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「儒学者将軍」・徳川綱吉の奇跡的登場

 1.なぜ、綱吉は儒教を徹底して学んだのか? 



3代将軍家光の3男として育った綱吉は、幼少の時から、特別に、儒教の「英才教育」を受けたと伝えられます。それは、極めて稀なことでした。当時、武家の子弟教育で、儒教はほとんど重視されていなかったからです。そのような中で、なぜ、綱吉が例外的に儒教重視教育を受けたのでしょうか? その事情は、『徳川実紀』に詳しく書かれています。




父君の膝の上におられるほどのとき。若君のなかでもとくに聡明に見うけられ。家光様が子守役に仰せられるには、この子は人並みはずれて賢そうだ。悪くすれば才名のために生涯の禍を招くかもしれない。ともすれば過ぎたる振る舞いをして、兄達に礼を失い、憎まれかねない。何事も謙遜をむねとする教育をせよと常々語られた。またある時は、母である桂昌院殿にむかい、私は幼年より武芸を好み、また少壮より大任をうけて、読書のいとまもなく、文芸に力を入れず今になって悔いている。この子は賢く、将来が楽しみである。善き師をえらび、今より書籍を学ばせ、聖賢の道に心を致せば、ゆくゆく役立つであろう。


ここで家光は、幼い綱吉を聡明だとしながらも、それが却って禍となり、兄たち(家綱と綱重)と不和を生じる恐れがあると案じ、生母桂昌院に綱吉を謙遜な性格に育てることと、賢いので早くから儒教を学ばせよと命じています。この心配の背景には、家光自身が弟を死に追いやった苦い経験があります。





綱吉の儒教教育は、6歳の時に家光が死去しているので、なんと、それ以前から始まったことになります。兄である4代将軍家綱は、明暦2年(1656)、ようやく15才で林羅山から儒教の講義を受けました。保科正之は「幼主が聖人の道に志を立てましたことは、実に国家長久の基」と喜んだ、と伝えられます。「聖人の道に志を立てた」と言っており、これ以前の家綱の教育は、綱吉のような儒教学習に力を入れたものでなかったことは明白です。家綱は、将軍在職中も、儒教に関する言及はほとんどありません。





 2.ふたりの兄の死と綱吉の将軍宣下



重要なことは、家光が将軍職を継ぐ家綱には、儒教学習を特に命じなかったという事実です。家光には、儒教が個人の思想形成や経世の学として、必ず修めなければならない学問だという認識はなかったのです。家光にそのような認識があれば、家綱にも儒教学習を命じたはずです。むしろ「文」重視の儒教は、武家の棟梁となる者には相応しくないと考えたのではないでしょうか。





綱吉に対する儒教教育は、聡明な綱吉が思い上がって兄たちと不和になることを案ずる家光が、兄に仕える「悌」の教えがある儒教思想によって、ふたりの兄に従順であることを期待したからです。このように綱吉の儒教重視教育は、将軍の「弟」であり、且つ「聡明」であるという条件のもとで成立した、例外的なことだったのです。





この将軍家での儒教教育のあり方は、当時の武家の価値観を象徴するものです。将軍となる家綱には儒教に力を入れず、3男である綱吉には儒教を重視するという構図は、武家の価値観の核心が「武」であり「文」の思想である儒教は下位に置かれるというものです。





ともあれ特殊な事情から、綱吉は当時の日本社会で珍しく儒教をよく知る人物となりました。更には、この「儒教をよく知る人物」が「儒教をよく知る将軍」になったのは、、家綱と綱重、ふたりの兄の死という稀な事態が起きたからです。





儒教を幕府統治理念とした将軍の登場が、日本社会の儒教認識が高まり自然なかたちで現われたというよりも、「運命の妙」が介在した出来事でした。家光もこの三男坊が五代将軍となり武士の意識を根本的に変える思想改革を断行するとは、夢にも思わなかったことでしょう。「儒学者将軍・綱吉」の誕生は、歴史というものの不思議さをつくづく感じさせるものです。





 3.急転直下の将軍継承



綱吉が推進した、儒教主義による武家諸法度の改正、儒学者の処遇改革などは、家康の政策をくつがえし、幕府の思想的変革を迫る政策でした。それを実行するには、強い権力が必要です。しかし、徳川幕府は重臣の力が強く、剛健な家光ですら、重臣の意見を尊重しました。兄の家綱は「そうせい将軍」などと言われるほど、重臣が政策決定の多くを担いました。ところが綱吉代は、将軍に絶大な権力が集中したのです。この権力は、まず彼の将軍就任の過程、また就任5年目の有力家臣の死によってつくられました。その流れを辿ってみましょう。





家光の重臣たちは家綱に引き継がれ、酒井忠勝や保科正之、松平信綱など、徳川時代屈指の実力と重みのある人物達が家綱を補佐しました。彼らの死後、大老酒井忠清が幕閣のなかで抜きん出た力を持つようになったのです。





『徳川実紀』には「世に伝ふる所」と前置きし、綱吉の将軍継承の過程を記述しています。酒井忠清は家綱病状悪化のなか、次期将軍には霊元天皇の甥にあたる有栖川宮幸仁親王を迎えようとしました。京から将軍を迎えることは鎌倉時代に前例があり、後宮の中に妊娠の側室があったので、男子誕生を期待したつなぎの措置としてこの案が考えられたとしています。





これは権勢並ぶ者のない酒井の提案であり、決定されかけていましたが、老中の堀田正俊がひとり反対し、綱吉を推しました。堀田は夜中、病床の家綱に召され、綱吉を跡継ぎにする意向を伝えられ、綱吉も呼ばれて大任を譲る旨の仰せを受けた、とあります。





 4.ふたりの実力者の排除と綱吉の権力



綱吉後継は、堀田の幕閣会議における抵抗と、家綱の決断によって決定したのです。延宝8年(1680)8月23日、綱吉は将軍に就任し、同年12月に酒井は免職されました。綱吉政権は、酒井忠清という実力者を排除する中で出発したのです。





新政権で力を得たのは綱吉擁立に功のあった堀田正俊です。堀田は儒教を尊重する人物だったので、綱吉政権初期の儒教政策には堀田の参与もあったと思われます。ところが貞享1年(1684)、堀田が若年寄の稲葉正休によって刺殺されてしまいます。この堀田殺害事件を契機に、幕府中枢が大老、老中の既存体制から、人材登庸による側用人体制に移行したのです。堀田死後25年間、綱吉は側用人を重用し、自らが信ずる政策を大胆に実行することになります。





 5.最強の将軍



綱吉はおそらく、歴代徳川将軍のなかで最強の権力を持っていたと思います。4代の将軍を経てすでに幕府の基盤は磐石なものになり、譜代の家臣に気を使う必要もなく、有能な側用人が彼の手足のようになって働きました。元禄時代は政治も社会も新時代の勢いに乗り、経済は急成長期を迎え、政策実行に欠かせない財源を豊かに確保できました。権力者が大事業を行なえる条件が整っていたのです。





綱吉がまず成さなければならなかったことは、武士の儒教に対する認識を変えることです。それを実行するための制度的、人的条件は不十分で、儒教政策遂行の過程で、「制度」を整え「人」を登用し、教育を通じ、人々の意識改革をしなければなりませんでした。明や朝鮮王朝の儒教国教化には儒学者階層である「士大夫」たちが多くの役割を担いました。士大夫のいない日本では、儒教をよく知る将軍の役割が大きなものになったのです。     (永田)




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