宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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「元禄」は宗教からはじまった!

1.日本中枢の元禄は、儒・仏奨励から始まる


綱吉は、儒教と仏教の本格的奨励を元禄元年から開始し、「元禄」は、儒・仏にとって特別な意味をもつ時代でした。徳川将軍が、寺院を訪問したり、僧侶の法門を聞くなどは極めて異例なことでした。元禄1年から3年までの、綱吉の主な儒・仏関連行動を見てみましょう。


元禄1年(1688) 9月 3日 山王社を参詣する。        仏教
12月18日 知足院を参詣し、法問を聞く。           仏教

11月21日 林家の孔子廟を始めて参詣する。          儒教



元禄2年(1989) 閏1月25日 山王社を参詣する。  仏教
閏1月25日 知足院を訪問し、法問を聞く。           仏教
2月21日 再び林家の孔子廟を参詣する。               儒教
12月 3日 寛永寺を始めて訪問し、法門を聞く。      仏教



元禄3年(1690) 2月10日 山王社を参詣する。    仏教
2月18日 知足院を参詣し、法門を聞く。             仏教
3月21日 林家孔子廟に三回目の参詣をする。         儒教
7月9日 湯島聖堂建設を明らかにする。                 儒教
8月21日 自ら『大学』を講じ、諸老臣が聴講する。   儒教
9月21日 諸役人に儒教学習に励む事を命じる。     儒教
12月1日 日光門跡から経典講義を聞く。        仏教




時代が元禄になるとともに、綱吉は寺院参詣と林家の孔子廟参詣を開始しました。この3年間は、孔子廟である湯島聖堂建立のための準備期間で、聖堂完成の翌年から、儒・仏奨励は堰を切ったように積極的になります。儒教政策の核心事業が行なわれた時期に、仏教奨励も本格化し、その後も、儒・仏奨励はおなじテンポで進み、両者を並行的に奨励するという綱吉の意図が見て取れます。




2.徳川幕府に儒・仏の魂が入った


綱吉以前の将軍達は、家康をのぞき、仏教を篤く信じる人物はいませんでした。宗教心がない一方で、キリシタン禁圧に仏教を利用する宗教政策は、まさに「仏つくって魂いれず」といえました。将軍は、歴代将軍の月命日に霊廟を参詣し、仏式の法要を行なうことになっていましたが、実際はほとんど幕臣が代参しました。将軍と仏教との関係は、このような務め以外は、稀に大寺院の住職を接見するぐらいのもので、寺院を参詣したり、僧侶の法話を聞くこともありませんでした。





綱吉の仏教に対する姿勢は、儒教に劣らず真摯なものでした。仏教界に対して絶大な権威と権限を有する将軍が、おおくの僧侶を集め、法問の場を主催し、僧侶の問答を熱心に聴講したのです。これは、法問を通じて仏教界の活性化を促進するもので、事実上、仏教に対する奨励策といえるものでした。徳川幕府は仏教を統治に利用したという認識が強いのですが、将軍が仏教を心から尊崇し支援したならば、両者の関係はより自然で相互的なものになります。





この時代、天台宗僧侶円空(1632-1695)、は何万もの仏像を刻み、人々はそれに手を合わせ拝みました。綱吉も同じように、一人の仏教信者として僧の話を聞き、仏に手を合わせたのです。将軍である綱吉の仏教信仰は、幕府の仏教政策を、政治的意図を越えた為政者の純粋な信仰的動機を持つものに転換させたのです。





3.綱吉の儒・仏尊重はすべての武士に投影


綱吉は、個人的にも僧侶と語らうことを好み、江戸城に招き、儒教を講義し、法問を聞き、あるいは食を饗し、ともに能を鑑賞し、自身が舞う能を見せました。綱吉代になり、僧侶は儒教経典の受講者として、仏典の講師として、社交の相手として頻繁に江戸城に招かれるようになったのです。





将軍が絶大な権威をもつ体制では、将軍の行動を注視し、それに追随することが自身と集団の安泰をはかる術で、将軍の思想と行動は武士に必然的に投影されて行くものでした。綱吉の仏教奨励は、武士たちに、儒教とともに仏教をも尊重するよう促すことになったのです。





仏教奨励には、生母桂昌院が重要な役割を担いました。桂昌院は篤く仏教を信仰し、寺院を足繁く参詣し、僧侶の法話を聴きました。そもそも、綱吉が仏教を信仰するようになったのも彼女の影響と思われます。また、幕府の援助を請う寺院のために綱吉にとりなしました。従一位という破格の官位が授与されていた彼女の権威は極めて高く、桂昌院の活躍により仏教奨励は一層強化されたのです。   (永田)



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