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脱亜論と国家戦略 -亜細亜東方の悪友を謝絶する-

1.脱亜論以前に脱亜的外交を実行


明治日本外交の背景となる思想は、福沢諭吉の「脱亜論」に表現されています。福沢は日本が中国、朝鮮と友好を保つことは、全く得るところがない上、西洋人から日本が両国と同類視されることになり外交上の弊害があるとし、「西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と断じました。




脱亜論は福沢が時代を先取りしたものではありません。脱亜論が発表されたのは江華島事件の10年後なのです。福沢が言う「正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」という行動は、すでに明治政府が実行していたことです。脱亜論とは、明治政府の国家戦略を、「脱亜入欧」という視点から正当化する論理と言えます。





2.脱亜入欧は、日本に力と富を与えた



明治維新と日本の近代化については「断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したのみならず、亜細亜全州の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字にあるのみなり」と、固陋な徳川幕府を倒し、国民がみな西洋文明を受容することになった明治維新は、アジアで唯一日本のみが成し得た快挙で、その主旨は「脱亜」であると意義づけたのです。





近代化を成功させた日本は、日清、日露戦争に勝利し、アジアで抜きん出た軍事、経済強国に発展し、世界列強の仲間入りを果します。脱亜は日本に力と富をもたらしたのです。





3.脱亜とアジア主義のはざまで放浪した日本



脱亜の問題点は、西洋国際政治で重んじられた、「力の論理」をアジアで用いたことです。日本は、台湾、韓国、満州、そして中国へと勢力圏を拡大しました。脱亜的国家戦略の展開とともに、一方で、アジア主義という思想も発展してゆきます。これは、アジア諸国が団結し、欧米列強の植民地支配から脱し、独立を達成し、アジアをアジア人の手に取り戻すという思想です。





日本国民は、しっかり脱亜的発想をもちながら、それと相反する、アジア主義も提唱しはじめました。そして、アジアが大同団結する大東亜共栄圏形成をめざす国家戦略を設定し、第二次大戦を戦いました。





しかし、「脱亜」と「アジア主義」は両立しない概念です。それは、「脱亜」でもなく「アジア主義」でもないという、自己矛盾した中途半端な国家戦略でした。考えてみれば、私たちが生きる21世紀もおなじです。親アジア的感情と反アジア的感情、また、親米と反米も錯綜しています。アジアと西洋のはざまで揺れ動くという、日本が背負う文明的宿命です。






日本は、大東亜戦争という、戦場が広範囲に及び、自他に甚大な被害を及ぼした戦争を行いました。戦後、私たちは、この戦争がアジア諸国に対する侵略であったと教えられてきました。しかし、日本は、フィリピンでも、シンガポールでも、インドネシアでも、アジア人の政府や国民と戦ったわけではありません。アジアを植民地支配していた、アメリカ、イギリス、オランダの軍隊と戦ったのです。すなわち、「脱亜入欧」の先生たちと戦ったのです。





日本軍は、初戦においてめざましい勝利をおさめ、同地域から西洋の支配勢力を排除しました。勝利の女神は微笑まず、日本は戦争に敗れましたが、戦後は、結局、アジア諸国は全て、独立を達成できたのです。アジア独立の決定的契機は、日本軍が西洋植民地軍を破って駆逐した事実です。これが、西洋による植民地システムを根底から揺さぶったのです。この歴史の真実をしっかり認識すべきです。





20世紀の世界は、露骨な「力の論理」が支配し、途方もない力と力がぶつかり合う時代となり、島嶼独立国家・日本が、かつて経験したことのない大破局に追い込まれました。人類は、2度におよぶ世界大戦による犠牲の甚大さと、1945年の核兵器開発で、力の国際政治の行き着くところは、敵も自分も亡びる、勝者の存在しない世界だと気づくようになります。  
                        (永田)




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