宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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「天下泰平の世」はどうして実現できたのか?

1.綱吉の強力な文治主義


幕府と朝廷、そして儒教界・仏教界という文治のつながりは、社会に「文」の価値を復興させ、「戦国殺伐の余習」を克服する力を発揮しました。この戦国余習の悪弊は根強いもので、3
代将軍家光のような武断統治の政権や、つづく、4代家綱の脆弱な文治主義では到底解決できず、5代綱吉の「強力な文治主義」が求められました。『徳川実紀』には当時の混乱する社会状況を次のように記しています。




戦国掘強の余風なをいまだ改まらず。世人多くは暴戻残悍をもて武とおもひ。意気慷慨をもて義となす類ひ。殺伐の余習より出て。大道にそむき不仁の所為に陥る事すくなからず。当代兼てよりこの弊習を改化し給はん思召にて。― 殊に聖人の道を御尊崇ありて。文学を励むべき旨しばしば令し下され。 ― 四海風にむかひ。文運大に勃興し。戦国の余習斬に変じて。昇平雍熙の治を開かせ給ひ。



 


ここでは、社会に大道にそむき不仁の行いが横行し、その原因は「殺伐の余習」すなわち長い戦国動乱によって習いになってしまった暴虐、蛮勇の弊習で、「世人多くは」と、社会の広範におよぶ深刻なものと指摘しています。






2.古代中国・孔子の時代も同じ社会状況だった



そもそも、中国における儒教誕生の動機も戦国動乱の克服でした。孔子が生きた春秋戦国時代は、諸侯が覇を争い、謀略と武力の巧みな行使が国の命運を左右しました。諸侯は、勇猛な、あるいは知略に優れた人物を優遇したため、野心と能力ある者にとっては、立身の機会に恵まれた時代でした。洋の東西を問わず、このような弱肉強食の世には、力が重視され、人々の間に蛮勇を良とする風潮が生まれます。孔子は、この混沌とした時代に、「力の政治」より、「仁の政治」が必要だと訴え、君主の思想を正すことで平和を取り戻そうとしたのです。





日本の戦国時代も、武将たちは強力な軍事力の保有と、敵を倒すため、あらゆる戦略、戦術を駆使しました。大規模な戦闘が各地で行なわれ、腕力ある者なら武士になることができ、ならず者でも世に出る機会が与えられました。そして、鉄砲が普及し、破壊力が強化されることによって、ついに外国を侵略するまでに至ったのです。この100年余りに及んだ戦乱によって、人々の心の中に荒々しい気風が根を下ろし「戦国殺伐の余習」が生まれました。





家康は、日本古来の伝統的価値を尊重し、外への膨張よりも内政を重視しました。家綱代になり、文治統治に転換し、綱吉時代に至り、本格的に戦国余習の克服に取り組むようになったのです。孔子や孟子が、中国の混乱する状況を儒教道徳の力で克服しようとしたように、綱吉も、儒教道徳の力で国民の精神を安定に導こうとしました。儒教の教えは、元禄日本でも、古代中国と同様の役割が期待されたのです。





3.これが「生類憐みの令」の真実
 


「生類憐みの令」も、戦国余習克服の一環として発令されました。この法は、貞享2年(1685)から頻繁に出された、動物に対する保護令で、次第に強化され、鳥類の捕獲、殺生、鳥魚類の食用売買などを禁じ、国民は犬を傷付けることや、魚や鳥肉を食すこともできなくなりました。この法は庶民を苦しめた「天下の悪法」といマイナスイメージが強いものです。





法の発令動機について、通説になっているのは、綱吉が長男を亡くして以来、子に恵まれなかったので、僧の隆光が「子に恵まれないのは前世の殺生の報いで、子を得るには生類を慈しみ、とくに綱吉が戌年生まれなので犬を慈しみなされ」と進言したからだというものです。





山室恭子氏は、綱吉が隆光を知る前に、すでに「生類憐みの令」は発令されていること、隆光は日記で「生類憐みの令」について一切触れていないこと、綱豊を後継者と決めた後にもこの法令を撤回しなかったことなどを挙げ、この説を否定しました。



また山室氏は、法に違反した者は容赦なく罰したという今日までの通説に対しては、史料をもとに、幕府は違反者には極力温情をもって臨んだと指摘しました。「お犬様を傷つけたりしたら重罪になった」のような話は誇張されたものだったのです。





「生類憐みの令」の重要な意義は、武士の価値観を根底から変えたことです。鳥獣の生命を損じることが罪ならば、人命はなおさらであり、武士にとってこの法は、自分達の価値観を根本的に変革せずには、到底向き合うことができないものでした。このような法を武家政権が発令したこと自体が驚きなのです。





『徳川実紀』では生類憐みの令の発令動機が、「また殺生禁断の御事も、はじめはかの殺伐の風習を改めて。好生の御徳を遍く示し給はん誠意より出しが」と、「殺伐の風習=戦国余習」の解決にあったとしています。この法令の目的も、儒教奨励とおなじ、戦国余習の克服だったのです。





4.儒・仏の感化力が「泰平の世」を開いた



元禄14年、綱吉の儒・仏奨励政策が完成をみた頃に発せられた「大名戒諭」は、「忠孝をはげまし、礼儀を正しくし」という儒教的な文言から始まりますが、「仁愛のこころざしを専とし、生類をあはれむべし」という言葉があらわれます。大名戒諭に「儒教」と「生類憐み」が同時に強調されているのです。




綱吉にとってこれらは「車の両輪」、すなわち一つのものであったことが分かります。この法は、仏教の慈悲と儒教の仁政思想を背景とし、生類に対する憐みの情を喚起させることにより、人々を善導しようとした、儒・仏奨励政策なのです。 





幕政初期は、社会も人々の精神も決して平和なものではありませんでした。今日、徳川時代が平和な時代であったと語るのは、人々の価値観が変わった元禄時代以降を回想する言葉です。「泰平の世」は、幕府が儒・仏を奨励し、その教えが人々に尊ばれるようになったことと深く関係しており、アジア伝来の宗教である儒・仏の感化力が、徳川の平和を創出したのです。
                                                                         (永田)


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