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綱吉、皇室政策も「武断」から「親和」へ -大嘗祭を221年ぶりに復活-

 1.綱吉の徹底した皇室優遇政策


綱吉は、歴代徳川将軍のなかで最も朝廷を重んじた人物です。天和3年(1683)、東山天皇が皇太子位にのぼる際、幕府の援助によって336年ぶりに立太子の儀式を再興し、東山天皇即位にも、皇室の要請にこたえ援助し、221年ぶりの大嘗祭が執り行われました。これは、今年の11月におこなわれる今上天皇の大嘗祭につながるのです。



皇室の賀茂祭り等の祭礼再興、皇室とのつながりの深い寺院の造営などもおこなう一方、南北朝の動乱以降、荒廃していた歴代天皇陵を探索し、保全、保護するなど、皇室への支援を惜しみませんでした。これも、前政権の皇室政策を根本的に改革する措置でした。





2.朝廷にとって徳川幕府は恐怖の政権だった



幕府の朝廷政策は、禁中並公家諸法度の第一条に「天子御芸能の事、第一御学問也」と規定しているように「学問=文」のみに専念すべきであるとし、政治上の役割を禁じました。反対に、武士に対しては武家諸法度で「武」に専念することを強調したのです。





武士は「武」、朝廷は「文」と厳に分離することによって、朝廷が、「武」である権力の世界に影響を及ぼすことを遮断したのです。それは、朝廷からすれば、自分たちは丸裸の弱者で、幕府は凄まじい武威をまとう恐怖すべき存在になったことを意味します。





3.朝廷と幕府を結びつけた「儒教」



しかし、朝廷にとって綱吉は、儒教という「文」の価値観を共有する将軍でした。父の家光のように、露骨に武威を背景に臨んでくる将軍とは全く異なりました。江戸における、朝廷を代表する存在とも言える「日光門跡」、すなわち日光輪王寺宮は、綱吉の儒教経典講義を他に率先して聴講するなど、儒教奨励政策に協力し、とくに公弁法親王は綱吉との親交がたいへん厚かったのです。





「文」の思想である儒教は、幕府と朝廷が共有する価値となり、両者を融和させる媒体となりました。綱吉の朝廷を尊重する姿勢は後代にしっかり受け継がれ、幕末まで変わりませんでした。この綱吉の朝廷尊重政策の在り方が、後に大政奉還、明治維新を可能にする土壌を形成したのです。 (永田)



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