宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

戦国一大奇観〈覇者信長とキリシタン跳躍〉

信長、フロイスの勇気に感動 (二条城会見顛末)



永禄12年(1569)の4月3日、今度は、信長が会見を申し出、場所は二条城の建設現場を指定しました。信長は、堀の橋の上でフロイスを待ち、橋の板に腰を下ろして談話を始めました。





信長はフロイスの年齢、ポルトガルとインドから来てどれほどになるのか、どのくらいの期間勉強したか、親族はポルトガルでフロイスと再会したいと願っているか、ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るか、また、どれくらいの道のりなのか、そして日本にデウスの教えが広まらなかった時には、インドへ帰るかどうか等の質問を立て続けにぶつけました。





フロイスは最後の質問に対して、「たとえ信者が一人でも、その者のために終生日本に留まる決意である」と答えたのです。また、宣教師たちが、どんな動機でこのような遠国までやって来たのかという問いに対しては、日本に救いの道を教えること以外は、如何なる現世的利益も求めないと答えました。信長は、危険な航海を顧みずやって来た宣教師の勇気と、堂々とした返答に大変感銘を受けました。それは次にとった言動で判ります。





群集が、ふたりの様子を見ていましたが、そのなかには僧侶もいました。信長は、僧侶を指差しながら大声で、「あそこにいる欺瞞者どもは、汝ら(キリスト教宣教師)のごとき者ではない。彼らは民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また彼ら(人民)に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と言い放ったのです。(フロイス『日本史』)





信長は、政治権力をもつ仏教勢力を抑え込もうとしていました。この言葉には、世俗権力を持ち、自分に反対する僧侶への不信と、世俗的利益を求めず、遠い異国からやって来た宣教師に対する好意という、彼の、仏教とキリスト教に対する認識があらわれており、それは生涯変わりませんでした。翌年、信長と石山本願寺との対立は激化し、2年後にはあの延暦寺焼打ちを行なうのです。信長のキリスト教保護は仏教弱体化政策と表裏をなすものでした。





4月8日、信長はキリスト教布教許可の朱印状を与えました。フロイスは、7本の銀の延べ棒を献納しようとしましたが、信長はこれを受け取らず、無償で朱印状を与えたのです。信長はフロイスを自室に通し、自身が飲んだ茶碗で茶を飲ませ、美濃の干柿を振舞い、ヨーロッパとインド事情に関心を示し、話は2時間余りに及んだのです。





信長は、自分が岐阜に帰る前にふたたび来訪するようにフロイスに言い、その時は、ヨーロッパの綿織りの服を見せてくれと頼みました。他の贈物は受け取らなかったのに、先回のビロードの帽子といい、綿織りの服の依頼といい、ファッションに強い関心をもつ信長の趣向をよく表しています。





信長は4月29日、フロイスと僧侶日乗の宗論(教義論争)を行なわせ、300人余りの信長軍団の主だった人々が参席しました。フロイスの日本語能力は充分ではなく、ロレンソという琵琶法師出身のイルマン(修道士)が議論に立ち、神の存在有無を中心に、激しい論争を展開しました。





宗論はキリシタンの圧勝で、日乗は論争最中に怒りだし、信長の面前であるにもかかわらず、ロレンソに切りかかったので、数人の者に制止されました。このなかには秀吉も居たといいます。信長は日乗のふるまいを激しく非難しました。この宗論の結果、キリシタンの教えに好意を抱いていなかった家臣も考えが変わり、京の市中にもこの顛末が伝えられたのです。





岐阜城・信長の驚愕の行動、かくて、信長・キリスト教連合成立


宗論に敗れた日乗は、キリシタンに激しい憎しみを抱き、朝廷にはたらきかけて、再び宣教師追放の綸旨を発させ、市中に不穏な動きもあり、キリシタンに危険が迫りました。フロイスは信長に助けを請いに岐阜城に赴きました。信長は、突然訪ねてきたフロイスを暖かく迎え、山のふもとにある館の内部を自ら案内して見せ、フロイスはこの館の巧妙なつくりと美しさに感動しました。





その後、信長は山上の城で驚くべき行動をとります。食事のとき、フロイスの膳を自らが運び、日本人修道士のロレンソには、次男の信孝に運ばせたのです。予想外の事態にフロイスは驚き、膳を頭上に戴いて感謝の意を表しました。





当時は戦乱の時代で、政治は不安定でした。そのような時代には、権力者の直接的行動が強い影響力を持ちます。岐阜城でのこの出来事はすぐに岐阜城下から京都へ伝えられ、信長がキリスト教に対し並々ならぬ好意を抱いていることが広く伝わり、日乗をはじめとする反対派は、これ以上の妨害は行なえなくなりました。





信長軍団は親キリスト教勢力となり、信長の影響下にある地域では、キリスト教が歓迎されるようになったのです。そのような連鎖反応を誰よりも知るのは信長自身で、後に、自分のこの日の振る舞いは、バテレンの名声を高めるためであったと語っています。これは事実上、信長とキリスト教の連合が成立した瞬間でした。この時を境に、人々のキリシタンに対する見方は一変し、日本におけるキリスト教の躍進が始まったのです。





岐阜城でも、2人は3時間ほども話し、信長は自然の構成要素である、地水火風や日月星辰、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、その答えに満足したのです。フロイスはルネッサンス期の教養を身に付け、人並み外れた好奇心で物事を観察する人物で、ポルトガル王室の秘書庁で働いた経歴もあり、貴人との接触も慣れていました。彼は優れたメッセンジャーであるとともに、文章家で、彼の書いた『日本史』は戦国時代を知る貴重な文献です。





信長はフロイスと18回も会い、親しく語り合いました。そこで信長が得た情報は、中国皇帝、朝鮮国王といえども知らない世界の最新情報でした。信長は事実上、当時の東アジアでもっとも優れた外交ブレーンを持つ権力者と言えたのです。





天正2年(1574)には、大村純忠が全領のキリスト教化を断行し、領民にキリスト教への改宗を強要し多くの信者を獲得します。天正4年には、有馬義貞、6年には、大友宗麟が洗礼を受けました。天正5年には、京都に「南蛮寺」が完成し、ザビエルがキリスト教を伝えてから28年を経て、首都京都に教会が建てられ、この異国風の建物は京の名所になりました。





キリスト教発展は信者数に表れています。信長とフロイスが会った翌年(1570年)のキリシタン数は京都で700人、全国で26000人でしたが、12年後の1582年には、京都で25000人となり36倍、全国で150000人に上り、6倍に増加し、キリスト教は一大宗教勢力に成長したのです。





高山右近の篤い信仰、キリシタンを窮地から救う



ところが、天正6年(1578)、信長とキリシタンのあいだに大問題が発生します。高山右近の父子は高い地位と人望とによって、畿内キリシタンの代表者のような存在でしたが、彼らの上司である荒木村重が、信長に不信を抱き、本願寺と通じ、在岡城に立てこもり叛旗をひるがえしたのです。





京都支配を軸に勢力圏を拡張していた信長にとって、京の近くで起こったこの謀反は、有利な状況を一気に覆しかねない極めて危険な動きでした。信長は、宣教師オルガンティーノを通じて、右近に対し投降して、高槻城を明け渡すように強く催促しました。





高山右近は、村重に翻意を促すため、在岡城に赴くとき、自分の嫡子と妹を人質として同行させました。村重は右近の誠意に心を動かされ、信長に許しを請いに城を出ましたが、反対する重臣達に城に連れ戻されてしまったのです。





この深刻な事態に、信長は、泣きすがるような表情すら浮かべ、オルガンティーノに高山父子が協力するよう働き掛けることを要請しました。もし、右近が信長を裏切るようなことがあれば、キリシタン全体に災いが及び、宣教が壊滅的打撃を被ることは火を見るより明らかでした。





右近は、人質を取られる一方、自分の決断如何が、キリスト教の運命を左右するという身を引き裂かれるような立場に追い込まれたのです。進退に窮した右近は、捨て身の行動に出ました。すべての地位を投げ出し、髪を剃り落とし、紙の衣を着て、信長に許しを請うたのです。信長はこれを受け入れ、右近を元の地位に復させました。





高槻城は開城し、在岡城への攻撃が開始されました。包囲は長期に及びましたが、村重は城を脱出し、尼崎に落ち延び、兵士らも撤退しました。信長は、村重の妻と2人の娘、近親36名を処刑し、貴婦人120名を磔に処し、514名の男女を小屋に押し込め焼き殺すという残虐な報復をしました。





信長を襲った危機は、オルガンティーノの協力と高山右近の捨て身の行動によって解決することができました。信長は、裏切りが常の戦国の世に、キリシタンは裏切らないことを知り、彼らを深く信頼し、以前に増す庇護を加えるようになるのです。

朝鮮侵攻の発案者は信長だった! -戦国脱亜とヨーロッパの宣教師-

われらは唯一のデウス、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会を唱道する。日本には十三の宗派があり、そのほとんどすべてが礼拝と尊崇とにおいて一致しない。


(『フロイスの日本覚書』松田毅一・E.ヨリッセン 中央公論社)
              * * *



中国からヨーロッパへ、先進知識の供給源が大転換



戦国時代の末期、日本にやって来たカトリックの宣教師は、ローマ教皇の意をうけ、キリスト教を布教するため海外にのり出したイエズス会の司祭たちでした。彼らを支援したのは、ポルトガルとスペインで、両国は大航海時代をひらき、世界に領土を拡張するキリスト教の帝国で、ヨーロッパ拡大の先兵となった国々です。




当時のヨーロッパは、宗教改革によりプロテスタントが勃興し、カトリックとのあいだで、凄惨な宗教戦争の時代に突入していました。宣教師たちは、内には宗教間の葛藤、外には征服という、激動するヨーロッパから戦国動乱の日本へ、まさにその絶頂期を迎えようとしている時にやって来たのです。





このカトリックの宣教師たちを保護した信長は、「戦国の申し子」のような人物でした。彼は、敵を倒し勢力圏を拡大するため、鉄砲活用や経済集中など、時代の新機軸を次々に打ち出しました。その信長も、宣教師に対してだけは、彼らの知識を貪欲に求める探求者であり続けたのです。彼は、宣教師を通じ、地球が球形であること、アジアを越えてさらに大きな世界があること、世界情勢、ヨーロッパの宗教、政治など、多くの情報を得ました。





先進知識の情報源がヨーロッパになり、ながく、知の発信地であった中国の役割は失われました。「日本・唐・天竺」という世界認識から、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカまで広がる、近代的世界認識を持つようになり、中国はただの隣国となったのです。それらの知識は、今日では常識ですが、当時の日本人にとっては、宣教師以外には得られない最先端の知識でした。





バテレン(宣教師)は、信長の国家戦略構想のブレーン



他の戦国大名が、領国経営と周辺情勢に目を奪われているなか、信長のみが、世界の中での日本という視野を持ち、日本をも越え、全国統一後は中国を征服するという途方もない構想まで、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスに語っていたのです。





よく、信長は、ヨーロッパの文物を得るため、宣教師を優遇したと説明されますが、彼はすでにフロイスが驚くほど多くの南蛮文物を所有しており、鉄砲は国産化され、入手には宣教師を通じる必要はありませんでした。信長は、「もの欲しさ」などではなく、宣教師を通じて、世界の情報を得、日本統一後の国家構想を案出するため、また、ヨーロッパ世界と通交するため、彼らを「ブレーン」として、あるいは「外交官」として特別な処遇をしたのです。





ヨーロッパのキリスト教拡大は、キリスト教国家の文明力と国力を背景としてなされましたが、遠方に位置するポルトガルが、日本に及ぼせる影響力はごく限られたものでした。ローマ帝国がキリスト教を公認したとき、キリスト教は大勢力でしたが、当時の日本のキリスト教は脆弱で、宣教師は京都から追放され、まさに風前の灯の運命でした。





古代の仏教と、戦国のキリスト教は、やって来た地域は異なりましたが、伝来後の状況は似ていました。国内基盤が脆弱で、王権である天皇は、受容に消極的、あるいは反対し、既存勢力の強い反発を受けたため、馬子も信長も、反対を押し退けて保護しなければならなかったのです。




日本は、仏教もキリスト教も、教えの発祥地から遠くはなれ、両宗教を受容した帝国との関係も希薄で、帝国の征服や圧力、あるいは外交関係により宗教が伝わらないという国際的条件が、同一でした。





そのため、世界宗教の受容と奨励を一手に請負う実力者、すなわち「請負人」が求められ、その人物の役割が大きなものになりました。古代における仏教受容の「請負人」が蘇我馬子で、戦国時代のキリスト教受容の「請負人」が信長でした。





信長はキリスト教に対し、人々が驚嘆するほど好意を示しましたが、これは人々から恐れられた人物が行う、極めて効果的な庇護策だったのです。信長の後押しにより、短期間に、キリスト教は大勢力に成長し、この南蛮宗教が一世を風靡する時代をつくりました。




このような保護政策を実行したのが、天皇でも将軍でもない一人の有力武将信長であったことも、島嶼独立国家の世界宗教受容の特徴をあらわしています。日本には、世界的文明や世界宗教との遭遇期に、忽然として、日本の枠を超える強い改革意思をもつ人物が現れますが、信長はそのような人物の代表といえるでしょう。





中国侵攻の発案者は秀吉ではなく信長



宣教師と出会った13年後、信長は本能寺の変に斃れました。彼の壮大な野心は、後継者秀吉に受け継がれ、文禄・慶長の役を引き起こしたのです。この戦争は信長の遺産と言ってよいものでした。



今日まで、朝鮮侵攻は秀吉の発想で行われたと思われて来ましたが、この戦争を、日本を神国とし、天皇を崇拝した秀吉の責任に帰すことは、日本が本来的に侵略性や野蛮性を持つ国であると誤解される余地を提供し、「神国 ‐ 天皇 ‐ 秀吉 ‐ 武士 ‐ 侵略」という荒唐無稽な構図が成立する危険があります。戦前には日本自身が、秀吉は愛国者で天皇を尊び、外国を征伐した英雄と称えたのです。





日本の歴史上、他国侵略のために兵を発したのはこの時が初めてで、海外侵略は、島嶼独立国家の伝統から逸脱する行為でした。秀吉は信長のように、日本を根本的に変革するような発想は持たず、天皇を戴き、日本の伝統を継承し、武家と貴族を合わせた政治体制をつくりました。しかし、アジアに対する認識と、中国を征服するという計画、すなわち海外認識と国家戦略は信長の発想を踏襲したのです。






そもそも日本には、中国を軽視する風潮はありませんでした。権勢を誇った足利義満ですら明朝に臣従しようとし、戦国大名も保守的な人物達で、中国観は古来のものでした。中国も征服可能な普通の外国とする考えは、信長と秀吉の中国観なのです。多くの人々はこのような意識を持てるはずもなく、秀吉の朝鮮侵略も人々は疑いを持っていたのです。





6世紀、日本はアジア伝来の宗教である仏教を受容し、アジアと強く結ばれました。1000年のあいだ、アジアを尊重していた日本が、戦国末期、ヨーロッパ文明との接触の衝撃により、突如として、国家意思決定者のアジア観が変化し、中国侵略の野望を抱き朝鮮半島に侵攻したのです。




この転換は、「戦国脱亜」と言えるアジア観と国家戦略の大変化で、ヨーロッパとの交流により科学技術は発展しましたが、島嶼独立国家を変貌させ、人々の価値観を混乱させました。それは、江戸元禄時代にいたり、儒教と仏教を強力に奨励することにより、国民が価値観の安定を取り戻す時まで、負の影響を及ぼしたのです。





また、戦国脱亜はヨーロッパ国家の圧力がないにも拘わらず、信長が、積極的に、キリスト教とヨーロッパ文明を受容して主導したもので、西洋列強の圧力によって引き起こされた「明治脱亜」よりも、自発的な、脱亜の原型とも言える日本史上の特殊時代でした。





信長、宣教師フロイスと邂逅 戦国史を変えた出会い


永禄12年(1569)3月、信長は綸旨(天皇の命令)で堺に追放されていた宣教師ルイス・フロイスを京都に帰還させました。これは、いかに朝廷の力が弱い時代でも、大変な越権行為で、王権が厳に禁じた宗教を、しかも王都で、信長という、一実力者が独断で許可するという、おそらく世界の宗教史上おこり得ない出来事でした。






信長は、フロイスの京都到着3日後、宣教師一行を接見しました。彼らは謝礼として、大きなヨーロッパの鏡と孔雀の尾、黒いビロードの帽子とベンガルの籐の杖を携えて行きました。一行は、奥に通され食膳を饗されましたが、信長の対応は、遠くから宣教師をじっと観察するだけで声もかけず、贈物のなかで、ビロードの帽子だけを受け取るという異様なものでした。






後に、信長はこの行動について、「遠方から渡来した異国人をどう扱ってよいものか判らず、宣教師と二人で話せば、自分がキリシタンになることを望んでいると疑われることを案じたため」、とその理由を語っています。






さすがの信長も、はじめて見る異国人、しかも都で物議をかもしているキリシタン・バテレンに対して、下手に扱えば政治的負担を負うことにもなりかねないので、どのように遇してよいか迷ったのです。この、信長とフロイスの出会いから、日本の戦国時代の様相が一変する激変がはじまるのです。次から、その展開を見てゆきましょう。

今、評価すべき「蘇我馬子」-見たくない事実も直視する日本史観-

遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明は、つつしんで侍臣の怒利斯致契を遣わして朝に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです。 (百済聖明王の国書) (『全現代語訳日本書紀』欽明天皇条 宇治谷孟 講談社)
 
             * * *

仏教受容をめぐる大戦争



日本の仏教伝来は、新羅より11年遅れた538年、百済の聖明王が朝廷に仏像や経典を伝えたときです。欽明天皇の対応は、大連の物部尾輿らの強い反対があり、大臣の蘇我稲目に崇仏を許すという措置に止まりました。





仏教信仰は、稲目の子、馬子が引きつぎ、584年から、百済渡来の仏像を安置し、仏殿と塔を建て、三人の少女を出家させ尼僧にさせるなど、大胆に仏教を導入しました。




翌年、疫病が大流行し、物部尾輿の子、守屋は、馬子の崇仏を怒る神々の祟りであると敏達天皇に訴えました。守屋は勅許を得、仏殿、仏像を焼き、塔を倒し、尼僧をムチで打つなど、強硬手段におよび、両派の対立は武力衝突にエスカレートしました。





対立は、政治手腕に長けた馬子が皇子たちや豪族を結集し優位に立ちます。587年、渋川の戦いは、初戦は守屋が指揮する廃仏派が優勢でしたが、守屋が戦死し、崇仏派が勝利を得、仏教が公認されました。日本は、仏教伝来から49年もの長きにわたり、受容可否をめぐり激しい対立がつづいたのです。





戦勝後、馬子は、百済に留学僧を派遣し、百済からは仏舎利がもたらされ、僧侶が渡来し、寺工、画工などもやって来、法興寺(飛鳥寺)を建立しました。そこに、慧慈と慧聡のふたりの渡来僧を住まわせ、この巨大寺院を、仏教宣教と国際交流の拠点としたのです。





日本の仏教受容は、国家を二分する対立をまねき、戦争に拡大しました。新羅は、受容をめぐり葛藤を経ても、イチャドンの殉教だけで公認されました。戦争を経た日本とは大きな差があります。大歓迎で応じた高句麗、百済の仏教伝来とは、あまりにかけ離れたものでした。






日本は、仏教が中華帝国ではなく、百済から伝来しました。百済は友好国で、仏教に対しどんな態度をとっても、相手国の意向を気遣う必要のない、いわば「拘束力」がないものでした。また自国に深刻な脅威をあたえる敵国もなく、仏教の導入如何が国家の命運を分けることでもありませんでした。






注目すべきは、受容の主体が、王権である天皇ではなかったことです。高句麗、百済はもちろん、新羅も受容主体は「王権」でした。ところが日本は、欽明天皇も敏達天皇も仏教受容を決めかね、蘇我氏という豪族が仏教受容を主張し、独自に導入を推進したのです。






世界宗教の導入は、国家の重大事で、諸国では王権が主導しました。日本においては、仏教というアジアの有力宗教であっても、王権が受容を推進しなかったのです。しかもそれが、近世のキリスト教導入と儒教奨励においても共通していたということは、日本の王権のあり方が、諸国と異なる性格を有することを示すことに他なりません。




仏教伝来と蘇我氏の国際性



『日本書紀』には、仏教受容に対し朝廷内の反応を伝える箇所があります。百済聖明王の国書には「遠く天竺より三韓に至るまで、人々はこの教えに従い、尊んでいます」とあり、仏教受容がアジア世界の趨勢であることを強調しました。





蘇我稲目は、「西方の国々は皆これを信じ、礼拝しています、日本だけがこれに背くべきではありますまい」と欽明天皇に言上しました。これは、中華帝国との外交関係で仏教を受容した高句麗や百済の立場、あるいは諸外国の動向を意識して仏教受容を推進した新羅の法興王と同じもので、アジア情勢の潮流に従う意思を示します。稲目のこの認識は、蘇我氏が渡来系諸族と関係が密で、外に目が向き、アジア情報を豊富に得られたからでしょう。




一方、この事実は、日本では、君主である天皇が、一豪族である蘇我氏よりも国際情勢に疎かったこと、それでも、天皇家は、君主として難なくこの国に君臨できたことを示します。





物部尾輿は「我国は帝が王としておいでになるのは百八十神を春夏秋冬お祀りなさるのが努めであり、今それを改めて蕃神を拝まれますならば、恐らく国つ神の怒りを招くでありましょう」と非難し、外国の神は拒絶する排他性をあらわにしました。日本においてこの主張は、排仏の論理として説得力を持ちました。





日本の仏教導入は、中華帝国や三韓諸国からの影響がおよばず、反対勢力の強力な攻撃に晒される逆境のなかでなされました。そのため、仏教をめぐるアジア情勢を感得し、反対勢力に対抗できる勢力がある蘇我氏によって受容が推進されました。すなわち、蘇我氏の役割、とくに馬子の活躍が大きかったのです。





今日まで、馬子が仏教受容に果した役割は注目されませんでした。理由は、彼が崇峻天皇を殺害した「大逆人」だったからです。彼は、日本の伝統精神からは許されない存在です。しかし、歴史を見るとき、好き嫌いを優先し、全体を判断することは、重要な真実を見落とすことになります。





日本の国情は、外来宗教、仏教を導入すること自体、極度の困難を伴なうものでした。仏教を導入するため、天皇を説得し、反対勢力と生死を賭した抗争に勝ち抜かなければならなかったのです。





韓国では、新羅の仏教受容でイチャドンの殉教に注目します。馬子も、仏教受容のために命をかけ廃仏派と戦いました。それは仏教公認の決定的行動でした。馬子が、日本の仏教改宗の最大功労者だったことは否定できない事実です。





6世紀、日本は、高度な哲学をもつ仏教を受容し、アジア諸国と世界観、価値観を共有する国家に変貌し、アジア文明の主流に合流しました。この仏教伝来とアジア文化の積極的導入は「古代入亜」と呼べる文明現象で、後の日本史に及ぼした影響は極めて大きなものがありました。遣隋使、遣唐使を派遣し、仏教を中心とする文化体系を持ち帰り、日本文化は飛躍的に発展しました。仏教は今日も多くの人々が信じる宗教であり、長く日本人の心をアジアと結びつけたのです。





聖徳太子コンプレックス



聖徳太子は仏書を著わし、推古天皇に仏典を進講しました。摂政という権力の座にありながら、宗教家がすべき役割も担ったのです。十七条の憲法を制定し、和の精神重視、仏教信仰、天皇尊重という国家の大きな枠組みを示す一方、隋に対し「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」で始まる国書を送り、中華帝国と対等の立場を主張した外交は優れたものでした。画期的な内政、外交政策を推進し日本の基礎をつくった聖徳太子は、偉大な政治家であるとともに、仏教保護の聖人と称えられるにふさわしい人物でした。





聖徳太子が日本仏教発展におよぼした影響は計り知れません。馬子が仏教受容の最大の功労者であるならば、太子は仏教隆盛の最大の功労者と言え、両者のはたらきは相互に支え合うものでした。





世界宗教受容期に、聖徳太子のように、その教義を深く理解する人物が執権者であったことは世界でも稀で、その上、人徳と功績により後に神格化されたような人物は例がありません。世界宗教受容史から見ても太子は異例な存在なのです。聖徳太子が発する光があまりに強いので、仏教受容もすべて太子の功績のように捉えてしまいます。





日本には「聖徳太子コンプレックス」と言えるものが存在します。仏教受容期に高潔な人物が出現したため、それがひとつの「原型」となり、宗教に関わる権力者は、太子のように立派であらねばならないという観念が形成されたのではないでしょうか。





それは世界宗教受容の現実とは隔たった考えです。キリスト教やイスラム教の受容も、帝国と諸国の外交政策、あるいは国家や教団の生存戦略という要素がつよく作用し、受容した君主に、宗教を深く理解した人物は稀なのです。





あの「ダビンチコード」でも触れていますが、西洋ではコンスタンティヌス帝の改宗動機は疑いを持たれています。しかし、今日、コンスタンティヌス帝の改宗は、「ヨーロッパの改宗」と銘打たれます。自身の離婚問題を契機にカトリックを拒絶しイギリス国教会を創立したヘンリー8世も利己的な人物でした。儒教を国教とした漢の武帝や明の洪武帝も恐るべき専制君主だったのです。







世界宗教を受容した権力者は独裁的で計算高い人物が多く、その実態は、宗教を利用したと言ったほうが真実に近いのです。しかし、諸外国では彼らが宗教受容、奨励に果した役割を高く評価し、それは世界宗教受容史の常識になっています。





このような諸外国の例から見ると、蘇我馬子の専制的な行動で、彼の仏教受容の功績を過小評価することは間違いです。日本には、聖徳太子のような優れた人物を尊崇し神格化する一方で、どんなに功があっても、欠点のある人物の役割には目を背けてしまう傾向があります。この「聖徳太子コンプレックス」は、織田信長のキリスト教保護、徳川綱吉の儒教奨励の評価にも影響します。





日本人には蘇我馬子のはたらきに神の計らいを感じ取る感性が求められる




諸国は、異民族による侵略や暴君の圧政に苦しみました。それがいかに嫌悪すべきものでも、何らかの意義を付与しなければ、歴史に空白が生まれ、自国史が自分達に益するものとはなりません。そのため否定的な過去も、「神の計らい」と受け止める歴史観をつくり上げました。中国はモンゴル王朝のような侵略王朝も、「天命」とし、正統王朝と認める歴史観をもちます。歴史を前進させるのは、決して良い事だけではないのです。






諸国の精神は、苦痛のなかから核になる部分が生まれ、国家の悲劇を「神の試練」、「天命」などと受け止め、絶対者を中心に置く歴史観を形成しました。今日でも、キリスト教徒やイスラム教徒は、深刻な事態に直面すると神に頼る思考が身についています。





日本人に「天命」という観念が希薄なのは、侵略や極端な暴政という艱難を経験せず、それを精神的に克服し得る、絶対者をいただく思想をもつ必要がなかったからです。世界でも稀な平和な土壌から、自然、人間を神格化し、繊細で優しい宗教観、世界観が生まれ、歴史を見るときもその思想が影響します。





日本的感性から見ると、聖徳太子は神になれる条件を完璧にそなえた人物です。反対に、馬子、信長、綱吉のような、専制的で自己主張が強く、「和」を優先しない非日本人的な人物は、恐れられ、嫌われ、彼らが宗教受容に重要な役割を果たしたなどと認めたくない心理を生みました。





三人の背後に、人智を越えた神の計らいを感じ取れず、どこまでも好き嫌いで歴史を判断してしまいます。このような思考は、彼らが宗教受容、奨励に果たした功績を排除し、自国史の重要ポイントを自分達に益するものにできなくさせます。





平和な歴史によってつくられた日本的発想は、大きなスケールで襲ってくる悲劇的事態に対処できない弱さを持ちます。東日本大震災でも、じっくり時間をかけ、根回しや段取りを経て事を運ぶ慣習が、復興を遅らせました。これらは平和を前提として成り立つ「和」の社会のやり方なのです。





突然襲った大津波の被害や原発事故は、侵略と同じなのです。このような凄まじい被害に対しては政府が強いリーダーシップを発揮し、一刻も早く、大規模復興計画を立て断行しなければならないのです。しかし、反対を恐れ、細かいことと調整を大事にする私達には、そのような手荒な方法は馴染みません。復興の遅延という事態も、平安のなかにながく浸かった感性から生じた、島嶼独立国家の副産物と言えます。

朝鮮・日本・仏教伝来の国際関係 -高句麗、百済、新羅、そして日本の仏教受容のちがい-

仏教、東アジアへ



仏教は、紀元前3世紀の中ごろ、マウリヤ朝のアショカ王に保護され、インド全域に広がり、海を渡りセイロン島まで伝わりました。マウリヤ朝滅亡後には、迫害期や停滞期もありましたが、2世紀にクシャン朝のカニシカ王に保護され、ガンダーラ美術を生みだすような全盛期を迎えました。仏教は、インドのふたつの帝国に受容され、帝国領と周辺に伝わったのです。





西域(中央アジア)から中国への伝播は、数百年をかけ、インドや西域の僧、仏教を学び経典をもち帰るために西方におもむいた、中国人求法僧たちによって成されました。ながい時間を要したのは、現世超越的なインド的思想世界と、現実的な中国的思想世界の乖離という問題もあります。それ以上に、西域と中国を隔てる厳しい自然条件により、両地域の交流は困難を極め、西域の仏教を受容した帝国が、中国への仏教伝播に影響力を行使できなかったことが主な理由です。





4世紀になり、仏教は五胡十六国時代の中国で隆盛し、中華帝国の直、間接的影響により周辺に伝播し、4世紀後半には朝鮮半島に伝わりました。朝鮮三国のうち、中華帝国の強い影響下にあった、高句麗と百済の仏教受容は順調に行われましたが、中華帝国の影響圏外にあった新羅に至り、強い反対に遭遇しました。中華帝国から遠く離れ、政治的影響力が全く及ばない日本では、仏教受容をめぐり大戦争が勃発したのです。





アジアにおける仏教受容も、帝国の役割が重要で、朝鮮半島と日本の仏教受容のあり方を見るとそれが明確になります。平和のうちに進行した仏教東漸が、新羅、日本に至り、大きく様変わりしたのです。この受容のあり方のちがいは、国家における世界宗教受容が何によって決定的影響を受けるかを教えます。





先にあげた、「世界宗教はそれを受容した帝国の影響力が及ぶところでは順調に伝播した」、「その世界宗教を受容した帝国の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という仮説は、東アジア地域の仏教受容にも適用できるのです。





何が、朝鮮三国に仏教を受容させたのか?



古代朝鮮三国における、仏教伝来の過程を見てみましょう。中華帝国と国境を接する高句麗は、372年に北朝の前秦から、僧の道順が派遣され仏教が伝来しました。小獣林王はこれに謝意を示す使節をおくり、道順に子弟の教育をさせます。まさに、国を挙げて仏教を歓迎したのです。この王は、仏教だけでなく律令頒布、大学設立など、中国の諸制度を取り入れ、王権を強化し、広開土王時代の発展の礎を築きました。





中華帝国と海上交流を行なっていた百済は、384年、南朝の東晋からインド僧マラナンダがやって来て仏教を伝えました。枕流王はすぐにマラナンダに帰依し、なんと、王宮に、マラナンダを住まわせるという格別の待遇で迎え、寺院を建立し、10人の百済人を出家させました。百済は、高句麗以上の敬意をはらい、仏教を受け入れたのです。





それに対し、新羅の仏教公認は、高句麗、百済と国境を接するにもかかわらず、約150年も遅れました。527年、法興王は、仏教受容の意向を臣下に諮りましたが、仏教徒であるイチャドン(異次頓)のみが賛成し、他の全員が反対したのです。





『三国史記』では、イチャドンがみずから望み殉教したとき、その首を切った瞬間、胴体から白い液体がほとばしり出るという奇跡が起こり、人々は驚愕し、反対を止め、法興王はようやく仏教を公認できたと伝えます。新羅の仏教受容は、大歓迎で受け入れた他の二国とは異なり、殉教という犠牲がともなったのです。





仏教受容の国際関係



朝鮮三国の仏教受容の背景を考えてみましょう。高句麗の仏教受容は、中華帝国との正式外交として成されました。その前年、高句麗は、故国原王が百済軍との激突で戦死するという悲劇に見舞われました。強敵百済の脅威に直面する状況では、宗主国前秦との関係は何にも優先する重大事で、小獣林王は仏教を拒絶せず、積極的に受容する選択をしたのです。





高句麗の仏教受容は中華帝国と友好関係を強化し、律令制導入と大学設立を行ない、国力を強化することによって、百済との競争に優位に立とうとする、内外政策と結び付いて成されたのです。





百済の仏教伝来は、中華帝国との正式外交ではありませんでしたが、マラナンダ渡来の2ヶ月前、東晋に朝貢しており、その際に僧侶派遣を依頼した可能性があります。中華帝国との外交関係が、仏教伝来の背景にあったことは間違いありません。





百済も高句麗との対決上、東晋との関係は損なえません。すでに高句麗は仏教を導入し、国家制度を改革し、国力を充実させています。宗主国である東晋と、競争国高句麗で仏教が受け入れられ篤く信仰されている状況で、マラナンダが東晋から渡来して来たのです。この僧侶と仏教をどう処遇するかは、国家の命運を左右する問題であり、百済は積極的に仏教を受容する決断をしたのです。マラナンダを王宮に住まわせるという最大級の処遇は、明らかに、高句麗の仏教受容を強く意識した行動です。





古代東アジアにおける仏教とは、中華文明を背景とし、学問、芸術、建築などの諸文化をともなう体系で、仏教受容は中国との思想的、政治的なつながりを強めるとともに、自国の文化水準を高め、国力を増強させます。高句麗と百済の仏教受容は、中華帝国の政治力と文明力が背景となるものだったのです。





一方、新羅の仏教導入は、中華帝国とは無関係で、法興王の発意によるものでした。新羅は高句麗と百済の二国にさえぎられ、中華帝国との交流ができなかったのです。弱小国であった頃に、高句麗の使節に従って前秦に朝貢したことがありますが、顔見せ程度のものに過ぎませんでした。





中華帝国との交流は、それに携わった人々に、アジア世界に対する豊富な知識を与えます。中国と国交のあった高句麗や百済の支配勢力は、仏教がアジアで広く信奉され、受容は避けがたい潮流であることを認識できました。中国との交流がほとんどなかった、新羅支配層は、大陸での仏教をめぐる情勢を感じ取ることはできなかったのです。





法興王が仏教導入を推進したのは、君主として、諸外国の動向を注視していたからです。王は仏教受容に先立つ七年前、律令を頒布するほど中国を意識し、その制度を取り入れることに積極的でした。高句麗と百済が仏教受容を契機に、中華帝国と関係を深め、文化と国力を発展させている状況を知り、新羅も仏教導入が必要だと判断したのです。新羅の仏教受容は、中華帝国との関係によって成されたものではありませんが、その間接的影響と言えるでしょう。





朝鮮三国の仏教受容は、中華帝国を中心とする国際関係と諸国の対立関係、そして内政改革が絡み合う、国家の生存戦略の一環であったのです。それはヨーロッパにおけるキリスト教、西アジアのイスラム教の受容とも類似し、世界三大宗教の受容に、帝国の影響と国家の生存戦略という要素が同じように深く関っていたことが分かります。



次回は、日本における仏教伝来がどのような様相を呈したか見てみましょう。

入亜と脱亜の日本史観

脱亜という文明の挑戦 -戦国脱亜と明治脱亜-


日本の歴史は、西洋に接近した「脱亜の時代」と、アジアに接近した「入亜の時代」がありました。まず、脱亜の問題を、福沢諭吉の「脱亜論」から考えてみましょう。「脱亜論」は明治18年(1885)、「時事新報」に無署名の社説として発表され、48年後の1933年に、『続福沢諭吉全集2巻』に収録され、ようやく福沢の文章と知られるようになりました。





平山洋氏の研究 (『福沢諭吉の真実』2004)  によると、「脱亜論」が取上げられ、人々が関心を向けるようになったのは、なんと、戦後、それも1960年代の半ばからと指摘しました。一般に、「脱亜論」が「脱亜入欧」として日本近代化の論理になったような印象がありますが、実際は、この文章も、脱亜という言葉も、長く注目されなかったのです。





「脱亜論」を待つまでもなく、近代日本のあり方が「脱亜」そのものでした。福沢の「脱亜論」の重要な意義は、「脱亜」あるいは、「脱亜入欧」という優れた造語を世に送り出し、著者の意図を越え、この言葉が、近・現代日本の、アジア、世界との関り方について様々な問題提起をしたことです。





基本認識として、思想的に、また、国家の戦略として「脱亜」を選択することは可能です。しかし、地理的条件、人種的条件、また文明の根幹を変え、「脱亜」することは不可能なのです。





福沢自身、アジアに反発していても、徳川時代という「入亜の時代」に育った人物で、日本文明がアジア帰属することは自明のことでした。彼はその後、脱亜という言葉を使っていません。本気で「脱亜」を唱えるならこの言葉を頻繁に用いたはずです。「脱亜」という言葉は、彼が支援し朝鮮で進んでいた革新運動が、清軍と朝鮮の保守派によって無惨に阻止された甲申事件に怒った福沢が、無署名の社説中に使った、多分に感情的表現です。彼の知性ではなく感情が生んだ言葉です。





脱亜入欧という言葉が注目されたのは、戦後の、「高度成長期」でした。当時は、日本が目覚しく発展する一方で、冷戦下のアジアは危険で遅れており、日本人は欧米に目を向けアジアと距離を置く、まさに「脱亜の時代」でした。そのような中で、日本の近代化のあり方を論じるテーマとして、70年前の福沢の文章にあらわれる「脱亜」が取上げられたのです。





「脱亜」は、戦国時代末期、すでに経験した歴史現象で、脱亜問題を知るには歴史を紐解かなければなりません。本書の言う「脱亜」とは、西洋文明との遭遇による衝撃により、アジアから距離を置くことになる、日本人のアジア認識と国家戦略の転換です。それを可能にさせたのは、日本が自国の意思でアジアとの距離を設定できた国だからです。韓国のように、中華帝国の影響下に存在し、中華帝国との文明的、政治的繋がりが強固な国なら「脱亜」は不可能でした。





日本には、近世のはじめにヨーロッパの影響を受けた「戦国脱亜」の時代があり、近代に至り、欧米列強の影響を受けた、「明治脱亜」の時代がありました。日本は、戦国期と明治期に「脱亜」という文明の挑戦をしたのです。






入亜という文明の深化 -古代入亜と元禄入亜-



一方、「入亜」は、脱亜の反対概念ですが、ほとんど議論の対象になりませんでした。しかし、20世紀末から、アジアの伝統的大国である中国とインドが発展し、世界におけるアジアの比重が大きくなりました。そのような中で、「入亜」という見解があらわれ始めました。陸培春氏の『〈脱米入亜〉のすすめ』(1994)、また、寺島実郎氏の『21世紀の潮流を見誤るな・〈親米入亜〉のすすめ』(2001)などが出版されました。





この「島嶼独立国家・日本」シリーズでは、日本史の大きな歴史現象として「入亜」をとらえます。日本における「入亜」は、精神の改革、発展でした。それはアジア発祥の思想、宗教の伝来、受容というかたちであらわれました。古代における仏教受容と、江戸・元禄時代の儒教の本格的奨励を、精神的「入亜」の時代と捉えることができます。それにより日本文明は、より高度なもの、より深化したものになりました。





日本人の思想、精神形成において、仏教、儒教の果たした大きな役割は、言及するまでもありません。私たちは常識として、仏教は百済の聖明王から伝えられ、受容における聖徳太子の役割を重視します。儒教は徳川家康が儒教の教えを重んじ、幕府の官学としたと理解します。





しかし、重要な人物を忘れているのです。それは仏教の受容における蘇我馬子と、儒教の奨励における徳川綱吉です。本シリーズでは、この日本史の異端者といえる二人に焦点をあてます。そうすることによって、今まで、日本人が見なかった、見落としていた、日本史の真実が見えてきます。そして、これらの人物について考えることは、現代に生きる私たちが、反グローバリズムに立つ歴史観を形成するカギになります。





蘇我馬子 - 織田信長 - 徳川綱吉のラインの意味



今日までの歴史観は、蘇我馬子でなく聖徳太子、織田信長でなく徳川家康、徳川綱吉でなく徳川吉宗を尊重します。聖徳太子-徳川家康-徳川吉宗、このラインは、理想的で、日本人に尊敬と安心と親しみを与えます。いわば、私たちが見たい歴史の流れです。





しかし、蘇我馬子-織田信長-徳川綱吉のラインは、現実的で、私たちに、軽蔑と恐怖と束縛を感じさせます。いわば、私たちが見たくない歴史の流れです。しかし、仏教受容のキーマンは馬子、キリスト教を最も強力に保護したのは信長、儒教を最も強力に奨励したのは綱吉でした。この三人の役割をしっかり見なければ日本人の精神史の真実は語れません。





インドで仏教を受容したのは大量虐殺者アショカ王、イギリス国教会を開いたのはエゴイストのヘンリー8世、中国で儒教を国教にしたのは恐怖の専制皇帝の武帝でした。宗教の受容はきれいごとではありませんでした。それが現実の宗教史です。なんのことはない、馬子・信長・綱吉は、世界においてはスタンダードな権力者なのです。反対に、聖徳太子-徳川家康-徳川吉宗のラインは、聖人と名君で、まさに、世界には稀な、日本的な歴史主人公たちです。





日本人が見たい歴史は、理想的で、尊敬でき、安心で、親しみを感じる歴史です。しかしこれは世界の歴史とかけ離れています。そこから、非武装中立論や、共産独裁国家の平和攻勢に騙されたり、外国の主張を安易に受け入れたりする甘さが表れるのです。世界史は、現実的で、利己的で、不安定で、拘束的なものでした。





馬子・信長・綱吉という歴史の流れを提起する理由は、日本史のなかに、世界のスタンダードな歴史があることを知って、日本人が「強靭な歴史観」を持ってほしいからです。しかし、一方、彼らは、外国の圧力や影響ではなく、自らの自発的意思で宗教を受容、保護したのです。まさに、島嶼独立国家の宗教受容の特殊性が如実にあらわれる形をとりました。





これを正しく捉えることで、グローバリズムと戦う強力な歴史観を形成できます。すなわち、聖徳太子-徳川家康-徳川吉宗の聖人や名君の流れで、よき日本史を感じ取り親しみを持ち、そして、蘇我馬子-織田信長-徳川綱吉の僭主や独裁者の流れから、厳しい日本史を感じ取り、緊張感を持つことができるのです。