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儒教があふれる北京・ソウル、儒教がない東京 -湯島聖堂建立の意味-

 1.孔子廟(湯島聖堂)建立は国家的事業



綱吉は将軍宣下から9年間、幕府儒官の筆頭である、忍岡の林家邸内にある孔子廟を訪問しませんでした。父の家光も参詣したのですから、儒教を尊重する綱吉が、9年ものあいだ孔子廟を参詣しなかったのは異常なことです。



おそらく綱吉は、この孔子廟が、儒教の祖・孔子を祀るにふさわしいものでないと考えていたのでしょう。それはまた、綱吉が、新孔子廟建立を早くから考えていたことを示唆し、儒教主義による法律の整備後に、孔子廟を建立するという、儒教奨励政策の長期プランの存在を推測させます。




林家邸内の旧孔子廟は、寛永9年(1632)、尾張藩主徳川義直の援助によって建てられました。綱吉はこれを「私造」で「狭隘」、すなわち一大名が建設し、かつ規模が小さいと指摘しました。私造としたことからは、この孔子廟に対する不満と、逆に、新孔子廟である湯島聖堂は「公的」なものであるという認識が示されています。



「忍岡の地は寺刹に逼近し」とも言い、聖堂建立が、儒教を仏教から分離し、独立させる狙いがあることもうかがえます。




湯島聖堂建立に際し、御三家など、有力大名76家が、典籍、祭器などを献じました。すなわち、新孔子廟建設は、徳川幕府を越え、幕藩体制を挙げた事業、すなわち国家的事業となりました。



綱吉は、孔子像が祀られる大成殿の扁額として掲げるため、自筆の「大成殿」の額字を書く一方、聖堂ちかくの相生橋を孔子の生地、山東省の昌平にちなんで「昌平橋」と改称させました。



そして大掛かりな警護と、厳粛な儀礼とともに、孔子像を林家学寮から聖堂の大成殿に遷したのです。湯島聖堂はこのような措置により、人々から注目され、その権威も高まったのです。




元禄3年(1691)12月、聖堂は完成し、翌年2月11日には綱吉が参詣し、孔子を祀る典礼である釈奠を主催し、自ら儒教経典を講義しました。この孔子廟は、権威、規模において「国教の殿堂」にふさわしいもので、徳川幕府の儒教奨励と教義研究の中心になりました。





 2.湯島聖堂は、儒教の精神世界と権威を示す



孔子廟は、朝鮮王朝、明朝などと日本では、儒教のシステムのなかに占める役割に違いがあります。東アジア儒教国家では、官吏登用のため、儒教を主科目とする「科挙」があり、儒教で権力の配分が成される制度がありました。



王宮や霊廟、天を祀る祭壇なども、儒教思想を反映しており、これらの国には、儒教の精神世界と権威を示すものが溢れています。しかし、日本での儒教の権威は、社会制度や文化、権力の在り方などから発信されるものではありませんでした。




東大寺のような壮大な寺院は、仏教の精神世界を表すとともに、仏教の権威を示すものでもあります。それと同じように、日本では、儒教の精神世界を表し、権威を誇示する壮麗な孔子廟が必要とされたのです。



綱吉は、自身が儒教講義を本格的に開始する前に、湯島聖堂を建立しました。孔子廟が、幕府の統治理念にふさわしいものでなければ、自身がおこなう講義も、儒教の精神世界と権威的象徴を背景としない、安定を欠くものにならざるを得なかったのです。



綱吉死後も、湯島聖堂は儒教の精神世界を表象し、権威を発信し続けました。のちに、綱吉ほど強力に儒教を奨励した将軍は現れませんでしたが、湯島聖堂の存在が、綱吉の儒教政策を継承させるのに重要な役割を果したのです。





 3.東アジア儒教国家と日本のちがい



それはまた、現代の日本で、儒教の影が薄いのは、儒教を表すものがほとんど存在しないことがひとつの理由だということが分かります。中国や韓国では、至る所で儒教的なものに出くわします。



そもそも、首都の北京やソウルは、儒教思想により都市が設計されたと言っても過言ではありません。これらの国を観光すれば、長く両国の国教であった儒教の歴史が迫ってきます。




それに比べ東京では、湯島聖堂にでも行かないかぎり、儒教を感じることはできないのです。今日、日本人の儒教に対する観念は、書物に書かれた孔子の人生訓というものでしょう。私達は江戸時代の200年余り、儒教がこの国の統治理念であったという厳然たる事実を踏まえ、儒教の重要な位置と役割を認識して、正しい日本史観を創出するべきだと思います。 
                                                                    (永田)



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