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京都、奈良を救ったモルモン教徒 - 世界最大の新宗教モルモン教と日本の数奇な関わり -

モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)



日本で有名なモルモン教信者は、保守派の論客ケント・ギルバート氏と、女優の斉藤由貴さんがいます。モルモン教と日本のあいだには、一般に知られない、意外で重要な関係史があります。本論に入る前に、まず、教祖であるスミス師の言葉を紹介します。





わたしはすべての教派や宗派、門派に対して、この上なく寛大な気持ちを抱き、慈愛を感じています。そして良心の権利と自由を何よりも神聖に、また大切にしており、自分と意見が異なるためにだれかをさげすんだりしません。

 ジョセフ・スミス師.「アイザック・ギャランドへの書簡」




苦難の教団史



2011年のアメリカ大統領選挙では、熱心なモルモン教徒であるミッド・ロムニー氏が共和党の候補になりました。この事実が示すように、今日のモルモン教は、アメリカ社会に強い影響力を持つ宗教に成長しました。モルモン教の成功は、「アメリカ史の神話」と言えるような目覚しいものでしたが、それは過酷な迫害に耐え獲得したものです。




  
1829年、教祖ジョゼフ・スミス師が、天使から授かった金版の古代文字を訳したものが、末日聖徒たちの経典である「モルモン書」です。そこには紀元前600年ごろ、イスラエルからアメリカ大陸に渡来したユダヤ人の歴史が書かれてありました。





古代アメリカ大陸にユダヤ人の国があり、イエス・キリストが復活し、教えを広めたと伝えます。「モルモン書」は、善良なニーファイ人の滅亡期に、指導者モルモンが、後世の人々が正しい教えに従って生きることができるように書き記したものです。





ジョゼフ・スミス師は、1830年から伝道を始め、急速に信者を増やしました。ところが、教団が発展すると、人々から迫害され、拠点を次々に移さざるを得ませんでした。沼地を開拓し建設した2万人都市ノーヴーも、5年の年月をかけた完成目前の神殿を残し、街を去らねばならなかったのです。





1844年、スミス師は、いわれもない反逆罪の嫌疑をかけられ逮捕されたとき、反対者に牢獄を奇襲され殉教しました。39歳、モルモン教会を設立してわずか14年しか活動できませんでした。





理想郷ユタ州と宗教都市ソルトレーク・シティー



スミス師の殉教後、プリガム・ヤング師が後継者になり、おおくの信者をつれ西部に移動し、教祖の死後3年で、今のユタ州の州都ソルトレーク・シティーの場所にたどり着きます。





モルモン教のユタ州開発は、まさに、近代のアメリカ大陸で再現された出エジプト・カナン定着で、これを導いたプリガム・ヤング師は、モーセにも譬えられる伝説的指導者です。ユタ定着後、モルモン教は社会の偏見を克服し、着実に発展を遂げました。





今日のモルモン教は、日本の本州ほどの広大なユタ州を開発し、ソルトレーク・シティーは、2002年冬季オリンピックを開催するほど、先進的な宗教都市に変貌し、そこを拠点に世界宣教をすすめています。





天理教も同じですが、新宗教の宗教都市建設は、理想社会のモデルを示し、多数者と協調のもとでビジョン実現を図る未来戦略といえます。都市を発展させるためには、教団の目的と他者の立場を調和させる、開かれた融和精神が不可欠です。





ユタ州は、治安が良好で、出生率が高く、全米屈指の発展を遂げる州として注目されています。同州のあり方は、国家と宗教、双方の発展に貢献し、モルモン教の公益性を証明します。モルモン教は、超大国アメリカで影響力をもち、理想世界のモデルを発信する広大な土地を背景にもつ、世界の新宗教の中で最も勢力ある教団なのです。





日本のキリスト教解禁とモルモン教



日本にとってモルモン教は、明治初期のよい出会いからはじまり、昭和の困難な時代に日本を助けてくれた特別な教団といえます。このふたつの出来事は、日本の運命を左右した重大事で、モルモン教の歩みであると同時に、私たちが知るべき、日本・米国・モルモン教の関係史なのです。





1870年、日本政府は金融制度調査のため、伊藤博文をヨーロッパへ派遣しました。伊藤はサンフランシスコに上陸し、1年前に開通した大陸横断鉄道に乗って東部を目指しましたが、沿線に中継地としてモルモン教徒が開発したオグデンがありました。オグデンが鉄道交通の拠点となったことが、モルモン教発展の起爆剤となったのです。





伊藤は列車のなかで、モルモン教が発行した新聞の経営責任者であり、高位幹部の弟にあたるアンガス・キャノンと知り合いました。彼はモルモン教につよい関心を示し、アンガスから教団について多くの情報を得ました。伊藤は新政府の重鎮であり、イギリスへ留学し、英語に堪能な、日本の外交政策決定に強い影響力をもつ人物でした。この出会いが、日本の宗教政策を画期的に転換させる動きにつながるのです。





その一年後、明治政府は欧米へ大使節団を派遣します。これが有名な岩倉遣欧使節です。100名あまりの使節団は、日本国家の政策を決定できる人物たちが中心をなしていました。





大陸横断鉄道に乗った使節団は、2月4日、オグデンに到着し、モルモン教は歓迎の代表団を派遣しました。一行はすぐに東に向かう予定でしたが、ロッキー山脈の大雪のため、ソルトレーク・シティーで2週間足止めされたのです。





この2週間のあいだ、モルモン教は使節団に対して格別の待遇をしました。当時、モルモン教はアメリカの国内外から強い偏見の目で見られていました。モルモン教にとって外国使節を公式に迎えることは、教団イメージ好転の絶好のチャンスだったのです。





6日には、ソルトレーク・シティー市長主催で歓迎式典がおこなわれ、一行は市の主要施設を見学しました。そのうえ使節団は、滞在中に、ロング駐日米公使とともに、教会の最高指導者プリガム・ヤング師と3度にわたり面会したのです。





日本近代化の使命を担う使節団は、わずか25年で、ソルトレーク・シティーを近代都市につくりあげたモルモン教徒の強靭な精神力に関心を持ちました。また、2月21日発行された、東京日日新聞の記念すべき第一号、第一面には、ソルトレーク・シティーにおける報告記事が掲載されたのです。





伊藤博文は、アンガス・キャノンと再会し親しく交流しました。アメリカ人外交官は、伊藤がモルモン教に精通しているのに驚いたと伝えられます。





岩倉使節団はその後、ヨーロッパ諸国を視察しましたが、行く先々で、徳川幕府から引き継いだキリスト教禁令を解くように求められました。しかし、新政府の人びとの思想は、むしろ幕府より激しくキリスト教を敵視するものでした。ところが1873年2月、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し、200年以上守ってきた祖法であるキリスト教禁令を、使節団の外遊中に廃したのです。





アメリカにおける「新宗教モルモン教」のあり方は、使節団が、信教の自由を実見できる好例と言えました。2週間のあいだ、使節団はその実態をつぶさに目撃したのです。とくに伊藤博文は、モルモン教について詳しく知り、信教の自由の必要性を誰よりも認識していました。





日本は、このような流れのなかで、キリスト教を解禁したのです。一連の新政府高官とモルモン教との出会いは、近代日本の宗教自由化を後押ししました。1989年、伊藤が中心となり起草した明治憲法には、信教の自由が謳われたのです。





 京都、奈良を救ったモルモン教徒



太平洋戦争の末期、京都は原爆投下予定地となり、奈良など他の古都も空爆の危機が迫っていました。日本の古都空爆阻止に、上院議員であるエルバート・トーマスと、正岡勝という、ふたりのモルモン教徒が尽力した事実はあまり知られていません。





トーマス議員は日本で伝道部長を務め、日本と日本人を心から愛する人物でした。正岡は日系二世で、全米大学生弁論大会で2年連続優勝するほど優秀な人物で、トーマス議員の選挙戦勝利にも鮮やかな弁舌で貢献しました。正岡は20歳代中ごろには、全米日系市民協会の初代事務局長に就任し、野村駐米大使も、わざわざオグデンで途中下車し正岡に会うほど、日米のあいだで重きをなす人物になっていました。





1942年4月、古都空爆に危機感を持った正岡は、上院軍事委員会委員長の要職にあったトーマス議員に、日本の古都空爆禁止を相談しました。トーマス議員は、新日家のグルー前駐日大使や、岡倉天心の弟子で東洋美術学者のランドル・ウォーナー博士、そして正岡を加え会議を開き、その結果を大統領に進言しました。日本の文化財を救った古都空爆禁止指令には、この4人の重要人物の進言が大きな影響を及ぼしたと推測されるのです。





正岡は戦争中、ヨーロッパ戦線でアメリカのため活躍する一方、アメリカの全新聞社に「ジャップ」という蔑称を使わないように勧告するなど、日系人に対する米国民の感情を好転させる活動をしました。





戦後は、小笠原諸島返還に貢献し、1988年には、日米戦当時の日系人強制収容に対する議会の謝罪と国家賠償を推進しました。また、アメリカを訪れた日本の政財界人で正岡の世話にならなかった人はほとんどいないと言われるほど、日米友好のため尽力したのです。





日本政府は正岡に勲二等瑞宝章を贈り、古都の寺院は感謝状を捧げました。感謝状には、法隆寺、興福寺、西大寺、東大寺、唐招提寺、薬師寺の管長の署名がされています。





正岡勝やエルバート・トーマスは、国家を超えた普遍的価値観を持っていました。戦争という最悪の状況下であっても、宗教は、人に偏りのない判断を下すことを可能にします。





注目すべきは、京都や奈良の歴史的建造物はみな、仏教の寺院や神道の神社が中心を成していました。日本の古都を守るということは、外国、それも敵国の異宗教を守るということなのです。これを迷いもなく推進した背景は、冒頭のジョセフ・スミス師の言葉が示すように、モルモン教には、異宗教に対して偏見をもたず、慈愛を感じるほど寛大な気持ちをいだく、開かれた精神があったことを示すものに他ならないのです。





彼らは、国境と宗教の壁を越え、許しと寛容の思想を実践しました。宗教者はどこでも宗教の価値観を生かし、人々の憎悪を乗り越え、世界をより平和で幸福なものにすることができます。二人のモルモン教徒が日本に示した善意は、そのよい証といえるのです。      (永田)





《モルモン教豆知識》



① アメリカ政府は、モルモン教が憲法に違反する一夫多妻制をとっているので、軍隊を派遣して、教団を壊滅させようとしましたが、なんと、モルモン教側が巧みな戦術を駆使し、合衆国陸軍に勝ってしまいます。アメリカ政府は、仕方なく、ユタ州に軍隊を駐留させる条件で講和しました。しかし、この駐留がモルモン教の経済を大きく発展させたのです。




② ラスベガスを発見し、はじめて砦を築いたのはモルモン教徒でした。しかし、現地のインディアンに敗れ、ラスベガスを放棄しました。モルモン教にとってラスベガスは、白人で善なるニーファイ人を滅ぼした、有色人種で悪いレーマン人の子孫に敗北した、因縁の地でした。20世紀になり、ラスベガスの開発資金の大半はモルモン教徒が出資しました。ラスベガスとモルモン教は関係が深いのです。




③ ブローニングという銃の会社は、モルモン教徒のジョン・モーゼス・ブローニングが創始した会社です。また、デルコンピュータ―もモルモン教徒が起こした会社です。



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