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U.S.A『銃を持つ民主主義』について ー銃所持反対論ー

2004年に、『銃を持つ民主主義-「アメリカという国」のなりたち』(小学館)という本が出版されました。著者の松尾文夫氏は、共同通信社でワシントン支局長を歴任したジャーナリストです。本書は、日本エッセイスト協会賞を受賞し、2007年には英訳され ”Democracy With a Gun: America and the Policy of Force" としてアメリカの出版社から公刊されました。





松尾氏は、アメリカにおける、市民が武装する権利を認めた合衆国憲法修正第2条と、現行のアメリカ社会における銃所持のあり方に反対します。この『銃を持つ民主主義』は、一般向けにアメリカの銃所持問題について書かれ、本国においても出版された、アメリカにおける銃所持問題を本格的に論じた書籍です。





1.合衆国憲法修正第2条による「武力行使のDNA」



松尾氏の論旨は明確です。アメリカを「武力行使を盛んに行う国家」と規定し、その源流を、国民に銃を所持する権利を認めた憲法修正第2条にあると結論します。松尾氏は、戦争中に福井県でB29の空襲に遭い、近くに焼夷弾が落ちましたが、不発弾だったため一命を取りとめた体験で、「容赦のない武力行使をするアメリカ」を感じ、そのような「武力行使のDNA」は、銃所持を認めた憲法とアメリカの歴史によって形成されたと主張します。松尾氏の主張を見てみましょう。





私はこの作業の切り口を、敗戦直前の1945年7月19日夜、墳墓の地である福井市でB29百二十七機による焼夷弾爆撃を受け、欠陥親爆弾のおかげで九死に一生を得た原体験に求めた。福井空襲の総指揮官カーチス・ルメイ将軍とその「夜間無差別焼夷弾爆撃」戦略での「容赦のない武力行使」の系譜をたどることから始めた。そして、それが現在のイラク戦争、ブッシュ・ドクトリンにもはっきり継承されていることを確認したあと、さらにその源流を1791年に制定され、二百十七年たった今も居座っている合衆国憲法修正第二条に見つけた。





「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」(斎藤眞訳、岩波文庫『世界憲法集四版』所収1983年)との規定である。結果としてこの攻め口が有効だった。一気に、武力の行使がその民主主義のⅮNAとして組み込まれているアメリカ建国の原点に迫ることになったのみならず、銃規制問題という現在のアメリカでの最もホットな社会問題と向き合うことになったからである。 (文庫版あとがき p.431)





自らがその目標となった、どこまでも荒々しいルメイ将軍の武力行使への信念と「ブッシュ・ドクトリン」との連続性を意識したとたん、アメリカが世界に誇り、世界もまたそれを受け入れている自由と平等の民主主義の理念そのものに、武力行使というⅮNAが組み込まれている構図が見えてくる。アメリカの民主主義の栄光の裏側には、武力の行使をいとわない顔があるという事実が見えてくる。
             (第2章 武力行使というⅮNA p.62)






それに、「メイフラワー誓約」というアメリカ民主主義の原点を手にして、アメリカの土を踏んだピルグリム・ファーザーズは、「それなりの武装集団」でもあった。私が追いかける武力行使というⅮNAは、間違いなく彼らとともにプリマスに上陸していた。そして、現在にいたるまでアメリカ民主主義と武力行使は表裏一体の関係となる。
                    (第4章 原点としてのメイフラワー p.138)





ちなみにペリー提督が乗っていた旗艦「サスケハナ」は、メキシコとの戦争後に海軍が建造した七隻の完全蒸気式戦艦のなかでも最高の艦であった。日本開国には圧倒的な武力の示威が必要とのビドル艦隊の失敗に学んでいた。三本マストの両側外輪船であった。つまり、武力行使というⅮNAを内に秘めた「明白な天命」路線の一環として、使命感に満ち満ちた日本開国の要求であった。 (第5章「明白な天命」を信じてp.181)





2.人類歴史と武力行使



松尾氏の、アメリカの「武力行使のDNA」は、合衆国憲法修正第2条を源流とするという主張は妥当なものでしょうか。まず、人類にとって「武力行使」とは如何なるものでしょうか。人類史は戦いの歴史であり、歴史は戦いによって変わりました。あらゆる時代、あらゆる地域も同様で、人類史において武力行使は普遍的ともいえる行動でした。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の世界4大文明といわれる古代国家も、軍事力で周辺部族を征服したのであり、武力行使を前提に成立していました。国家の成立は武力行使によってなされ、日本も「神武東征」によって建国されました。「武力行使」は、アメリカに限られたものでなく、人類に共通するものです。






アメリカ以前、世界の超大国だったイギリスは、スペイン、オランダ、フランス、ロシアなどと戦争を行い、勝ち進んで、七つの海を支配する大英帝国をつくりあげましたが、それには上にあげた国家との「容赦ない武力行使」が伴ったのです。1840年、清朝に対し横暴なアヘン戦争を仕かけ、最後は、文化的価値の高い壮麗な円明園を徹底的に破壊しました。イギリスが覇権国家でなくなった1982年にも、フォークランド島をアルゼンチンに占領された時、航空母艦2隻を主力とする部隊を送り、激しい戦闘の末、島を奪還しました。これも「容赦ない武力行使」です。







ローマ帝国も、強力な競争者だったカルタゴや、頑固に反抗したユダヤは、徹底的に壊滅しました。ゲルマン民族移動後、西ヨーロッパを制覇したフランク族はカトリックに改宗し、アリウス派を信じていた他部族を異端討伐を理由に次々に討伐し、800年にカール大帝が教皇レオ3世から、ローマ皇帝の冠を授かりました。この戴冠からヨーロッパが始まったと言われます。ヨーロッパの形成は、フランク族の「容赦ない武力行使」によって成されたのです。







その後も、ヨーロッパの歴史は戦いが繰り広げられました。十字軍戦争、宗教戦争、スペインの覇権、ナポレオンのヨーロッパ制覇、ドイツ統一戦争、そして、第1、第2次世界大戦など、まさに、「容赦ない武力行使」によってヨーロッパ史は進行したのです。







西洋だけではありません。歴代中華帝国も同じです。モンゴル人が建てた元は、ローマ帝国のように、反抗した国は徹底的に滅ぼしました。日本の武家政権(幕府)も、武力行使によって立てられ、韓国やベトナム、また、多くの小国家も武力に優った集団が建国しました。アメリカの建国理念をたずさえ、未知の大陸に渡ったピルグリム・ファーザースが武装していたことは特別なことではありません。







このように武力行使は洋の東西を問わない、国家建国、発展の普遍的行動でした。そして、巨大国家や帝国を形成した後には、領域の治安と通商路の安全を維持するため、強力な軍事力が必要で、国内に反乱が発生したときにも武力行使により鎮圧しました。





3.武力行使のDNA


松尾氏は、インディアン迫害史をアメリカの「武力行使のDNA」の表われと指摘しました。確かに、インディアンに対する迫害は米国史の深い闇です。しかし、現地人に対する迫害は南米諸国も同様です。スペイン人は、インカ帝国とアステカ帝国を亡ぼし、原住民に苛酷な奴隷労働を強い、多くの人々が死亡しました。南北アメリカ大陸における現地人迫害は類似していましたが、アメリカのみが、それを銃所持を認めた憲法が源流をなす「武力行使のDNA」に原因を求めるというのは納得できないものです。






また、果たして、「武力行使のDNA」はアメリカ国民のみがもつ好戦的性質なのでしょうか。ならば、先にあげた国家における「武力行使のDNA」は何に求めるのでしょうか? 大英帝国、スペイン帝国、ドイツ帝国、モンゴル帝国などにおける「武力行使のDNA」は何でしょうか? これら諸国には「武力行使のDNA」は発見できず、アメリカのみに発見できるのでしょうか? 「武力行使のDNA」という普遍的現象を論じるならば、世界における事例との比較は不可欠なはずです。それを、世界の中からアメリカ一国だけを取り上げて「武力行使のDNA」を論じることは無理があると思います。






そもそも、文系概念である「武力行使」と、理系概念である「DNA」を結びつけるのも疑問です。武力行使や戦争という不確実で流動的な人間集団の行為と、血縁鑑定が99.999…などという確率で割り出せるDNAという科学的概念を結合させ、「武力行使のDNA」という用語をつくり、一国の成り立ちや、戦争や闘争における民族性を論じるのは如何なものでしょうか? この用語は、マルクスが共産主義を「科学的社会主義」と呼称したことを彷彿させます。「科学的社会主義」は間違った概念であり、共産主義の実態は、経済も社会制度も、科学的合理性とは縁遠いものでした。






武力行使の意思は、国家であるかぎり不可避的に備えているものです。文明は内外から暴力による挑戦を受けます。領民を守るため、暴力的挑戦に対抗し武力行使するのは、むしろ権力者の義務ですらあります。領土拡大のための武力行使、反対に、国防においても、武力行使が必要な状況は、歴史には数え切れないほどありました。






長く日本を統治した武士は、剣で戦い、剣の力で政権を担ってきた人々といえます。さらに、日本人は剣に高い精神的価値を付与しました。剣こそ日本における戦いのシンボルです。明治以降の日本は、日清、日露、シベリア出兵、第1、第2次大戦など、多くの戦争をしました。戦前、日本刀をかかげ戦闘を指揮した将校も多かったのです。ならば、日本刀こそ、日本における「武力行使のDNA」の源流なのでしょうか。もし、あるアメリカ人がそのような論理で日本人における剣を、「容赦ない武力行使のDNAの源流」と論じたら、私たちは納得できるでしょうか? 同じように、松尾氏の主張をアメリカ人が納得するとは考えにくいものです。






4.誤解されていること



松尾氏の思想は、銃は悪というもので、銃の役割を肯定的に評価する部分は皆無です。イギリスの植民地支配に対し、自分の銃を持って立ち上がったアメリカ市民にとって、銃は独立のために必要とされたものです。彼らに銃がなければ自由と独立は得られず、世界初の民主主義革命はアメリカでは成されなかったでしょう。





一方、今日、スイス国民において、銃の所持、管理は、永世中立という国家戦略を貫き平和を維持するために必要なものです。スイス国民にとって銃は、自分たちの自由と独立を守る必須で貴重なものです。さらには、日本の警察が銃を携帯していることが、日本社会の治安維持に役割を果たしていないでしょうか。






武力行使も同様です。アメリカが行った戦争が、他国を一方的に攻撃する侵略戦争だったでしょうか。第1、第2次世界大戦、朝鮮戦争、湾岸戦争などは、他国が行っている戦争に介入したのであり、他国の領土を狙った戦争ではありませんでした。






ベトナム戦争は、共産主義の浸透に対抗するものでした。1975年、アメリカがベトナムから撤退した後、ベトナムにはどのような事態が発生したでしょうか。共産主義の迫害から逃れるため、インドシナ諸国から120万人以上の大量の難民が自由主義諸国に亡命しました。当時、彼らは「ボート・ピープル」と喧伝されました。アメリカは82万人ものインドシナ難民を快く受け入れたのです。この歴史を見ても、誰が正しかったか分かります。ベトナム戦争とは、アメリカがベトナム国民の自由と人権を守る戦争だったのです。







一方、銃の所持がアメリカ社会の治安維持に役割を果たさなかったでしょうか。広大なアメリカにおいて、警察権の行き届かなかった時代の銃所有は、社会の治安と人々の安全を守りました。そして、銃の所持というものは、必然的に、銃の正しい管理がともないます。アメリカで長く銃が所持されているという事実は、人々が銃を正しく管理してきた歴史があることを証明します。もし、銃の弊害が大きければ、誰に言われなくとも、アメリカ市民は自ら銃を捨てたでしょう。






5.権力は銃口から生まれる


毛沢東は、「権力は銃口から生まれる」という有名な言葉を残しました。この言葉は意味深長です。共産党のような全体主義集団にとって銃とは、実に、権力を奪取し、自分が権力者になる道具だと明言しているのです。それが共産主義革命です。銃で権力を握り、反対に、市民からは銃を取り上げ、抵抗の手段を奪い、人々の自由と権利を奪います。共産主義国家は例外なく国民の銃所持を認めません。






しかし、アメリカの銃所有の思想は違います。「市民の銃が権力者を牽制する」というもので、反対なのです。横暴な権力者が市民の自由と独立を奪おうとするとき、市民がそれに対抗する力が銃なのです。この銃所持思想はアメリカの独特なものです。それこそまさに「銃を持つ民主主義」で、「アメリカの国のなりたち」に関わることです。アメリカの銃は、市民の自由と独立という民主主義的権利を守ることが主眼なのです。さらには、連邦政府に対し州の独立を守る力でもあります。






多くの国も、銃は国家が独占しますが、自由主義国家は国民の自由と権利を保証します。しかし、今日、自由主義諸国は全体主義国家・中国の脅威に直面しています。私たち自由市民は、自らの自由と独立を守るために自己防衛に努めなければならない時代になりました。諸国は、国家も国民も力を持たなければならないのです。現在の国際政治は、自らの自由と独立は、自らの力で守るというアメリカ人の精神に学ぶところがあるのです。






6.今、明らかになった真実



現在、世界は深刻な問題を抱え、危険な状況になっています。その背後には中国共産党が存在し、それは世界の共通認識になりました。長く、中国国内の人権弾圧は伝えられてきましたが、多くの国では中国との経済交流を優先し、そのことには目をつぶってきました。しかし、昨年の香港民主化デモに対する当局の苛酷な暴力的弾圧を目の当たりにして、世界は中国共産党を強く非難しました。それとともに、ウイグルやチベットに対する非人道的弾圧も注目されるようになりました。






2020年には、中国発の武漢ウイルスの被害によって、世界中が中国の真の姿を知るようになりました。中国共産党は自らを守るため、隠ぺいと偽りで、世界を危険にさらし、数十万人の人命を奪いました。人類は、身をもって中国発の感染症の恐怖を味わい、世界の重大問題が中国の全体主義であることを認識しました。





いったい、巨大な軍事力、経済力を持つ全体主義国家中国に対し、アメリカ以外どの国がその横暴をくい止めることができるでしょうか。香港の市民、台湾の独立をどの国が守ることができるでしょうか。中国の弾圧を受けている人々にとって、唯一の、また究極的希望はアメリカという国の意思と力です。その意志と力は、自分は自分の力で守るというアメリカの自己防衛の精神が培ってきたのです。今、まさに、アジアの民主主義は、悪しき権力に対抗する力を与える、市民の武装の権利を認めた合衆国憲法修正第2条によって支えられているのです。






一方、今、アメリカ市民は、共産主義者であるアンティファ(ANTIFA)の暴動に対抗するため、銃を買い求め、銃も、実弾も在庫がない状態になりました。アメリカ人が銃を買う動機は、まずは安全のため、そして、全体主義者のアンティファから自由と独立を守るためです。この市民の行動にアメリカにおける銃の意義が表われています。そして、銃規制論者の主張は説得力を失いました。アメリカの「銃を持つ民主主義」は、その言葉の通り、「銃を持つ全体主義的権力」に抵抗し、自由と独立を守ることができる、「銃を持つ強力な民主主義」のことなのです。