宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

江戸城、巨大な大学と化す! ー熱血教師綱吉の奮闘ー

1.世界史のユニーク現象・最高権力者による宗教教典の講義



日本の執権者である、徳川綱吉が、江戸城において、300名以上の大名、旗本らを集め、自ら儒教経典の授業をしたことをご存知でしょうか。綱吉は、さまざまな形の儒教講義を400回あまりしました。これは、執権者であった聖徳太子が、自ら仏典を講義した以来の出来事といえます。これも、見たくない人物がしたことなので、見なかった重要な歴史的事実です。私たちは、江戸・元禄時代に、一人の徳川将軍が、熱心に儒教を講義したという稀有な事実を、正しく評価すべきです。





綱吉による儒教の講義は、権力者自身が人々に宗教の教理を教育するという、世界でも極めてユニークな宗教奨励でした。外国ではふつう、権力者や指導層は、受容しようとする宗教について深い知識がなかったため、教育者を外国から招請しました。ヨーロッパではカトリック教会が、キリスト教導入をのぞむ国に教師を派遣しました。仏教もおなじで、仏教が隆盛していた国の僧侶が、仏教導入をのぞむ国に赴き仏教を教えたのです。





 2.仏典を講義した聖徳太子、儒教を講義した綱吉



日本は、古代の仏教受容のとき、執権者であった聖徳太子自身が、推古天皇に仏典を講義し、仏書を著しました。おなじように、江戸時代に、儒教を国家統治理念とするとき、執権者である綱吉が直接、儒教の教義を講義したのです。日本は、仏教と儒教の受容、奨励期の執権者が、ともにその宗教教義をよく知っていたのです。これは、日本における、世界宗教の受容環境の特殊性によって生じた現象で、世界宗教の受容・奨励における、権力者の役割の大きさを示すものです。





日本は、キリスト教、仏教、そして儒教など、世界宗教の発信地から遠く離れ、世界宗教を受容した帝国の勢力圏外にありました。そのため、日本のなかに、世界宗教の受容、奨励を請負う、権力者が必要とされたのです。





彼ら宗教伝播の「請負人」は、先にその宗教を受容した、帝国からの影響力行使や支援がなく、国内にも理解者が少なかったため、強固な信念や信仰、また大胆な行動が要求されました。儒教の発祥地である中華帝国と断絶状態にあった徳川時代、儒教奨励の請負人である綱吉が、重要な役割を担ったことは、日本の置かれた状況においてはむしろ必然でした。





 3.なぜ、綱吉は自ら講義したのか?



綱吉の儒教講義は、元禄3年(1690)『大学』の講義に始まり、『徳川実紀』に記録されただけでも300回以上にもおよび、受講者は公家、大名、旗本、役人、宗教者など多彩で、ときには342人の大名、役人に講義することもありました。





幕府に、儒官がいたにもかかわらず、あえて綱吉が儒教を講じた理由は何だったのでしょうか? 綱吉の儒教講義の目的は、人々に儒教を尊重させ、日本に儒教の権威を確立することでした。孔子廟である湯島聖堂を建設し、日本の最高法である武家諸法度を儒教主義で改正し、儒官を仏教から独立させるなど、一連の儒教整備政策によって、目に見えるかたちの儒教の権威は確立しました。しかし、当時の武家社会では、「武」を至高の価値とし、儒教をキリスト教のような外来思想として、警戒、軽蔑する傾向が根強く存在したのです。





綱吉後に、2人の将軍を補佐した儒学者の新井白石は、儒教が国民に学ばれるようになったのは綱吉以後で、それ以前は高位の人物も、儒学徒をキリシタンと同類視するほど偏見を持っていた回想しています。長くそのような通念があった社会で、武士に儒教を、心から尊重させることは容易なことではなかったはずです。





綱吉の儒教講義の意義は、「将軍が儒教を講じた」ということに尽きます。日本においては、「文・武」の葛藤、両者の軽重の問題が根強く存在しました。武家社会では「武」が上位で「文」は下位に位置する概念です。そのような中で、武士にとって、いわば「別人種」である文人の儒官が儒教を講義しても、文、武の逆転はできません。





 4.「武」の幕藩体制で、「文」の儒教の権威が確立



将軍は征夷大将軍、すなわち「武家の棟梁」であり、すべての武士の最高権威者です。綱吉は、儒教の講義の際、儒教経典を丁重に取り扱い、うやうやしく書箱から取り出し、両手で頭上に戴いた後に、講義を始めました。このように、「武」の頂点に立つ将軍が、儒教を尊崇し講義すること自体が、明確に、「武」が「文」を上位に戴いたことを意味し、文・武の上下秩序が確立できたのです。綱吉が講義する限り、受講者は儒教の権威を認めざるを得ないし、命じるままに教理を学ばざるを得ませんでした。厳格な権威主義体制下において、将軍が行なう儒教講義の効果は計り知れないものがあったのです。





東アジアの儒教国家と比べ、武家支配の日本の体制は、儒教の理想と矛盾しました。しかし、幕藩制を廃し、東アジア儒教国家のような体制に転換することは不可能です。どこまでも、日本的体制のなかで儒教を奨励しなければならず、綱吉はこの枠の中で、将軍としてでき得るかぎりの奨励方法を模索しました。自ら儒教経典を講義するという型破りな方法でしたが、それは、幕藩体制下においては、「究極の奨励方法」であり、彼は情熱を傾けてこれに臨んだのです。  (永田)




6月までの記事は下のブログをご覧ください。