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キリスト教・仏教・儒教における「武」のちがい

 1.家康、藤原惺窩から儒教を学ぶ 



話しは80年ほど遡ります。文禄2年(1593)、徳川家康は肥前名護屋に儒学者藤原惺窩を招き対面し、同年12月より、江戸で、惺窩から唐時代の政治書である『貞観政要』の講義を受けました。





時は、前年より文禄・慶長の役が開始されていました。秀吉が、隣国と自国民の不幸を顧みず征服という「覇道」に突き進むなか、家康は高名な儒学者を招き、「王道」の思想である儒教を本格的に学ぼうとしたのです。これは、関が原合戦(1600)から7年も前のことで、彼は権力者になる前に、儒教にかかわる様々な事柄について知り、考察する時間がありました。





藤原惺窩は、朝鮮の儒学者姜沆から学び、朱子学について、また東アジアでの儒教の在り方について深い知識をもつ人物で、家康が惺窩から得た情報は極めて貴重なものでした。





徳川幕府の開幕後、家康は、儒官の任用や儒教書籍の出版、足利学校内の孔子廟改築、京都伏見の学校開設、江戸城内の文庫建設などの儒教政策を実施し、儒教は幕府のなかで一定の地位を獲得することになりました。長いあいだ、一部貴族の家学、臨済宗の五山で学ばれる学問として埋もれてきた儒教が、徳川幕府に取り入れられることによって、表舞台に登場したのです。





 2.仏教に従属した儒教



しかし、その儒教政策は臨済宗僧侶である閑室元佶が多くを担当し、おなじ臨済宗僧侶である崇伝なども参与しました。家康自身も敬虔な仏教信者であり、政策ブレーンも儒学者の林羅山よりも僧侶である崇伝や天海などを重用しました。





また、孔子廟は地方にある足利学校のものを整備するに止め、儒学者の髪を剃らせ僧形とし、僧名、僧位を与える中世の儒学者処遇を踏襲しました。幕府の最高法である「武家諸法度」には、儒教の思想はほとんど反映されず奨励策は消極的だったのです。





東アジア儒教国家では、儒教主義に立つ法律、孔子廟や天を祭る天壇、そして科挙制度や学校などが国家によって整備されました。明では建国以前にほとんど整えられ、朝鮮王朝では建国後次々に整えられたのです。





 3.儒教が徳川幕府の統治理念になる4つの条件



日本において、儒教が徳川幕府の統治理念になるには、次の4つの条件が必要でしょう。



① 儒教の思想が徳川幕府の最高法である武家諸法度に反映される。



② 権威ある孔子廟が建立される。



③ 儒学者に固有の地位が認められる。



④ 人々に儒教を学ぶことを奨励、教育する。




このような条件を備えない江戸時代初期の儒教は、仏教に従属する、不相応で不名誉な状態に置かれ、とうてい統治理念などとは言えないものでした。 





家康の消極的政策の理由は、儒教思想と武家政権は矛盾する部分があるということを知り、儒教に枠をはめたものだったと思います。国内情勢も、「文」優位、平和主義の思想である儒教奨励にはそぐわない厳しいものでした。





 4.儒教は武断統治と両立しない



家康の将軍宣下が慶長8年(1603)で、彼が儒教政策を推進できた時間は元和2年(1616)の4月に死を迎えるまでの13年間でした。この期間は、高い権威を持ち、巨大な大阪城に居を構える豊臣家問題に直面していました。大坂の役は家康が死ぬ前年のことです。老年の家康は、未だ幕府体制が磐石でないまま、20万もの大軍を動員する「大阪の陣」を準備しなければならなかったのです。





武家政権である徳川幕府が、武家であり公家でもある豊臣家を倒す論理は、力あるものが天下を治めるべきであるという「戦国の論理」でした。また、幕藩体制は、大名が軍事力を保有し、各領地を統治する体制で、幕府は彼らを圧倒する武力が必要です。家光代まで、国情は不安定で、幕府は武断統治を行ないました。武断統治と儒教は両立しないのです。





 5.「武」に対する、仏教、キリスト教、儒教のちがい 



諸行無常のインド的・仏教的思想は、世俗における力や権力の役割を相対化し、超越します。聖徳太子は「世間は虚仮なり、唯仏のみ真なり」と考えました。仏の世界を「真」とし、現世を「仮のもの」とする仏教は、俗世界を超越し、どんな国家体制でも、聖、俗を分けることによって共存できます。貴族支配の国であろうと武人支配の国であろうと、それは「俗」なる仮の世のことで、「聖」である仏教とは関係なく、統治者が仏教を奨励すれば、仏国土になります。仏教は、武家政権である徳川幕府と棲み分けが可能なのです。





西洋・キリスト教的思想は、正義は、悪と戦うため力を持つのが義務で、力を積極的に肯定しました。キリスト教はローマ帝国に受容された時から、強い召命意識と、力を崇拝するギリシャ・ローマの思想が結び付き、宗教が国家防衛と領土拡張に貢献することは「聖なる使命」であると認識されました。十字軍は、十字架を描いた武具を着、十字架の旗を掲げアジアに遠征しました。キリスト教国の力は、キリスト教の栄光でもあるのです。この思想が信長とキリスト教が結び付くことができた背景です。「力を重視」するキリスト教や、「力を超越」してしまう仏教は、武家政権との両立が可能なのです。





ところが儒教は、「力」や「武力」を蔑視する思想傾向を持ちます。『論語』に「子、怪力乱神を語らず」という言葉がありますが、孔子は、奇跡、力、戦争、霊魂を忌避しました。孟子により王道、覇道という概念が生まれ、「覇道」である武力やその行使は更に軽視されるようになったのです。





儒教国家の担い手である文臣は、国を儒教で統治する任を負い、「必要悪」である戦争は武臣が担当しました。今日でも、中国や韓国の博物館には、日本やヨーロッパと違い、武器や武具類がほとんど陳列されていません。儒教思想では戦争に関るものは忌むべきものなのです。





このように、霊魂、来世を問題にせず、世俗に重きを置き「力」や「武」を忌避した孔子以来、儒教は世俗の在り方としての「政治」と、武を抑制する価値観としての「文」、すなわち「文治」を重視したのです。これらの国では、乱をしずめ治に至れば、乱を引き起こす可能性を持つ「武」は警戒され、武人に力を与える対外侵略は極力避けました。中国や朝鮮王朝の政治はこのような立場に徹していたのです。





明の洪武帝は恐るべき専制君主でしたが、それは個人の問題で、体制としての明朝はどこまでも「文絶対優位」の国でした。精悍な満州族によって開かれた清朝も、儒教を国教とし、すっかり文の国に変貌してしまいました。このような性格を持つ儒教を、武人政権である徳川幕府が、未だ政権基盤が安定しない幕政初期に積極的に奨励することは困難だったのです。





 6.綱吉のみ成し得た儒教奨励政策



家康は儒教を尊重しましたが、統治理念とするに足る政策を行うことなく曖昧な立場に留めたため、儒教をどうするかは後継者たちの課題となりました。2代秀忠、3代家光、4代家綱と将軍職が継承されましたが何れの将軍も儒教に強い信念を持つ人々ではなく、儒教を幕府の統治理念とする政策は綱吉が現れるまで推進されることはなかったのです。





家光の時代、幕府儒官の林家邸内に、孔子廟と学寮の建設が行なわれ、政治の中心である江戸に孔子廟が設けられました。そこで孔子を祀る釈奠を復活させたことも意義あるものでした。しかし、この孔子廟は規模が小さく、どこまでも林家の「私的」なもので、建設も幕府ではなく、尾張藩主徳川義直が推進しました。しかも、家光は孔子廟を訪れる際に、東照宮詣の帰りに立ち寄るという、孔子廟参詣をついでのものとするかたちをとりました。このような孔子廟の扱いは、幕府における儒教がいかに曖昧で不安定な立場であったかを象徴します。





綱吉の儒教奨励は、絶大な権力を背景に推進したので、難なく達成されたように感じますが、儒教政策を進めるには、儒教思想と矛盾する武家支配の在り方という、体制、理念問題が絡む障害を乗り越えなければなりませんでした。換言すれば、幕藩体制下での儒教奨励は、儒教に強い信念をもつ人物が専制的権力で推進しなければ達成できないものだったと見ることができるのです。         (永田)



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