宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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戦国「神の国」と、徳川「修身斉家治国平天下」 ー激変した日本人の思想ー


中国歴代王朝、朝鮮王朝における孔子の権威は凄まじい

(中国歴代王朝、朝鮮王朝での孔子は計り知れない至高の存在であった)



1.戦国末期・徳川初期は、思想の大改革期



『聖書』「まず、神の国と神の義を求めよ」




『大学』 ー修身斉家治国平天下ー


(我が身を正しく修めれば家庭は和し、家庭が和せば国は良く治まる、そして国が良く治まれば天下は安定するものである) 



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信長の許可を得、京都にキリスト教会である南蛮寺が建てられたのが1576年、綱吉が江戸に孔子を祀る湯島聖堂を建てたのが1690年です。日本は、近世初期の100年ほどのあいだに、西洋の支配的宗教であるキリスト教を導入し、東アジアの伝統的宗教である儒教を本格的に奨励しました。この時期は、日本史における、思想、宗教の大変革期だったのです。





戦国末期、日本はヨーロッパ文明受容により権力者のアジア観に変化をもたらし、脱亜を選択しましたが、徳川幕府が開かれると国家戦略を旋回させ、入亜へと舵を切りました。家康は、対外拡張の道を放棄し、明と朝鮮王朝との修好を目指します。明はその呼びかけを無視し、明から清に王朝が替わっても国交は開かれず、「元禄入亜」は儒教の宗主国である中華帝国と断絶状態のなかで行われました。日本は朝鮮王朝との外交関係を重視し、アジアとの結び付きを持ったのです。





 2.問題は人々の意識



問題は人々の意識であり価値観でした。当時の東アジアの思想は儒教が主流で、明や清、朝鮮王朝では、国家体制、政治の在り方、教育、人々の価値観や生活習慣まで儒教の及ぼす影響は絶大でした。五代将軍、徳川綱吉は、この東アジアで尊重されていた儒教を強力に奨励したのです。彼の奨励政策は徹底し、最高権力者である綱吉自身が、儒教を頻繁に講義するという世界でも類を見ない宗教奨励策を展開したのです。多彩な文化の開花期であった元禄は、同時に「儒教の時代」でもありました。元禄入亜とは、価値観におけるアジア回帰を成した変革だったのです。





元禄入亜には難題が立ちはだかっていました。儒教思想と、サムライの価値観や武家支配の幕藩体制は矛盾するものだったのです。儒教の理想は君主が仁政を行ない国民に徳を施す政治の実現で、儒者は君主に、仁の道を教え政治を補佐する使命をもちます。そのため国家の指導階層は「儒者」でなければならず、その統治理想を制度化したものが科挙制度です。





サムライとは、軍権を放棄した「文」の王権である天皇の下で、国内の覇権を獲得し維持するために、「武」に特化された日本の実質的統治者でした。ながくこの国を武力で統治したサムライは、「武」を神聖視する独特の価値意識を形成しました。それが平和な時代にも戦いを忘れない、「弓馬の道」に励む伝統です。






 3.文と武の葛藤



この「武」を優先する価値観と「文」優位の儒教の価値観は葛藤せざるを得ません。儒教国家では「文」の思想である儒教は絶対的権威をもち、文臣は武臣に対して絶対上位に位置し、往々にして武人は蔑視されました。中国には「よい鉄は釘にしない、よい人間は軍人にならない」という諺があるほど「武」というものは忌避されたのです。この儒教の価値観から見ると、武人の政権である徳川幕府などは到底許容できないものでした。この矛盾のため家康は、儒教を全面的には受容しなかったのだと推測されます。家康が儒教を大いに奨励したと考えられてきましたが、事実は、儒教と儒学者を狭い枠にはめ、曖昧な状態に留め、積極的な奨励はしませんでした。





綱吉はこれらの難題を乗り越えます。彼の徹底した儒教奨励策は、家康以来の政策を転換させ、儒教思想と武家政権の思想上の矛盾を乗り越え、儒教を徳川幕府の「統治理念」としました。これは日本における思想の大改革であり、家康から始まった入亜の完成を意味し、戦国脱亜によって変貌した島嶼平和国家の本来の在り方を取り戻すものでした。





6世紀の仏教受容が神道の圧迫につながらなかったように、綱吉も仏教を圧迫せず、仏教も儒教に劣らず奨励しました。綱吉の宗教政策は儒・仏奨励と言えるもので、中国発祥の儒教とインド発祥の仏教、すなわちアジアの世界宗教を分け隔てず奨励したのです。しかも30年という長期にわたって一貫して奨励し、儒・仏の感化力によって戦国期から漂流を続けた人々の価値観を安定へと導いたのです。





 4.日本人が明確にしなければならない歴史的事実



現代に目を向ければ、私達が考えなければならないことがあります。中国人に儒教の発展を尋ねたら、漢の武帝代に国教となったと即座に答えるでしょう。韓国人は朝鮮王朝の初代王である李成桂によって儒教が立国の理念となったと明確な答えが返ってきます。しかし日本では、いつの時代に、どんな権力者によって儒教が大きな発展を遂げたのか明確な認識がありません。




日本の儒教は、江戸・元禄時代、徳川綱吉の奨励政策の結果、近世日本の統治理念になったのです。綱吉がどんなに嫌われていてもこれが答えです。日本史上、儒教を最も強力に奨励した人物とその政策について考えることは、私達の精神遍歴の重要な部分を知ることであり、日本の在り方を外に発信する時に必要な歴史認識であると思います。 (永田)



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