時、ゲルマン諸族は生き残りをかけた激しい闘争を繰り広げており、ヨーロッパでのカトリック伝播は、諸国が弱肉強食の生存競争を展開するなかで推進されたのです。






496年、フランク王国のクローヴィス王は、3000人の戦士とともに、アリウス派からカトリックに改宗しました。クローヴィスは、西ゴート王国など、アリウス派を信じる敵国を「異端討伐」という大義名分のもとに征服し、フランク王国の覇権を拡大しましたが、それは同時に、カトリック圏の拡張をも意味しました。




クローヴィスの改宗は、ローマ文明を継承し、高い権威をもつカトリック教会と連合することで、王権と国家の威信を高めるとともに、戦争の名分を得て、隣国を征服するための国家生存、発展戦略と言えました。カトリック教会にとっても、フランク王国との連帯は、教会の安全と布教のための生存、発展戦略だったのです。





732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルは、ヨーロッパに進撃してきたイスラム軍をツール・ポワチエ間の戦いで破り、キリスト教世界の危機を救いました。その子ピピンは、ローマ教皇と結びつき、カロリング朝を建て、教皇に広大な領地を寄進したのです。







ピピンの子カール大帝は、さらに領土を拡大し、版図は往年の西ローマ帝国に匹敵するものとなりました。カールは800年に教皇レオ三世により、ローマ皇帝に戴冠され、ここに西ローマ帝国がゲルマン人の手によって再建されたのです。この戴冠の時から「ヨーロッパ」が始まったと言われます。







カールはキリスト教を背景とするカロリング・ルネッサンスと呼ばれる文化事業を推進し、この文化の発展も、キリスト教伝播を後押ししました。こうしてローマ教皇庁とフランク王国を軸に、カトリック圏がヨーロッパに拡大していくのです。






955年、東フランク王国のオットー大帝は、ヨーロッパに脅威を与えていたマジャール人(ハンガリー人の祖)をレヒフェルトの戦いで破り、キリスト教世界の守護者となりました。952年には、教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国を成立させたのです。この帝国は、カトリック世界の頂点に立つ国家となり、844年の長きにわたり存続しました。






キリスト教宣教の使命は、ローマ帝国滅亡から近代に至るまで、西洋の多くの帝国が引き継ぎました。周辺諸国は帝国の強力な軍事力を恐れる一方、先進的な文明は、帝国の政治的影響圏を越え、広範な地域に光を発し、合理的な統治制度と洗練された文化は人々を引きつけ、諸国の政策決定に影響を及ぼしました。






このような帝国の影響力により、近隣国家は次第にキリスト教を受容し、キリスト教化した国家が、また近隣国家のキリスト教化に影響を及ぼしたのです。






キリスト教伝播に宣教師の役割は重要ですが、宣教師は帝国と教会、すなわちキリスト教世界が派遣したメッセンジャーで、世界帝国の大きな威光を背景に宣教をおこなったのです。キリスト教帝国の影響がおよぶところでは、帝国に敵対する行為である宣教師迫害はほとんど起こりませんでした。反対に、キリスト教帝国の影響圏外の国家では、たとえ多数の信者を獲得しても、キリスト教は禁止され、宣教師が弾圧された歴史があったのです。






フランク王国の影響がおよんだ6世紀のイギリスでは、40人の宣教師によって国家のキリスト教化が成しとげられましたが、キリスト教国家の影響圏外にあった17世紀の日本では、400人のカトリック宣教師が、決死の伝道をして数十万人の信徒を獲得しても、キリスト教は禁止され、宣教師は追放、迫害されたのです。



次回は、国家の生存戦略としての世界宗教受容について引きつづき説明いたします。