宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

世界−人類−日本、皆が幸福になる知を探究します。

『手塚治虫のブッダ』が発する真理〈Coffee break 他2編〉


『手塚治虫のブッダ』の終わりのほうに、釈迦が「人間の心の中にこそ、神がいる。神が宿っているんだ!」と悟る場面がある。イエス・キリストが「汝の心の中に天国がある」といった言葉を彷彿する。釈迦の最後の悟りを、人の心にある「仏性」とせずに「神」とするのは、かなり大胆である。そして、どう考えてもこの神は、普遍的、内面的で、インド的な擬人化された多神教的神ではなく、キリスト教的な一神教的神である。帝釈天でなくエホバだ。これは、仏も神も本質は同じものと捉える、手塚の宗教観が反映しているのであろう。





「人間の心の中に神がいる」と考える人は少なくないだろう。しかし、「何となくそう考える」のと、「本当にそう分かる」ことはちがう。前者は思考することで、後者は悟ることである。悟るには、心からの実感が伴わなければならない。手塚は多くの宗教的テーマの作品を残した。というより、手塚の作品は全て宗教的と言ったほうがいいかも知れない。だから彼は、ただそう考えただけではなく、かなり分かっていたのであろう。





宗教は、誰が真理を発信するか分からない。アニメや子供が偉大な真理を語るかもしれないのだ。今話題の「鬼滅の刃」も、さまざまな人生の真理を気づかせられるから大ヒットしているようだ。真理を伝えるのは、宗教家や教典だけではない。何時、何処で、誰が宗教的インスピレーションを受け、真理を語るか分からない。思いがけない存在が深淵な真理を教えてくれるかも知れないのだ。





同性婚容認と宗教



同性婚反対を言うと、差別だと批判される。しかし、イエス、釈迦、孔子は同性愛を認めない。聖人の教えに従う宗教者ならば同性婚は認められない。フランシス教皇が同性婚を容認したが、彼はキリストの教え、聖書の教えをいったいどう考えているのだろうか?





美輪明宏さんは人を幸せにする優れた思想を発信し、わたしは尊敬している。それは美輪さんが、人生の真理を語るからだ。同性愛と人間の宗教性は別物である。宗教の聖人は、男女の愛でも、間違った愛は認めない。間違った愛とは自己本位の愛である。美輪さんは、人を尊重することを教え、自己本位の考えをいさめる。美輪さんのように正しい宗教性をもち生きれば、人を幸せにし自分も幸せになれる。





宗教は、同性愛者を個人として差別することはしない。人を差別する聖人の教えはないからだ。人間の平等は、宗教の本質であり、差別したら宗教の道から外れる。しかしまた、同性婚を認めることも、宗教の本質を損じることになる。同性愛感情は、精神的風土や思想で変わる。国により、時代により、階層により大きな差がある。宗教は同性愛問題につよい影響をもつ。同性愛に対し明確にNОという宗教では同性愛問題は解決できるものである。同性愛、同性婚問題は、聖人の教えと、差別はならぬという問題がからむ、宗教の重要問題であり、その真価が問われる問題である。





本と霊界



本とは、二次元の平面の世界で、三次元の立体世界の住人である我々は認識できるし、多くの情報を得ている。それでは、四次元の霊界と、三次元の我々の住む地上界の関係はどうであろうか。四次元の、神と霊界の住人は、我々三次元の本の読み手のようであり、反対に、三次元の我々は、二次元の平面世界の本と似ている。本である我々は一生懸命、自分の物語を書き進めている。霊界では神と霊人たちがそれを読んでいる。




次元が違うので、我々は、四次元世界で自分という本を読んでいる、神と霊人の存在は全く認識できない。神はいい本を好み、悪魔は悪い本を好む、人は人生でどんな本を書いたかで、霊界での自分の主人と仲間が決まる。生涯をかけ、いい本を書こうと努力するのが宗教的生活といえる。