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入亜と脱亜の日本史観

脱亜という文明の挑戦 -戦国脱亜と明治脱亜-


日本の歴史は、西洋に接近した「脱亜の時代」と、アジアに接近した「入亜の時代」がありました。まず、脱亜の問題を、福沢諭吉の「脱亜論」から考えてみましょう。「脱亜論」は明治18年(1885)、「時事新報」に無署名の社説として発表され、48年後の1933年に、『続福沢諭吉全集2巻』に収録され、ようやく福沢の文章と知られるようになりました。





平山洋氏の研究 (『福沢諭吉の真実』2004)  によると、「脱亜論」が取上げられ、人々が関心を向けるようになったのは、なんと、戦後、それも1960年代の半ばからと指摘しました。一般に、「脱亜論」が「脱亜入欧」として日本近代化の論理になったような印象がありますが、実際は、この文章も、脱亜という言葉も、長く注目されなかったのです。





「脱亜論」を待つまでもなく、近代日本のあり方が「脱亜」そのものでした。福沢の「脱亜論」の重要な意義は、「脱亜」あるいは、「脱亜入欧」という優れた造語を世に送り出し、著者の意図を越え、この言葉が、近・現代日本の、アジア、世界との関り方について様々な問題提起をしたことです。





基本認識として、思想的に、また、国家の戦略として「脱亜」を選択することは可能です。しかし、地理的条件、人種的条件、また文明の根幹を変え、「脱亜」することは不可能なのです。





福沢自身、アジアに反発していても、徳川時代という「入亜の時代」に育った人物で、日本文明がアジア帰属することは自明のことでした。彼はその後、脱亜という言葉を使っていません。本気で「脱亜」を唱えるならこの言葉を頻繁に用いたはずです。「脱亜」という言葉は、彼が支援し朝鮮で進んでいた革新運動が、清軍と朝鮮の保守派によって無惨に阻止された甲申事件に怒った福沢が、無署名の社説中に使った、多分に感情的表現です。彼の知性ではなく感情が生んだ言葉です。





脱亜入欧という言葉が注目されたのは、戦後の、「高度成長期」でした。当時は、日本が目覚しく発展する一方で、冷戦下のアジアは危険で遅れており、日本人は欧米に目を向けアジアと距離を置く、まさに「脱亜の時代」でした。そのような中で、日本の近代化のあり方を論じるテーマとして、70年前の福沢の文章にあらわれる「脱亜」が取上げられたのです。





「脱亜」は、戦国時代末期、すでに経験した歴史現象で、脱亜問題を知るには歴史を紐解かなければなりません。本書の言う「脱亜」とは、西洋文明との遭遇による衝撃により、アジアから距離を置くことになる、日本人のアジア認識と国家戦略の転換です。それを可能にさせたのは、日本が自国の意思でアジアとの距離を設定できた国だからです。韓国のように、中華帝国の影響下に存在し、中華帝国との文明的、政治的繋がりが強固な国なら「脱亜」は不可能でした。





日本には、近世のはじめにヨーロッパの影響を受けた「戦国脱亜」の時代があり、近代に至り、欧米列強の影響を受けた、「明治脱亜」の時代がありました。日本は、戦国期と明治期に「脱亜」という文明の挑戦をしたのです。






入亜という文明の深化 -古代入亜と元禄入亜-



一方、「入亜」は、脱亜の反対概念ですが、ほとんど議論の対象になりませんでした。しかし、20世紀末から、アジアの伝統的大国である中国とインドが発展し、世界におけるアジアの比重が大きくなりました。そのような中で、「入亜」という見解があらわれ始めました。陸培春氏の『〈脱米入亜〉のすすめ』(1994)、また、寺島実郎氏の『21世紀の潮流を見誤るな・〈親米入亜〉のすすめ』(2001)などが出版されました。





この「島嶼独立国家・日本」シリーズでは、日本史の大きな歴史現象として「入亜」をとらえます。日本における「入亜」は、精神の改革、発展でした。それはアジア発祥の思想、宗教の伝来、受容というかたちであらわれました。古代における仏教受容と、江戸・元禄時代の儒教の本格的奨励を、精神的「入亜」の時代と捉えることができます。それにより日本文明は、より高度なもの、より深化したものになりました。





日本人の思想、精神形成において、仏教、儒教の果たした大きな役割は、言及するまでもありません。私たちは常識として、仏教は百済の聖明王から伝えられ、受容における聖徳太子の役割を重視します。儒教は徳川家康が儒教の教えを重んじ、幕府の官学としたと理解します。





しかし、重要な人物を忘れているのです。それは仏教の受容における蘇我馬子と、儒教の奨励における徳川綱吉です。本シリーズでは、この日本史の異端者といえる二人に焦点をあてます。そうすることによって、今まで、日本人が見なかった、見落としていた、日本史の真実が見えてきます。そして、これらの人物について考えることは、現代に生きる私たちが、反グローバリズムに立つ歴史観を形成するカギになります。





蘇我馬子 - 織田信長 - 徳川綱吉のラインの意味



今日までの歴史観は、蘇我馬子でなく聖徳太子、織田信長でなく徳川家康、徳川綱吉でなく徳川吉宗を尊重します。聖徳太子-徳川家康-徳川吉宗、このラインは、理想的で、日本人に尊敬と安心と親しみを与えます。いわば、私たちが見たい歴史の流れです。





しかし、蘇我馬子-織田信長-徳川綱吉のラインは、現実的で、私たちに、軽蔑と恐怖と束縛を感じさせます。いわば、私たちが見たくない歴史の流れです。しかし、仏教受容のキーマンは馬子、キリスト教を最も強力に保護したのは信長、儒教を最も強力に奨励したのは綱吉でした。この三人の役割をしっかり見なければ日本人の精神史の真実は語れません。





インドで仏教を受容したのは大量虐殺者アショカ王、イギリス国教会を開いたのはエゴイストのヘンリー8世、中国で儒教を国教にしたのは恐怖の専制皇帝の武帝でした。宗教の受容はきれいごとではありませんでした。それが現実の宗教史です。なんのことはない、馬子・信長・綱吉は、世界においてはスタンダードな権力者なのです。反対に、聖徳太子-徳川家康-徳川吉宗のラインは、聖人と名君で、まさに、世界には稀な、日本的な歴史主人公たちです。





日本人が見たい歴史は、理想的で、尊敬でき、安心で、親しみを感じる歴史です。しかしこれは世界の歴史とかけ離れています。そこから、非武装中立論や、共産独裁国家の平和攻勢に騙されたり、外国の主張を安易に受け入れたりする甘さが表れるのです。世界史は、現実的で、利己的で、不安定で、拘束的なものでした。





馬子・信長・綱吉という歴史の流れを提起する理由は、日本史のなかに、世界のスタンダードな歴史があることを知って、日本人が「強靭な歴史観」を持ってほしいからです。しかし、一方、彼らは、外国の圧力や影響ではなく、自らの自発的意思で宗教を受容、保護したのです。まさに、島嶼独立国家の宗教受容の特殊性が如実にあらわれる形をとりました。





これを正しく捉えることで、グローバリズムと戦う強力な歴史観を形成できます。すなわち、聖徳太子-徳川家康-徳川吉宗の聖人や名君の流れで、よき日本史を感じ取り親しみを持ち、そして、蘇我馬子-織田信長-徳川綱吉の僭主や独裁者の流れから、厳しい日本史を感じ取り、緊張感を持つことができるのです。