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東アジアの知的エリート・士大夫、日本に誕生す!  ー儒教が仏教から独立ー

1.湯島聖堂完成直後、儒学者は仏教から解放



元禄4年(1691)、綱吉は、儒官筆頭の林信篤に束髪を命じ、従五位下に叙し、大学の頭と改称させました。このときまで、儒官は、幕府儒官の長である林信篤でさえ、常春という僧名を名のり、髪を剃り、僧位を授けられていました。





湯島聖堂完成直後に、儒学者の処遇は改善され、綱吉の聖堂参詣に随行した林信篤は、「僧」から「儒者」に変わっていました。僧形、僧名、僧位の儒学者では、儒教の権威を損なうしかなかったのです。





 2.家康の儒教政策を大改革



儒学者を仏教に従属させる扱いは、初代将軍、家康が定めたものです。ですから、儒学者の処遇改革は家康の意向に背き、87年ものあいだ引き継がれた徳川幕府の儒教政策を、根本からくつがえす措置でした。




綱吉の改革は、日本における宗教の在り方を転換させました。これによって日本人儒学者は、東アジア儒教国家の伝統的知的エリートである、「士大夫」として、自らを世に示せるようになったのです。





 3.中・韓の士大夫と日本は別物



士大夫といっても、日本と東アジア儒教国家では社会での地位が大きく異なりました。中国や韓国の士大夫とは、儒教を思想的背景とする支配階層のことです。両国では、科挙に合格し君主に重用された士大夫は、高い地位と権力、広大な土地と莫大な財産を所有しました。中国には、「本のなかに官職、金、美女、全てがある」ということわざがありますが、これは真実でした。





徳川幕藩の体制は、幕府が優越した権力を持ちましたが、各藩主も独立した支配権を持ち、藩主の地位は世襲されたのです。これが幕藩体制の構造で、儒教国家のような、儒者が絶大な権力を持つことになる科挙制度の導入は不可能でした。





日本では、綱吉の儒教奨励政策により、儒教が尊重されるようになっても、儒学者はほとんどの場合、学問を主とする限られた役割しか与えられませんでした。新井白石は例外的に権力を持った儒学者でしたが、広大な土地や莫大な富はありませんでした。幕府儒官の頂点にあった林家ですら、旗本のひとつに過ぎなかったのです。





綱吉代から儒教は武士の必須の教養となり、広く庶民に伝わり、日本は上下を挙げて儒教を尊重する国になりました。それには儒学者の貢献が求められ、日本の士大夫である儒学者は権力や富はありませんでしたが、儒教の理想を継承し、人々に孔子が示した徳の道を教える、教育者の使命を立派に果たしたのです。それが日本の清廉な儒学者たちでした。    (永田)



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