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暴れん坊将軍と犬将軍   -吉宗と綱吉のちがい-

1.吉宗は綱吉の儒教重視を継承


8代将軍吉宗は幕府中興の英主と称えられています。施策の大方針は「諸事権現様(家康)の御定め通り」で、家康の政治を模範とし、武芸を奨励するなど、政治に「武」を復興させました。




しかし、吉宗は綱吉の儒教奨励を踏襲し、武家諸法度の儒教主義も継承したのです。荻生徂徠や室鳩巣などの儒学者をブレーンとし、儒官林信充、信智兄弟を重用し、幕臣に儒官の講義を聴講することと、儒教学習を命じました。吉宗は、家康が決めた内容を大きく変革した綱吉の儒教政策を、「権現様の定め」に反するものとは見なかったのです。




2.家康は、文・武両面を強調 



吉宗がすんなり綱吉の儒教政策を継承できたのは、家康の統治思想が、「文」、「武」両面を強調する二面性を持つものだったからです。家康は、武将であるにもかかわらず、自らは人を殺したことはないと広言し、「馬上をもって天下を得ても、馬上をもって天下を治めることはできない」と言い、聖賢の教え(儒教)で政治をしなければならないと語り、儒教を幕府体制に導入しました。




一方「朝夕の煙立る事はかすかにても。馬具の具きらびやかにし。人も多くもたらむこそ。よき侍の覚悟なれ。― 随分武士は武士くさく味噌は味噌くさきがよし。武士は公家くさくても。出家くさくても。農商くさくてもならず」とも語ったのです。


 


家康は、「儒教」と「武人の心得」を並行的に強調しています。どこまでも「並行的」で、どちらがより上位概念であるかは示していません。それが後に武断の時代とともに、儒教の時代も出現し得る余地をのこしたのです。




3.綱吉は極端に「武」を否定、吉宗は「文」・「武」調和 



綱吉の儒教奨励は家康の文治的統治観を反映したものでしたが、「文」を強力に押し出す反面、「武」の奨励はしないどころか、生類憐みの令は、武家政権としては考えられないほど極端に「武」を否定するもので、まさに家康が嫌った「出家くさい」法でした。




吉宗は、家康の統治思想の「武」の側面を強調することによって綱吉代とは異質な時代をつくりましたが、「文」である儒教も奨励したのです。吉宗政権の性格は、文武調和と言えるもので、儒教という普遍思想と、武を強調する二本立ての政治を行ない、強い求心力を持ちました。




吉宗のこの姿勢は、「武」を主とし「文」を従とする武家の伝統と合致しています。武術に優れているが儒教的礼節もわきまえている武士像は、綱吉の儒仏にこだわり、武を軽視する武士像より明らかに武家における正統と言えます。吉宗の高い評価は、名君という個人的要素と、「文」・「武」のバランスが日本の伝統と調和し人々に共感されたからでしょう。それはまた、日本の儒教にとって、文武調和の中での在り方が形成されたことで、武家社会への定着が一層促進されたのです。




4.吉宗の政治は、綱吉の文治政治の成果の上にある


しかし、吉宗が儒教を強調できたのは、綱吉からはじまり家宣、家重と続いた38年間に及ぶ儒教の基盤作りと、奨励の成果があったからです。また、吉宗時代は平和な時代でした。逆説的な言い方ですが、平和な社会であってこそ「武」の強調が可能でした。辻斬りや「かぶき者」が横行する時代であったら、「武」を強調する政治は、火に油を注ぐようなもので、実行できなかったのです。その平和をつくり上げたのは「文」の政治で、吉宗の文武を強調した政策は、綱吉の文治政治の成果の上にあったのです。




吉宗は良きサムライの典型といえます。武術を好み、庶民の事情も配慮する思いやりがあり、分をわきまえ政治に専念しました。まさに模範的武士で、今日でも歴代徳川将軍のなかで最も慕われている将軍です。




一方、綱吉は、武術はまったく駄目で自己主張が強く、文化に莫大な金を使い、将軍職の本分を越えて政治より儒仏の布教に専念しました。彼は非日本人的であるとともに非サムライ的でした。その権威の在り方は、フランス絶対王政の頂点をきわめたルイ14世、儒仏奨励はプロシアのフリードリッヒ大王の宗教的寛容を旨とした啓蒙政策を彷彿させます。




5.綱吉の功績は、日本の枠では計れない


綱吉の成し遂げたことは、徳川幕府の将軍という枠を越えています。儒教を日本の統治理念としたことは、徳川時代だけに意義が限定されるものではなく、日本史全体のなかに大きな位置を占めるものです。生類憐みの令は、戦うことを任務とする武士に「動物を慈しみ、人を殺さない武士」たることを命じ、それが普通の武士像となるほど、武士の意識の画期的転換をもたらしました。綱吉の政策は、スケールが大き過ぎる一方、達成した成果は精神的なもので見えにくいのです。




改革の難度からいえば、家康の時代を強調し、伝統的価値である「武」を復興させるよりも、家康の政策の枠を越えて儒教を奨励し、「武」優位の社会に、「文」の価値観を浸透させることの方がはるかに困難なことです。




6.綱吉の「文」、吉宗の「文武両道」が日本を救った


ともあれ、綱吉から始まった儒教奨励は吉宗に継承され、吉宗死後36年を経て、その孫の松平定信が、ふたたび儒教強調の政治を行いました。吉宗は、綱吉の政策を継承する「要」の位置にある将軍でした。儒教はこの100年余りの期間に揺るぎない日本の統治理念となったのです。




江戸時代の中後期、儒教は武士の必須の学問となり、幕末には藩校が全国で215校にのぼりました。そこでの主要教育科目は儒教で、多くの私塾でも儒教を教えていました。




近代日本の命運を分けた幕末、重要な役割を担った人物たちは、幕府側であろうと朝廷側であろうと儒教を学んだ武士たちでした。日本は江戸城無血開城という優れた選択をしましたが、西郷隆盛は「遺訓」のなかで「古人を手本に自身を律することが肝要」だとし、それは「堯舜を手本とし、孔子を教師とすること」であると述べています。江戸城総攻撃を中止した西郷の精神の核には儒教があったのです。




清や朝鮮王朝は、「文」を重視し「武」を疎かにしましたが、日本は儒教を尊重しつつも、「武」の必要を忘れませんでした。それが近代に西洋列強に対抗し得た理由だと思います。しかしまた、武士が儒教を学び、平和を重んじる精神を養っていたことが、日本が破局を免れて、江戸から明治に時代を転換できた背景で、もし武士の精神が「武」だけだったら、維新の順調な成就は困難だったでしょう。このような思想状況の形成には、綱吉に始まり吉宗に継承された、徳川幕府の儒教奨励政策が大きく貢献したのです。      (永田)



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