宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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〈編Ⅲ〉『鉄のつえの王国』・ダイジェスト (3)

この〈編Ⅲ〉は『鉄のつえの王国』の核心部分になるでしょう。アメリカ国民は、憲法で認められた権利として、全世界の銃の半分に及ぶ、2億5千万丁もの銃を所有しています。国民が銃をどの様な心と理念で管理し扱うか、それによってアメリカ社会の平和と安全が左右させると言っても過言ではありません。〈編Ⅲ〉では、人間が、銃という強力な武器をもつとき、資格として、不可欠な精神、心構えを説きます。





1.ポイマイノの統治



先に述べたように、ギリシャ語のポイマイノ(支配する)は、聖書の黙示録、鉄のつえの一節にある、キリストの支配を指す単語です。鉄のつえの支配は、神が人間を真実の愛をもって保護するポイマイノの支配です。ポイマイノとは文字通り、独裁者ではなく、良き羊飼いとして行動することを意味します。良き羊飼いは、羊の群れを集め、世話をし、守り、導きます。良き羊飼いは、自分の羊を恐怖に怯えさせたくありません。ですから、彼はつえを使って羊たちを危害や危険から守ります。それはすなわち、詩編23章の「あなたのむちと、あなたのつえは私を慰めます」という安心の境地なのです。






ポイマイノの支配は、公正で慈悲深い神を中心とする、思いやりのある支配です。自分の群れを知る万王の王・イエスは、不変の王国の良き羊飼いなのです。聖書は、「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない」(へブル13:8)と言っています。神様とキリストは、永遠に、悪の勢力が神の子たちを破壊できないように、子供たちが強くなることを望まれ、見守り、守護する父なのです。





世の悪を克服するには、正義を守ることを貫く不屈の人々、善良で道徳的な人々が現れなければなりません。そして鉄のつえは、キリストの追随者に対し、暴君に対し「NО」といえる力を与えるのです。歴史的に、国民は、中央政府、貴族、そして超法規的なエリート階層によって支配され、重税を徴収されるという、苦しい歩みがありました。





しかし、過去の君主制とは異なり、神の王国は逆転した王国です。その政治制度は根本的に異なります。神の王国では、かつて「貧しき人々」であり、奴隷だった人々が、キリストの王国の権威と力を受け継いで、彼とともに共同支配するのです(マタイ5章参照)。キリストは決して全体主義者として独裁的支配をするのではありません。キリストが王として君臨すると同時に、私たち一人一人は王国の共同相続人になるのです。






2.道徳は最高の安全保障



イエスは時代を超越した智慧で、主権をもつ武装した人々の王国にとって必要な精神を教えました。それは、謙遜、思いやり、慈悲、純粋さ、正義などです。これらは神の王国の美徳です。天国は、キリスト教の枠組みのなかで鉄のつえを利用するのです。鉄のつえは、キリスト教を待ち望む道徳的な市民によって、王国を正しく維持するために存在します。チャールズ・キャロルなどのアメリカ建国の父はこのことを理解していました。





道徳がなければ、共和国は存続することはできません。キリスト教道徳は非常に崇高で純粋なのです。キリスト教を非難する人々は、自由な政府の、最高の安全保障である道徳という強固な基盤を損なっています。





鉄のつえは、王国の市民が力を通して平和を維持することを可能にします。キリストの共同相続人は、自制心をもつ強さをそなえ寛大な、王国の保護者になります。武器を所持する人は、高いレベルの規律と警戒心を維持しなければなりません。市民は鉄のつえを持つとき途方もない力を持っているので、自分自身を抑制する方法を学ぶことが不可欠です。弾丸がひとたび発射されると取り返しがつかないからです。






責任あるすべての親は、自分の命を危険にさらすことで自分の子供を保護するという本能をもっています。神の王国は、私たちが隣人の「守り人」になるという精神文化なのです。鉄のつえは、身長の低い人、年齢が高い人、または障害をもつ人にとって、威信ある主権を維持するための最も効果的な方法です。鉄のつえ文化の基本原則は、神を愛し、隣人を愛することです。






3.王国市民の安全のためNОといえる力



武装した市民は、悪人や暴君、悪の勢力によって力を得た者たちに「NО」という力をもっています。武装した市民だけが「NО!私を支配したり、殺したり、奴隷にしたり、レイプしたり、私や同胞に悪を行ったりすることはできない。あなたが私に致命的な力を行使しようとするなら、私は自分自身と私の愛する人々、または私の王国を守るために、致命的な力であなたに対応する」と言うことができます。






神の家族の一部として、そしてキリストの主権を分かち合うという意味で、神の王国の市民は誇りをもって王冠を被ります。私たちの忠誠心は、「キリストの神」に対するものであり、「国家の神」に対するものではありません。これが、イエスが「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分が持っているものを堅く守っていなさい」と言った理由です(黙示録3.11)。私たちは王冠を被ることで、すべての神を否定する暴君に反対し、神の王国の市民として屹立できるのです。






18世紀のアメリカの反逆精神には、植民地人はただ一人の君主であるキリストにのみ仕えるという信念に満たされていました。イギリス政府に任命された知事はこう述べています。「アメリカ人に〈あなたの主人は誰ですか〉と聞いたら、彼は〈イエス・キリスト以外に誰もいない、知事もいない〉と言うだろう」





また、イギリス軍のピトケアン少佐がミニットマン連隊の隊員に対し、「解散せよ、この悪党ども、主権者にしてイングランド国王ジョージの名の下にお前たちの武器を置け」と叫んだとき、ジョナス・クラーク牧師は断乎として、こう答えました。「我々は神の他に主権なく、イエスの他に王がないことを認める!」






アメリカはその神聖な根幹から外れてしまいましたが、神はこの特別な国を手放しませんでした。アメリカ人が今も武装する権利を持っているのは、アメリカ革命が崇高な価値を中心にしていたからです。私たちが何かを使用するとき、その目的こそが、神と悪魔のどちらがそれに対して力を持つかを決定するのです。武器は力であり、戦力を倍増させるものです。専制政治からの解放や自由の保護など、義にかなった目的で銃を使用する場合、神はそれらに対し権威をもつのです。






聖書の詩編2章8節で、キリストが地の果てまでも嗣業として私たちに与えて下さるのは、決して、私たちがエゴイストになって良いというのではありません。キリストに代わって責任ある管理を行って良いということなのです。






神の子として、私たちは鉄のつえを偶像化するのではなく、正しく管理することを求められています。神から与えられた王冠と鉄のつえ、これらの装具には感謝しますが、私たちはそれらを崇拝しません。私たちは神を崇拝し、そして神が私たちに与えられた主権と権威に感謝しています。