宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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龍馬と海舟から、大久保と伊藤へ -明治維新の理想と現実-

1.龍馬と信長 -地球儀をみて戦略を立てた男-


安政1年(1854)、徳川幕府は、アメリカの軍事的威嚇を受け開国しました。日本は有史以来始めて、外国の圧力により重要国策を転換したのです。これはまた、日本が長く享受してきた平和的国際環境を喪失し、「島嶼独立国家時代」が終焉したことを告げる出来事でした。





外国の圧力による開国は、朝野に強い危機意識をわき上がらせ、攘夷を叫ぶ勤皇派は、幕府の弱腰外交を攻撃しました。それを抑え込むための、井伊直弼の強圧政治と直弼の暗殺、外国人襲撃と、それに対する外国艦隊の報復などの事件が勃発し、日本は幕末動乱の時代に突入したのです。





混沌とする情勢のなか、坂本龍馬は、広く世界を見据えて日本の進路と新しい国のすがたを模索し、薩長同盟を成立させ、明治維新を成し遂げる決定的役割を果たしました。龍馬は、「戦国脱亜」を主導した織田信長を彷彿させます。




信長は、キリスト教宣教師から世界知識を学び、世界という視野から日本を考えました。龍馬も信長も、「地球儀」を見ながら日本の改革と未来構想を練った人物なのです。海援隊は龍馬が世界で展開しようとした事業の雛形であり、「船中八策」は新国家の大方針である、五箇条の御誓文の基礎になりました。





龍馬と信長の人間性は正反対と言えますが、改革意思とビジョンを世界知識から得たことと、スケールの大きさは共通していました。しかし、ふたりは新しい政体が誕生する前に、志なかばにして倒れました。





2.龍馬・海舟・西郷 -理想主義者のつながり- 



明治維新は、過去の島嶼独立国家の改革と根本的なところに違いがあります。古代入亜は、仏教受容の影響、戦国脱亜は、ヨーロッパ文明とキリスト教受容の影響が原因になりましたが、外から加えられた「脅威」ではありません。ところが明治維新は、欧米の軍事的脅威が原因になり、その圧倒的な文明の力に衝撃を受け、国家の生き残りの道を探り、試行錯誤して成し遂げたものです。





また、明治維新は、達成するまでの時期と、その後では、主導した人物が異なりました。坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛は庶民のことを考える人情があり、無欲で、高い理想を抱き、なによりも権力指向の人々ではありませんでした。明治維新は、このような魅力的な理想主義者が中心的役割を担った、日本史に輝く革命でした。





「勝‐坂本‐西郷」という維新を成し遂げた結びつきは、キーパーソン龍馬の死により機能しなくなりました。龍馬という強力な盟友を失った勝海舟は、旧幕臣故に新政府内でその優れた見識を充分に生かせず、人望と権力があっても、ビジョンと交渉力がなかった西郷は対朝鮮外交問題で下野し、反乱を起こし死にました。





この三人が新政府に居たならば、日本が理想主義的な外交を行なった可能性は充分にあります。龍馬の死は、近代日本の歩みを理想主義から現実主義に転換させるのに大きな影響をもったと思います。明治新政府は、この三人とは個性と思想の異なる人物たちが主導することになります。維新の前後では明らかに日本の指導層に人的、思想的な重大な変化がみられます。すなわち、理想主義者が幕府を倒し、現実主義者が明治を造ったのです。





3.近代は現実主義者の世界



当時の国際社会は、強国が弱小国を力で屈服させ支配するのが「常識」の世界でした。力が全てで、力がなければ国家の独立すら保てません。容易に理想が通じる世界ではありませんでした。そのような世界を生き延びることは、維新を成し遂げた理想主義者たちにはできなかったかも知れません。これは、近代日本の歩みを考える時の最大の難問です。





新政府で力を得たのは、大久保利通や伊藤博文、山県有朋のような現実主義者たちで、当時の世界を生き抜くのに最適の人物たちでした。彼らは、誕生したばかりの新政府の生き残りと、厳しい世界での日本国家の生き残りのために、専制的な権力を振るい、大胆に近代化を推し進めたのです。
                            (永田)


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