宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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黄門様はホームレス殺し -戦国殺伐の風習-

1.見たい歴史の常識を疑い、見たくない歴史を直視すること



「黄門さまはホームレス殺し」、何のことやら分からないと思います。水戸黄門ファンにはショッキングなことかも知れませんが、光圀の素顔の一部を紹介します。見たいものを見て、見たくないものは見ない日本人の歴史観から言うと、黄門さまは見たい歴史人物の代表といえるでしょう。




 見たくない人物である綱吉の、見たくない政策である「生類憐みの令」は、当時の社会にはびこる、乱暴・殺人を何とも思わない、「戦国殺伐の風習」を解決するためでした。山室恭子氏の『黄門様と犬公方』は、綱吉を評価する研究ですが、光圀の行動には、この時代の問題を知る、さまざまな重要な意味が含まれます。光圀の証言の部分から、引用します。





わしがどこからかの帰りに夜更けて浅草の御堂で休んだ折のこと、連れのひとりが、この縁の下に非人どもが寝ておるぞ、引き出して刀の試しにしようと提案した。つまらぬことをおっしゃる、どうして罪なき者を斬れようか、無用なりと退けたのだが、臆病者と嘲られたので、そうまで言われては是非もない、いで私が非人を引きずり出して見せようと、真っ暗な縁の下へ這い入った。非人が四五人ほども寝ていたであろうか、私どもはこんなありさまになっても命は惜しいのに、どうしてかような情けないことをなさるのですと皆奥へ逃げて行くのを、私もそう思うが連れが無理を言うのでやむをえんのだ、前世の宿業とあきらめよと、手にさわった一人を引っ張り出して斬った。そののち、こんな心根の者とは思わなんだと、くだんの友人には絶交を申し渡したことであったよ。
(『玄桐筆記』第七十段)





すさまじい光景である。「いかに情けなき事をし給ふぞ」と手を合わせながら逃げて行く非人たちを掴まえて、「人有りて無理を言はるれば、詮方なし、よくよく前世の業と思へ」、ただ刀の試しにするためだけに無惨にも斬り捨てる。しかも、光圀は自らの振る舞いを決して居心地良くは感じていないものの、隠すほどの悪事とはつゆ思わず、囲炉裏端の回想談として家臣たちに得々と語っている。このすさまじさが、あの時代の通常の感覚であったのだ。人の命を刀の試しにしても何ら痛みを感じない。この感覚がふつうであったのだ。





こうした状況こそ、綱吉の目に「不仁にして夷狄の風俗の如き」と映じたものだったのではないか。どうにかして、この悲惨な現状を変革せなばならぬ、そのためには「仁心」の涵養だ、生きとし生けるものの命を尊ぶことを教えることだと、そんなふうに彼は生類憐みの政策へと導かれていったのではあるまいか。



『黄門様と犬公方』ほど、元禄時代に残っていた、凄まじい戦国殺伐の風習と、綱吉の儒教と仏教、すなわち儒・仏奨励政策の意義を雄弁に解明した研究はありません。





日本人の歴史観は、見たいものだけをみる。徳川光圀は見たいものなので、すべて美談に加工し、繰り返し見る。しかも、光圀自身のことであっても見たくない部分は見ない。ですから、とんでもない虚構の「黄門さま」が誕生してしまいます。黄門さまは、かよわい庶民の味方で、綱吉や柳沢は悪の権化、諸国を行脚して悪を裁く。これでは、この時代の真実は分かりません。見たいものを見る歴史観は、ほぼ日本史のすべてに適用されます。それは歴史の真実ではありません。見たい歴史を疑い、見たくない歴史の真実を直視しなければなりません。





また、光圀は儒教を尊崇しましたが、反対に仏教は大弾圧を加えました。領内の数千の仏教寺院を廃しました。もしも、幕府の儒教政策が光圀と同じようなものだったら、日本における仏教は大きく後退したでしょう。そして、日本における、宗教間対立は深刻なものになり、その後の歴史に影響したことでしょう。綱吉は、儒教を強力に奨励しましたが、仏教もそれに劣らず奨励しました。彼の宗教政策は、儒・仏同時奨励でした。それにより、日本人の宗教観は寛容なものになったのです。





 2.元禄の世と儒教



一般的に綱吉の将軍在職期間を元禄時代といいます。この時代は流通経済が飛躍的に発達するとともに開放的な文化が花開く、経済、文化の興隆期でした。京、大阪、江戸を中心とする人と物の交流により、そこで巨富を築いた豪商たちや、優れた文人たちが活躍し、町人層が台頭して新しい都市文化が誕生しました。





一方、元禄の社会は深刻な問題を内包していました。華やかさの中に、甚だしい貧富の差が存在し、家康以来155家の大名が取りつぶされ、不満を持つ浪人たちが全国に40万人にも達しました。戦国、安土、桃山とつづいた戦乱の時代は未だ人々の記憶と感性に強く残り、巷には不法をはたらく無頼集団「かぶき者」が跋扈しました。暴力が横行し、些細な争いから、あるいは単に面白半分に抜刀し殺人に及ぶ事件も多発したのです。社会に存在するこれら暴力と混沌は、退廃の風潮とともに、為政者にとっては看過できないものでした。新将軍綱吉が直面したのはこれら社会問題の解決でした。





「泰平の世」は徳川の天下となり単純に訪れたものではありません。開幕から11年後の慶長8年(1603)には大阪の陣がありました。その後は、激しいキリシタン迫害時代が続き、家光代には島原の乱が勃発したのです。家綱代は、文治統治に転換したと言われますが、幕府転覆を謀る由比正雪事件が起き、明暦大火は、江戸市中の6割が焼失する戦乱を上回る被害をもたらし、「かぶき者」が引き起こす騒動も深刻化しました。





幕府転覆の陰謀、暴力、かぶき者問題などの根底には、人々の価値観の喪失という問題がありました。天下は統一され、戦乱は過ぎましたが、新しい時代を支える確固たる思想がなく、幕府はどのような価値観で国民を導いてよいか分かりませんでした。かぶき者の中には「旗本奴」と言われる幕府上層の人々もいたのです。キリシタン弾圧のために優遇された当時の仏教界には、時代の問題を解決する力はありませんでした。幕政初期は決して、泰平の世と言える時代ではなかったのです。





綱吉は、戦国動乱以来行き場を失っていた人々の心を、アジア伝来の普遍的思想である儒教を奨励することによって安定へと導こうとしたのです。元禄時代は、幕府の力は充実し、権力は理想主義者で実行力ある将軍に集中し、社会は新しいものを受け入れる気運に満ちていました。明朝、朝鮮王朝においては、儒教を王朝の出発期に国家を精神面から支える建国理念として採用しました。それに比べ日本は、幕府開府から約1世紀遅れ、経済、文化の隆盛期に、時代に求められる精神として本格的に受容したのです。





 3.東アジア儒教国家からの影響


江戸時代の儒教は、東アジア儒教国家から多大な影響を受けました。朝鮮の儒教書籍は室町時代から輸入しましたが、文禄・慶長の役によって大量に日本に運ばれ、これら「朝鮮本」を底本として覆刻、翻刻が盛んに行なわれたのです。儒教は、超越者に対する祈りという宗教的行為がなく、諸経典の学習が基本で、儒教ほど書籍に頼る宗教はありません。朝鮮書籍が、日本の儒教発展と普及に果たした役割は計り知れません。





朝鮮王朝の儒学者である姜沆(1567-1518)は、文禄・慶長の役により、日本に捕虜として抑留されていた人物です。藤原惺窩はこの姜沆と親しく交流し、思想上の影響を受けました。惺窩は家康に招かれ儒教を講義することになり、後に幕府儒官になることを要請されましたが、断わり、かわりに弟子の林羅山を推薦しました。この羅山の儒教も、朝鮮儒教から多くを学んだのです。徳川幕府の儒教には、姜沆―惺窩―羅山という流れが存在しました。





師弟関係を辿れば、藤原惺窩の弟子は松永尺五、その弟子の木下順庵門下から新井白石、雨森芳洲などが輩出し、かれらは姜沆と繋がっているのです。捕囚であった一人の儒者が日本儒教に与えた影響は大きなものがありました。 





朝鮮通信使は新将軍就任のたびに朝鮮王朝から派遣され、綱吉以前にすでに6回日本を訪れました。通信使との交流には、儒学者が中心的役割を果たし、彼らはとくに、朝鮮の儒学者李退渓に関心が深く、その学問や人となりについての情報を得ようとしました。日本の儒学者にとって、通信使との接触は儒教についての新知識と刺激を得られる絶好の機会だったのです。





一方、中国からの亡命儒学者である朱舜水(1600-1682)は、水戸藩主徳川光圀の賓客となりました。光圀は、朱舜水に対面した際、篤く弟子の礼をとったといわれます。江戸の水戸藩邸に住んだ朱舜水は、安積澹泊など水戸学派の学者と交わり、後に庭園の設計、築造に協力し「治者は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」という中国古典の一節を取り、「後楽園」と命名しました。





彼は水戸学派の思想に影響を与えただけでなく、広く日本の儒教、日本人の中国認識に影響を与えました。また、当時の儒学者の間では、中国語学習が流行し、綱吉も柳沢邸で中国語による儒教経典の問答を聞きました。





宗教の交流は政治、文化の交流も伴います。日本は儒教の先輩国である韓・中両国から新しい儒教を学ぶとともに、これらの国での儒教の在り方、明から清にかわる中国の状況などの情報を得ることができたのです。この時代は、日本と東アジアとの文化、学術、国際情勢などの情報交流に、儒教が媒体となり儒学者が重要な役割を担いました。





それにより、江戸初期の儒教は発展しました。しかし、幕府の儒教政策は、後代まで威光を放った家康のものをほぼ忠実に踏襲するもので、外部の動きが幕府の儒教政策を変更させる力を持ちませんでした。なぜなら、幕府理念政策は徳川宗家である将軍家が担うもので、他の干渉を受けるものではなかったからです。徳川幕府の儒教政策転換は幕府の外からの影響ではなく、その中心から起こらなければ実現できないものだったのです。
                                                                  (永田)



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