宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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なぜ、明治政府はキリスト教を容認したか?

1.まさに、西洋キリスト教国家群の圧力


日本が、西洋中心の国際社会に参加する画期的契機となったのが、明治4年(1871)の「岩倉遣欧使節」です。この使節は、不平等条約を改正させることが主目的でしたが、それにはほとんど役に立ちませんでした。新政府の重鎮である岩倉具視や大久保利通、木戸孝允、伊藤博文をはじめ、官僚など総勢108人(留学生50人)が、1年10カ月のあいだ、欧米の発展状況と近代的制度を見聞し、日本の進む道、すなわち、国家近代化ビジョンの大枠を学んで来たということに歴史的意義があったのです。





遣欧使節が行なったことで最も重要なことは、欧米諸国からキリスト教を禁じている政策を非難され、江戸時代から続いた禁令を解き、キリスト教を公認したことです。明治政府は、王政復古の直後、あらたにキリスト教禁止の高札を掲げましたが、これが欧米諸国に通用しないことを知りませんでした。





日本にとってキリスト教禁令を解くことは、鎖国をやめ開国することより難しく、重い意味を持つものでした。秀吉も家康も、キリスト教を禁じた後も、外国との貿易は奨励しました。そもそも、鎖国は家康の意思に反するものだったのです。そのような背景があるため、幕府は開国を早期に決定できたのです。





しかしキリスト教は違います。当時の日本では、キリスト教を邪教とする観念が定着し、新政府の人々の思想もキリスト教を敵視するもので、徳川時代の禁令を、祖法として当然のごとく踏襲しました。遣欧使節を率いた人物たちも「切支丹禁令」を解くなどということは絶対にやりたくないことでしたが、欧米の圧力に直面し、訪欧中に禁令解除を決定したのです。





2.ビスマルクの「血と鉄」思想に感動



彼らはまた、欧米諸国の文明の力を認識し、日本は早急に西洋文明を取り入れ、富国強兵を実現しなければならないと実感しました。フランスを破り、統一を遂げたばかりのドイツでは、帝国宰相ビスマルクから「国際社会では、国際法や国際信義などは強国の前では無力で、力がものをいう世界では、弱小国はまず国力を養わなければならない」という主旨の熱弁を聞き、感銘を受けました。日本は「鉄と血」、すなわち工業力と軍事力によってドイツ統一を成し遂げたビスマルクの思想を、国家近代化の指針としたのです。





3.宗教受容と、「帝国の圧力」と「国家の生存戦力」



使節は、西洋の力と国際政治の厳しさを身に染みて知り、欧米諸国からキリスト教公認の圧力を受けたとき、拒絶することはできませんでした。禁令維持は、欧米中心の国際社会と軋轢を生じ、日本の孤立をもたらし、その損失は計り知れないからです。それは、歴史的に多くの国々が帝国の影響下で、帝国の宗教と文明を受容したのとおなじ状況下での選択でした。日本は初めて、ヨーロッパという「帝国」の直接的圧力を受け、自分たちが強固に守り続けた信条を曲げてまで、「帝国の宗教」を認める決定をしたのです。





国家の意思決定権をもつ集団が、渡航中に外国の圧力を受け、その外国の宗教、しかも自国が200年以上にわたり厳に禁じていた宗教を、渡航中に公認したのです。この事実は、国家が世界宗教を受容するのに、帝国の影響力と、受容する国家の生存戦略という、政治、外交問題がどれほど大きく影響するかを教えます。明治政府のキリスト教公認は、本書が先に示した「世界宗教はそれを受容した帝国の影響力が及ぶところでは順調に伝播した」という仮説が、完璧に適用できる出来事なのです。





またこの選択は、帝国の文明と宗教を受容することによって、周辺国との競争に優位に立とうとする、多くの国が選択してきた国家戦略と基本的に同じもので、これがまさに「明治脱亜」の背景です。





4.司馬遼太郎・「日本人は初めて〈国家〉というものを持った」
 


司馬遼太郎氏は、明治に初めて日本人は「日本国家」という意識をもち「日本国民」という自覚をもったと言っています。日本は厳しい国際環境に晒されるようになった反面、他国との関係から自国を意識する「普通の国家」となり、世界と、より密接な文明の交流と国際政治上の関係を持つようになりました。明治が新鮮な大転換の時代であったのは、単に鎖国を解いたというだけでなく、この国が有史以来始めて迎える「さなぎが蝶になるような」大変革の時代だったからだと思います。





近代日本は、ヨーロッパ文明を大胆に受容し、アジアに対する認識を変え、国家戦略をアジア諸国に対し優位に立つことに転換しました。列強諸国が大挙アジアに進出している情勢のもと、西洋的近代国家をめざす日本の指導者は、伝統的なアジア認識と態度を放棄したのです。





5.力を養わない国家に独立はない



中国や朝鮮王朝は、西洋列強の力を認識できず、彼らの考え方も理解できませんでした。西洋的国際政治の核心は「力」です。前出のビスマルクの言葉は、「力を養わない国家に独立はない」という意味でもあります。国際法や国際信義は強国同士で通じるもので、弱小国には適用されません。それが当時の国際政治でした。日本はそれをはっきり認識しましたが、中国と朝鮮王朝の士大夫たちにとっては、そのような考え方こそ儒教の王道政治に反する覇道であり、絶対に容認できないものだったのです。





勝海舟のようにアジア重視を主張する人物もいましたが、指導層の意識と外交政策は、アジアと同等の立場で友好を図るより、優越した国になることを目指し、朝鮮半島と台湾に勢力圏の拡大を始めました。これは国家戦略に、「脱亜」を選択したことで、その基本構造は戦国脱亜と同じです。

                    (永田)



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