宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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戦争と平和 -東洋的「文」と「武」の視点から

1.不変の原則



「戦争と平和」というテーマを考えるとき、極めて本質を得た名言があります。中国戦国時代の兵法家である司馬穣苴(しばじょうしょ)が、『司馬法』のなかで語った言葉です。「国大なりといえども、戦いを好めばその国必ず亡び、国安しといえども、戦いを忘るればその国必ず危うし」






まずは、いかに国力が強大でも、侵略を好む国家や指導者は必ず亡ぶということです。例として、史上最大の版図を持ったモンゴル帝国、ナポレオンのフランス、ヒットラーのドイツ、そして、世界一の核戦力を誇ったソビエト連邦などをあげることができます。日本においては、天下布武を掲げた織田信長軍団などもそうでしょう。反対に、一時の平和に安住し、戦いを忘れた国家は危ういのです。文弱でモンゴルに滅ぼされた宋王朝、第二次大戦のフランス、そして、まさに、自己防衛の権利を放棄した非常識な憲法を持つ、今の日本がそうです。






一方、東洋的な思想で、戦争と平和の問題を論じれば、「文」「武」という概念を挙げることができます。「文」は聖人の教えを尊び、平和を追求することです。「武」は、戦争にそなえ、軍備を怠らないことです。実に、国家にとって最も大事なことは、この「文・武」のバランスなのです。司馬穣苴が言ったことも同じで、イタズラに戦いを好まず、そして軍備も怠らない国家が真の平和を維持できるのです。しかし、皮肉なことに、この言葉が生まれた当の中国は、むしろ、この文・武のバランスを欠いていました。






歴史的に、中国歴代王朝は、武力で覇権を獲得し、建国初期は、さらに領土を拡張しようと隣国に攻め込みました。しかし、時代が過ぎると、豊かな中国大陸の物産に満足し、海外拡張政策を捨て、武断的統治から、儒教的な文治政治に転換し、平和的な治国に専念しました。






その時代になると、真逆に、極端に「文」を重んじ、「武」を軽んじるようになります。文官が武官に対し絶対優位に立ち、武官など汚れた存在と軽蔑するようになります。中国には「よい鉄はクギにしない。よい人間は武人にならない」という言葉があり、反対に、文官の登竜門である科挙に合格することを、「書のなかに、権力も財産も美女もある」と、学を修めた文官が強大な権勢を持つようになることを譬えます。






中華帝国の興亡パターンは、国防を重視しない文官官僚が支配し、国は弱体化し、周辺の民族に攻め込まれ、異民族が立てた王朝にとって代わられました。中国の歴史はこれをくり返したと言っても過言でありません。1644年、日本ならば徳川幕府の初期にあたりますが、中国に清朝を立てた満州族は、たった5万の軍隊と50万の国民しかいませんでしたが、当時1億ちかい人口をもつ明朝を征服し、268年にもおよび中国大陸に君臨しました。しかし、清も、「文」優位の体制に転換し、精強な満州族も文弱に陥り、文・武のバランスが崩れます。そして近代になり、アヘン戦争で敗れ、荒波の如く押し寄せてくる西洋列強の力に対抗できず、大部分の国土を蝕まれ、半植民地国家に転落してしまいます。






朝鮮王朝も、開化期、日本をモデルに軍の近代化を図ろうとしましたが、文官が汚職をし、旧軍の俸禄米に多くの糠を混ぜて配り、怒った軍人たちが反乱を起こし、改革は挫折しました。中華帝国の影響を受けた韓国も、明らかに文・武のバランスが崩れていたのです。






2.鉄砲を捨てた日本



それでは、日本はどうでしょうか。先に指摘しましたが、戦国時代の日本は世界で最も多くの銃(鉄砲)を保有していた国でした。しかし、徳川時代になり、銃を武器庫深くしまい込んで、260年ものあいだ、銃を使用も改良もせずに時代遅れになってしまいました。アメリカ人のノエル・ぺリン氏は、これに対し『鉄砲を捨てた日本』という本を出し、反響を呼びました。ペリン氏は、朝鮮戦争に従軍し日本にやって来たことがある人物ですが、戦国時代の日本は世界有数の鉄砲生産国で、実戦で盛んに使用したにもかかわらず、江戸時代になり鉄砲の改良を中止し、多くを破棄するという、世界にかつてなかった軍縮を成し遂げたと評価しました。日本語版の序文には次のように記しています。






日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ400年ほど前に日本は、火器に対する探求と開発とを中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるべきものです。  (中央公論社.1991)






ペリン氏は鉄砲を捨てた「パックス・トクガワ―ナ(徳川の平和)」を、世界史的な意義ある時代だと賞賛しています。しかし、大きな事実を見逃しています。徳川時代、日本が鉄砲を捨てられたのは、日本周辺の国際環境が平和だったからです。ペリン氏は、同時代のヨーロッパは火器を戦争に使用し発展させたと指摘しましたが、それはヨーロッパの国際環境が平和ではなかったからです。もし、徳川時代の東アジアが、当時のヨーロッパのように戦争に明け暮れ、スペインやフランス、あるいはイギリスのような国家があったら、日本は鉄砲を捨てることなどできませんでした。「徳川の平和」は、近隣国家が明、清や朝鮮王朝のような対外侵略意思を放棄した国々だったから実現したもので、決して日本が単独で達成したものではありません。






3.日本における文・武のバランスと武士道



確かに、徳川時代、日本は鉄砲を捨てたといえますが、「武」の伝統を捨てたわけではありません。武士たちは、剣を命の如く大切にし、武術を錬磨し、「武」を尊重する伝統を堅く守り続けたのです。それが、武士道です。武士道とは、戦国時代ではなく、徳川時代、すなわち平和な時代に、古来からの日本の「武の伝統」を体系化したのです。






日本における文・武のバランスを論じるとき、徳川幕府の開祖である徳川家康の思想に注目しなければなりません。家康は、文・武、両方を強調する言葉を残しました。





彼は、武将であるにもかかわらず人を殺めたことはないと広言し、「馬上をもって天下を得ても、馬上をもって天下を治めることはできない」と言い、日本は聖人の教えで文治的政治をしなければならないと語り、儒教を徳川幕藩体制に導入しました。





一方、「朝夕の煙立る事はかすかにても。馬具の具きらびやかにし。人も多くもたらむこそ。よき侍の覚悟なれ。― 随分武士は武士くさく、味噌は味噌くさきがよし。武士は公家くさくても。出家くさくても。農商くさくてもならず」とも語り、武士たるもの「武」の伝統を忘れるなと命じたのです。







家康は、聖人の教えを守ることと、武人の心得を並行的に強調しています。それが、後に、武断統治の時代とともに、儒教や仏教を尊重する文治統治の時代も出現し得る余地をのこしたのです。徳川幕府は3代家光時代まで武断統治を行いました。しかし、5代将軍徳川綱吉が推進した儒・仏奨励政策は、家康の文治的統治観を反映したものでした。ところが、「文」を強力に押し出す一方で、「武」の奨励はしないどころか、生き物を殺してはならないという「生類憐みの令」は、武家政権としてはあり得ないほど極端に武を否定するもので、まさに家康が嫌った「出家くさい」法でした。






6代家宣、7代家継の時代は、儒学者の新井白石が補佐し、綱吉代の儒教的な「文」を重視する政治を継承しました。ところが、8代将軍の吉宗は、「万事権現様(家康)の定め通り」という指針を掲げ、家康の統治思想の「武」の側面を強調することによって、綱吉代とは異質な時代をつくりました。しかし、「文」である儒教も奨励しました。吉宗政権の性格は、文・武調和と言えるもので、儒教という普遍思想と、武を強調した二本立ての政治を行ない、強い求心力を持ちました。






吉宗のこの姿勢は、「武」を主とし「文」を従とする古来からの武家の伝統と合致しています。武術に優れているが、儒教的礼節もわきまえている武士像は、吉宗後、武家における正統となりました。吉宗の高い評価は、名君という個人的要素と、文・武のバランスが日本の伝統と合致し、人々に共感されたからです。吉宗は良きサムライの典型です。武術を好み、庶民の事情も配慮する思いやりがあり、分をわきまえ政治に専念しました。まさに、武士道を実践した模範的武士で、今日でも歴代徳川将軍のなかで最も慕われている将軍です。その後、11代将軍家斉の時代に、吉宗の孫である松平定信は、儒教的禁欲を強調し寛政の改革を行います。






徳川時代は、このように文・武のバランスを取る歴史を歩みました。ですから、黒船がやってきて、力で開港を迫ったとき、「武」を復興させ、明治維新を成し遂げ、軍事力を強化し、西洋列強の影響を排すことができました。日本は、以上のように、「文」を偏重し「武」を怠った中華帝国や朝鮮王朝とは、大きく異なる歩みをなしました。






4.アメリカにおける文と武のバランス



では、アメリカにおける、「文・武のバランス」は、何をもとに考えるべきでしょうか。その重要ファクターは、「キリスト教」「合衆国憲法修正第2条」です。まず、アメリカはキリスト教を尊重し、キリスト教主義に立った、自由、独立の民主主義を発展させました。これが、東洋的な、聖人の教えに従い平和を維持するという「文」に相当する信念体系といえます。






神のもとの平等を追求したアメリカ民主主義は、豊かで自由な社会をつくり上げ、高度な文明と活力ある文化は、世界で圧倒的な魅力を放っています。ですから、今も多くの人々が、このアメリカ民主主義文明の恩恵にあずかるため、この国への移民を希望しています。






一方で、アメリカは、自由と独立を守るため、合衆国憲法修正第2条で、市民の武装の権利を認めています。これこそが、アメリカにおける「武」の核心です。日本では武士が剣を大切にしたように、アメリカでは自由な市民が銃を大切にしてきたのです。それを的確に象徴する存在が、昔も今も、修正第2条を支持し、銃を所有する牧師が多いことです。この自発的で強力な「武」のパワーがあったからこそ、アメリカ民主主義は守られてきたのです。







更に、アメリカは、自国の民主主義だけではなく、他国の民主主義を守る歴史を歩んできました。今日、多くの国が民主主義を謳歌できるのも、アメリカが「武」の力を発揮して、全体主義から諸国を守ったからです。多くの国がアメリカに頼り、全体主義の弾圧に苦しむ人々がアメリカに住みたがるのも、アメリカが強力で、全体主義から自分を守ってくれると信じられるからです。






このように、アメリカにおいては、キリスト教的民主主義と合衆国憲法修正第2条によって、文・武のバランスが保たれてきたのです。また、アメリカは、国防において脆弱な民主主義国家と同盟を結び、安全を保障することによって、世界の文・武のバランスを保ち、平和を維持してきました。






5.人類の危機を克服するために



しかし今、世界の文・武のバランスを大きく崩す存在が台頭しました。それが赤い全体主義・中共です。先に論じたように、歴史的に中国は、文・武において、むしろ極端に「文」に偏重した国だと指摘しました。しかし、本来の中華王朝とは反対に、共産主義中国は、モンゴル帝国のように、極端に「武」に偏重した国家なのです。それも自己防衛のための「武」ではなく、世界を共産化するための侵略的な「武」です。





これは本来の伝統的中国の姿ではありません。最近、ポンペオ国務長官が、「中国」と「中国共産党」を分けて考えなければならないと強調しましたが、実に正しい見解です。中国問題とは共産主義問題なのです。人を物質と信じ、人を殺すことを物を壊すこととしか感じない、唯物共産主義思想が中共の悪の核心です。今、中国、北朝鮮、そして文在寅・韓国で起こっている、数々の不可解で残虐な事件は、この共産主義の実体を如実に示しています。






中共は、世界の高度技術を盗み、5Gで先端技術を席巻し、人類を奴隷のように監視する体制づくりを進める一方、中国ビジネスで諸国を縛り、親中派をつくって、世界を支配下に置こうとしています。しかし、世界は、武漢ウイルスの蔓延で、中国共産党が危険であることが分かり、警戒を強めました。今や世界は、中共問題に真剣に取り組むようになったのです。







21世紀初頭にある現在、人類は、民主主義のアメリカに付くか、全体主義の中国共産党に付くか、厳しく二者択一を迫られています。軍事、国力において世界1位の国と2位の国が鋭く対決しているのです。世界にも日本にも、中共とむすび利益を得ようとする親中派が少なくありません。中共が支配する世界になれば全ての国がウイグルや香港のようになります。この現実を正しくみて、中国を賛美し、アメリカを批判していた人々は目覚めなければなりません。今、アメリカは、中共全体主義の下で苦しむ人々を救うため、この国が歴史的に培ってきた、文・武の力を発揮して、世界の自由と独立を守り、中国共産党を倒し、中国の人々まで解放しようとしています。







このような危機に直面する世界において、日本がすべきことは何でしょうか。それはまず、武士道を見直すことです。天下泰平の徳川時代にも、日本人に「武」を忘れさせなかった武士道こそ、文・武のバランスを守り、日本が西洋の植民地になることから逃れられた精神でした。今、平和ボケした日本の状態を克服する精神も、武と礼節を重んじる「サムライ」の心を想起することではないでしょうか。





日本に凶悪犯罪が少なく平和な社会を維持しているのも、武士道で高い志操をもって、剣という「武の力」を正しく管理した長い歴史があったことが一因となっています。それらの伝統は、アメリカの「キリスト教」と「合衆国憲法修正第2条」の精神と類似し、武士道はそれと融和させることができる思想です。今や、危機に直面する世界において、アメリカと堅く手を結び、全体主義・中共の脅威に対抗しなければなりません。同時に、「武士道」と「合衆国憲法修正第2条」の思想を生かし、武力の正しい所有と管理のあり方を、日本とアメリカが共同で発信する時代が到来しました。それが、21世紀の日本が世界に果たせる大きな役割ではないでしょうか。 (永田)