宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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銃と平和2 -衝撃的な映像と銃の意義-

1.ふたつの犯罪ケースと銃による正当防衛



銃について論じるとき、まず考えるべきは、観念ではなく、すぐれて現実の問題であるということです。それも、人々に大きな悲劇をもたらす、犯罪という現実に対処することです。そのため、最近、アメリカで起こった犯罪の映像を分析します。これは銃をめぐる様々な事柄を示唆しています。事件は、銃に無縁な日本人には衝撃的なものでしょう。






〈A〉夜間に、女性が車から降りたとき、後ろから車が追ってきて、女性の車の前に止め、男が降りました。男はツカツカと女性に近づき、女性は脅威を感じました。明らかに、女性に暴力を加える状況で、レイプ目的であることも察しがつきます。しかし、女性は小型の銃を携帯していました。銃を抜き、男の腹部を撃ち、男は倒れました。





〈B〉スクールバスから子供たちが降り、お母さんたちが迎えています。そこへ、突然、銃をかまえた男が近づきました。しかし、お母さんのなかに、銃を携帯している人がいて、発砲し、男は倒れました。





上の二つの映像で言えることを挙げましょう。


① まず、女性の行動を責めることはできません。明確に正当防衛です。


② 襲われそうになったのが女性や子供という弱者であり、銃が無ければ、深刻な危害を加えられた公算が高く、殺された可能性もあります。



③〈A〉の場合も〈B〉も、腕力やナイフでは防ぎようもなく、銃でなければ自己防衛は不可能でした。



④〈B〉の場合は、銃をもった者が1人であり、大勢の人間がいる場合は、死角が生じ、その中の1人が、銃で反撃することは容易です。





〈A〉は、腕力に自信がある男が、脆弱と想定する女性を狙っています。婦女暴行、ストーカー殺人、また、トラブルなどで、乱暴な者が暴力をふるう状況と類似します。悪質なあおり運転後の暴力もあげられるでしょう。






〈B〉は、不特定多数を狙った犯行です。秋葉原通り魔事件、また、熊谷連続殺人事件などが類似しています。また、19人が殺害された相模原障害者施設殺傷事件などもあげられます。






ふたつの事件に共通するのは、加害者が、襲おうとする対象が無防備であると想定していることです。アメリカは銃の所持が認められています。しかし、一般の人が常時携帯することは少ないのです。






日本でも、「ムシャクシャするからやった。誰でもよかった」などという理由で、不特定多数の通行人がナイフで襲われる通り魔事件が起きます。しかし、もしその中に小型の銃を携帯している人がいたら、ナイフに対抗できます。犯人が銃をもっていても、大勢の方が有利です。市民の中に、銃を携帯する人がいたら、不特定多数を狙った犯行は初めから実行されなくなるのではないでしょうか。銃は犯罪を未然に防ぐ契機となり、犯罪抑止力をもちます。それについて考えてみたいと思います。





2.犯罪者は「力の信奉者」



暴力犯罪の動機で言えることは、加害者は、必ず、自分と襲おうとする相手の「力関係」を測っていることです。自分より弱い人を狙うのです。それは犯行が成功し、かつ、自分が無傷であるという都合のいい結果を望むからです。その意味で、犯罪者は徹底した「力の信奉者」です。よく考えると、すべての犯罪も同じです。あらゆる詐欺、サイバー犯罪なども、知力、判断力の問題で、その弱者を狙うのです。犯罪の核心はそこにあります。卑劣な犯罪者に犯罪を決行させる基本的条件は「力」なのです。特に、暴力犯罪は、力の差が前提になります。


   





社会における、強者と弱者の、力の差そのものが社会の問題であり、犯罪を誘発します。ですから、善良な市民が、加害者に対抗できる力を持つならば、犯行が成功する可能性を低くし、自分も無傷でいられる保証はなくなります。襲おうとする対象が、銃をもつ場合、悪意をもつ加害者は、犯行を躊躇するでしょう。すなわち、市民の銃所有は、社会に弱者をなくすことになります。銃によって、市民間には、力においての平等が達成され、犯罪を犯せない状態をつくり出します。






近年、日本では、過去のように、暴力団同士の抗争事件が拡大しません。それは、暴力団対策法により、暴力団に対する取り締まりが強化され、彼らが過激な抗争を行ったら、共倒れになることが目に見えているからです。暴力団員はケンカが強い腕力の強者です。しかしまた彼らは、力の信奉者であり、少しでも下手に動けば、暴力団よりもはるかに強力な国家権力により、自分たちが壊滅させられることがよく理解できます。ですから、彼らは力を行使せず大人しくせざる得ないのです。






3.国家の安全も「力」が左右



それは、面白いことに、国家の安全保障にもピッタリ一致します。国際政治の基本は「力」です。パワーゲーム、バランス・オブ・パワーの世界です。ある地域に、少しでも力の空白が生じれば、強国がその空白を埋めることになります。特に、核の時代の国際政治には当てはまります。核がない時代は、大国同士が戦争をしました。しかし、核兵器をもつようになり、核保有国同士が戦えば、共倒れになることが目に見えるので、戦争を行えなくなりました。核は強大な権力なのです。





ですから、冷戦時代、核保有国である米・ソは直接戦えないので、力の空白地帯になった、朝鮮半島やベトナムで、悲惨な代理戦争がおきました。今でも、核を持たない国、また明確な国策をもたない国は、常に侵略される恐れがあります。今日、韓国はアメリカの同盟国でありながら、共産主義者で構成される文在寅政権は、北朝鮮と中国に近づき、米韓同盟は消滅しようとしています。今や、韓国は共産主義の侵略の前に、危険な国になりました。反対に、共産主義を批判し、自由主義諸国との関係を強化している台湾は、むしろ、安全になりました。






中国が侵略の手を広げている今日、諸国は、自国を守るためには、確固たる自己防衛の精神をもち、自由主義諸国としっかり連帯し、防衛力を強化する必要があります。その意味で、自己防衛の権利を放棄している、非現実的な憲法9条は一刻も早く改正しなければなりません。自民党の高村正彦氏は、分かり易い譬えで、「私には悪さをしようと思う者はいるが、白鵬関には悪さをしようと思わないでしょう」と語っていました。悪意ある狡猾な者は、痩身で高齢な高村氏には暴力を振るいますが、強靭な白鵬関には暴力を振いません。






これは、国際政治の現実を言い当てています。どんなに侵略的な国家でも、弱い国は攻撃しますが、強い国を攻撃することはないのです。実際、中国や北朝鮮は、核をもたず、弱みを持つ国に対しては、核の威嚇、尖閣諸島や南シナ海など、平気で愚弄し挑発行為を行いますが、アメリカに対しては丁寧です。






銃は、社会の犯罪において抑止力になり、市民が銃を正しく管理し、治安に役立てているような国は、国防においても正しい方針を持ち、強力な国になります。日本においては、市民の銃所持を許可するか否かを論じる前に、まず、有事に備え、銃に対する認識、知識をもつべきです。日本人にとって「銃」は、恐ろしいものという先入観が強いものです。なぜなら、日本は世界で、例外的に、きわめて安全で、平和な国だからです。しかし、世界は危険に満ち、日本の常識で世界を計ることはできません。次は、日本と世界の安全度と犯罪の現実を考えてみたいと思います。  (永田)