宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

新宗教と伝統宗教のちがい

 伝統宗教が、「新宗教」だったとき


新宗教とは、ほぼ19世紀以降に創始された宗教で、日本は新宗教の力がたいへん強い国です。新宗教を知るには、伝統宗教と比較するのが近道です。なぜなら、伝統宗教もはじまりは新宗教だったからです。伝統宗教の歴史と現在を知ることによって、新宗教の未来の姿を想像できるのです。





まず、信者数に桁違いの差があります。キリスト教は22億、イスラム教は12億、ヒンズー教は8億、仏教は3億にのぼります。それに比べ新宗教は、創価学会やモルモン教でも1000万に及ばず、多くて100万、ほとんどの教団は50万以下という規模で、伝統宗教とは比較になりません。伝統宗教は1000年以上の歴史があり、「国教」として全国民が信者となった時代を経ました。その歴史によって培った勢力は世界にひろがる巨大なものです。





しかし、伝統宗教もはじめは一から出発し、苦難の歴史を歩みました。キリスト教が「新宗教」だったとき、イエス様は罪人として殺され、信徒はローマ帝国により凄惨な迫害を受けました。約300年間、キリスト教は人々を惑わす邪教として非難を受けたのです。イエス様ほど、死後にも激しく誹謗中傷された教祖はいません。





宗教は、宣教初期と、国家に公認された後では状況がまったく異ります。キリスト教は392年にローマ帝国の国教になり、ゲルマン民族移動後は、ヨーロッパの支配的宗教になりました。ローマのサンピエトロ大聖堂建立は、教団というより、ヨーロッパ・カトリック世界を挙げた事業でした。壮大な聖堂にはミケランジェロのピエタなど、歴史的な芸術作品群が安置され、その途方もない価値に圧倒されます。すべてはイエスキリストの栄光を称えるものです。伝統宗教は国家と一体化した歴史をもち、人々の霊性を高め、文化の発展に貢献し、国民精神を形成したのです。





日本仏教もおなじです。伝来初期は排仏派の物部氏の圧迫をうけ、寺院は焼かれ仏像は破壊され、尼僧は投獄され鞭打たれるなど、激しい弾圧を受けたのです。仏教が公認されてから150年あまり後、東大寺の大仏が建立されました。東大寺は華厳宗の本山ですが、聖武天皇の詔勅により国家的事業として建立され、庶民も汗を流し奉仕しました。国民統合を象徴するこの大寺院は、今日、国宝と重要文化財が安置され、多くの観光客が訪れます。





このように伝統宗教は、新宗教であったときには迫害を受けましたが、国家に公認されてからは人々を指導し、栄光を受け、精神的伝統の創造者になりました。





歴史的しがらみがない新宗教


一方、新宗教も、伝統宗教の初期のように、国家、社会から拒絶され、過酷な迫害を受けました。創価学会の初代会長牧口常三郎師は、当局の弾圧により1944年に獄死し、モルモン教の創始者ジョセフ・スミス師は、1844年、いわれのない嫌疑をかけられ獄に繋がれているとき、反対派に襲撃され殺害されました。奇しくも日本とアメリカの最大新宗教の創始者がそろって殉教しているのです。





この事実は、新宗教が直面した弾圧の凄まじさを物語ります。大本教や天理教なども弾圧されました。新宗教が認められ「市民権」を得るまでには、伝統宗教の時と同じように長い年月が必要でした。まさに歴史は繰り返すのです。宗教の真価が明らかになるのは、歴史の証明を待つしかありません。





また伝統宗教は、現代の幸福な世界をつくるのに多大な貢献をしました。しかし反面、さまざまな問題の責任もあるといえるのです。先に挙げた四つの伝統宗教だけでも、信者数は45億人あまりに達し、70億人類の二分の一を優に超えます。ながく人々を指導し、巨大な勢力を誇っても、いまだに平和な世界を実現できないのです。それは宗教の感化力が及んでいないことを示します。





反対に、新宗教は歴史が浅いので、現代世界の形成にさしたる貢献はしていません。しかしまた、歴史的な責任もない立場といえます。新宗教は、過去のしがらみのない立場から、新時代の平和メッセージを発信することができます。新宗教の課題は、宗教史の負の遺産を引き継がず、未来を志向し、人類のために、今、何ができるか、ということです。






伝統宗教の「光」と新宗教の「熱」


玄侑宗久さんは、臨済宗のお寺の住職の子息に生まれ僧侶になりました。瀬戸内寂聴さんは51歳のとき自ら望み天台宗の僧侶になりました。伝統宗教は多くの場合、家の信仰を継承するか、自ら決意して信仰をもちます。すなわち、お二人は、人生と世界の問題を考えたすえに、玄侑さんは伝統信仰の「光」を受け継ぐことにし、寂聴さんは伝統信仰の「光」を求め、そこに飛び込んでいったのです。伝統宗教には、歴史的伝統が発する「光」があります。





しかし、新宗教の基盤をつくった人々は、街角で伝道されたり、友人から勧誘されたりして入信した人々です。他者による働きかけで信仰をもつようになりました。彼らは、信仰の継承や、強い願望がないかわりに、突然、宗教的世界観に触れ、人生に二度ない精神の高揚を体験しました。ですから、自分が信仰をもっていることは、神や仏の「一方的恵み」と感じます。それは、自然に、つよい感謝の念と奉仕の心を生みます。





新宗教は歴史もあさく、「新興宗教」という差別的な用語で呼ばれ、信者というだけでも社会でハンディーを負うこともあります。しかし信者は、神や仏、永遠を知った喜びに満たされ、伝道の情熱もあります。その心の高揚と、社会的逆境を克服し、教団を発展させるため、自然に「熱」を帯びます。





伝統宗教は、出家者、牧会者が強い指導力を発揮し、多くの場合、信者は、個人として、宗教的真理を実感することや、教団に対する奉仕を要求されません。救いも指導者に依存します。日本の伝統的仏教のあり方などはその典型です。





しかし、新宗教の信者は、個人として、神や仏、永遠の命を知り、救いを実感し、人々に証すこと、また、程度の差はありますが、伝道や社会貢献なども求められます。信者が熱を帯びて語り奉仕するのが新宗教の特徴です。





伝統宗教と新宗教の協力が世界を救う


伝統宗教は人類を救うスケールをもちますが、目的を達成できていません。新宗教は布教に励んでいますが、世界を救えるスケールはないのです。人類の救済は、伝統宗教と新宗教が分裂していては成し遂げられません。





宗教の目的は人類救済で、すべての教祖はそのために苦難の道を歩みました。必死に人類を救おうとした教祖が、宗教協力に反対するはずはないのです。今や、伝統宗教の「光」と新宗教の「熱」を一つにし、人類救済の共同ビジョンを産出し、共に行動することが求められます。





これから、いくつかの新宗教を取り上げますが、紹介すべき教団はたくさんあります。ここで取り上げられなかった教団については、各団体のホームページなどをご覧ください。新宗教の信者は、教団発展のため苦労しました。宗教とは信者の苦労の体系です。これは現代史の重要な1ページを占めるのです。



6月までの記事は下のブログでご覧ください。