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儒教、徳川幕府の法となる -憲法を変え日本の姿を変えた綱吉-

1.徳川幕府の最高法「武家諸法度」とは?




綱吉は、大名統制のための法で、幕府の最高法とも言える「武家諸法度」を、儒教思想を強く反映する内容に改正しました。武家諸法度は幕藩体制の在り方を規定する法で、そこに盛り込まれた文言は体制の理念を示します。




この法は、元和1年(1615)、家康が大阪落城直後、伏見城に諸大名を集め宣布しました。立法精神は「武」を基調としたもので、「弓馬の道」、すなわち武の伝統こそ武士が指標とすべき価値であり、それを体現した徳川家の覇権を正当化するものでした。




2.法の基本精神が「武」から「文」に



綱吉は天和3年(1683)、在職4年目に武家諸法度を改正します。綱吉以前に、若干の改正はありましたが、綱吉ほど大幅にかえた例はありません。1条の「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」を、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と変え、法の基本精神を「武」から、儒教に基づいた「文」へと転換させたのです。




従来の文言は、文武と謳ってはいますが、「弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」と続いており、明らかに「武」を強調するものです。しかも、儒教が普及していない当時、「文」とは必ずしも儒教を意味するものではなく、広く文芸のことを指したので、従来の武家諸法度は儒教色が希薄なものでした。



 
3.儒教を中心に据え「弓馬の道」を削る



綱吉が示した文言は、「文武」の次に「忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と続きます。ここでの「文」は、明確に、「儒教」を意味しました。そして「弓馬の道」という、長く武士の心得となってきた用語を除き、儒教的な価値を強調したのです。「弓馬の道」を削除した思想的意義は、どんなに強調しても足りません。




4.儒教精神の武家諸法度は幕末まで継承



武家諸法度改正以前、役人には「代官戒諭」、国民には「高札」で儒教思想を打ち出し、最後に「武家諸法度」を儒教理念に立脚したものに改正することによって、儒教が、徳川幕府の理念であると最高法(憲法)で規定しました。この、儒教に基づく武家諸法度は幕末まで継承されたのです。




次に、武家諸法度以外の儒教政策の内容を見て行きましょう。徳川幕藩体制では法令・戒諭が強い強制力を持っており、綱吉は、儒教道徳をさまざまな法律に盛り込み、人々が従うべき規範と定めたのです。




5.代官戒諭 -全ての役人は儒教の心で公務を果たせ-



綱吉は、まず代官に、儒教思想で仕事をせよと命じました。それが代官戒諭です。延宝8年(1680)、これは、将軍宣下前に頒布しました。




民は国の本なり。代官の輩常に民の辛苦を察し。飢寒の愁なからむやうはからふべし。国寛なる時は民奢り。奢る時は本業に懈怠す。諸民衣服屋舎奢侈あらしむべからず。民は上に遠ければ疑多く。上もまた下を疑事すくなからず。上下疑なからんやう。万に心いれはからふべし。代官等常に其身をつつしみ奢なく。稼穡の事明詳にわきまへ。賦税に心入て。諸事属吏にまかせず。みずからつとむべき事肝要なり。




時代劇でも「悪代官」は庶民を苦しめる元凶になります。代官とは、幕府直轄地において民政をつかさどる重職です。代官に命じたことは、事実上すべての幕府役人に命じたことを意味し、直ちに、諸藩にも影響がおよびます。家綱代まで、幕府には確たる住民統治理念はありませんでした。代官戒諭は、役人が儒教の教えに則って人々を統治せよと命じたもので、この戒諭により、幕末まで一貫する、幕府の国民に対する統治理念が確立したのです。




6.忠孝の高札   -儒教道徳を全国民に- 



天和2年(1682)、綱吉在職3年目、日本全国で掲げられた「高札」は以下の言葉で始まります。




忠孝をはげまし。夫婦。兄弟。諸親戚にむつび。奴婢等までも仁恕を加ふべし。もし不忠不孝のものあらば重罪たるべし。―




高札は、幕府や藩が住民に法律を周知させるために掲げた板札です。「忠孝」という言葉は、儒教の重要な徳目で、儒教文化圏の国では頻繁に用いられ、地名などにも見られます。高札では、倹約、勤勉の奨励、賭博や喧嘩、人身売買の禁止なども挙げています。




中国・明の洪武帝が国民に示した「六諭」は、「父母に孝順し、郷党は和睦し、長上を尊敬して、子孫を教訓し、各人の生理に安んじて、非為をなすな」です。洪武帝はこの教訓を、中国のすべての里で唱えさせました。高札は、「忠」という社会の上下秩序を強調していますが、儒教思想の基本である家族、親族の和を重視する内容は六諭とおなじです。この「忠孝の高札」掲示は、日本において、儒教的価値観が国民生活に強く影響をおよぼすことになる、画期的施策となりました。




1868年、明治新政府が発した、「五榜の掲示」は、「人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事」で始まり、儒教道徳である五倫を強調し、1890年に発布された「教育勅語」も儒教思想が根幹になっています。綱吉が始めた、国民に対する儒教的価値観の奨励は、明治以降の日本にも大きな影響を及ぼしたのです。




7.服忌令 ー 生命軽視から生命尊重に -
 


貞享1年(1683)、在職5年目に発した「服忌令」は、近親者が死亡した時に、喪に服する期間を定めた条令を中心とした法で、服は葬服、忌は忌引を意味します。そのほかに、産穢、死産など蝕穢に関する規定も付されました。発令後、服忌令は民間にも急速に広がり、現代に至るまで、日本人の生活に強い影響を及ぼしています。




父母が死去したとき、悲しみの情とともに、敬虔に喪に服すことは、その前提に、「生」を尊重する観念が存在します。儒教教理では、先祖を祀り、子を生み、先祖祭祀を子孫に継承することを人の重大使命と考えます。そのため、人の生命を尊び、それを疎かにする行為はよほどのことがあっても許容しません。




しかし、戦うことを任務とする武士の世界では、ともすれば「生」が軽いものとされかねませんでした。武士が、主君への忠義を貫くため、責任を負うため、あるいは名誉を守るため、死を選んだ行動を人々は褒め称え、反対に、ぶざまに生に執着することを軽蔑しました。




とくに、戦国乱世では、死を恐れぬ勇猛さが求められ、元禄時代もそのような観念が残っていたのです。服忌令は、このような武士の価値観や感性、また時代の風潮までも転換させる、新しい規範の確立を目指したものでした。



死を恐れないことを美徳とする武士の価値観に対し、生を尊重する儒教によって命を惜しむことを教えたのです。神道の要素が反映された、死穢や流産を忌む内容も、「死」に繋がるものから遠ざかろうとする、生命尊重の観念があります。




8.儒・仏・神で、日本独自の生命尊重思想を発展



この法令は、明朝、朝鮮王朝の服喪制とは内容を異にする部分はありますが、服喪を中心とする法令であり、基本は同じです。この服忌令により、日本国民と、東アジア儒教国家の人々の、生活慣習と感性の接近が成されました。




日本はその後、独自の、生命を尊重する思想を発展させました。中国で地震があったとき、日本の救命隊員が、犠牲者の遺体をかこんで、全員で黙祷を捧げていた場面が、外国メディアで感動的に報道されました。日本では当然の行為ですが、外国では珍しい光景なのです。このような、日本人の生命尊重の心と、服忌令の思想は、ふかく結びついています。




歴史的に日本は、儒教、仏教、神道の教えを調和した生命尊重の精神を養いました。その形成に、元禄時代、徳川綱吉が一貫して推進した、儒・仏奨励政策が、ひとつの大きな礎になったことは否定できない事実です。私たち日本人は「犬公方」として毛嫌いする綱吉がおこなった宗教政策を、根本的に見直し、再評価する必要があると思います。     (永田)




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