宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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銃と平和 -世界の安全のために- 〈1〉

はじめに -日本人は「銃」について考える必要はないのか?




本稿は、日本において、「銃」というものを考える契機にしていただくことを目指します。現代の日本で、「銃」を考えるなどという提案は、おおくの人にとって、腑に落ちない、突拍子のないものでしょう。「コトダマ」を感じとる日本人の感性では、空恐ろしい「銃」などについて論じることは、それだけでも不吉で、とんでもない不幸を招くと忌避するかもしれません。戦争そのものを怖れるあまり、戦争の戦略や戦術について論じたくない心理と同様です。銃は、極一部の戦争マニアの趣味で、本物に至っては、猟師や警察官がひっそり持つものというのが、一般的日本人の通念でしょう。





しかし、果たしてそれでよいのでしょうか。スイスは、民間防衛の意識が徹底しています。この国では、国民が軍事訓練をうけ、有事に備え、小銃を家においてしっかり管理することが義務づけられています。この精神と国柄をナチス・ドイツは恐れ、侵略を断念しました。今日のスイスは、民主主義陣営を守るNATOの城壁に守られ、大変安全な国です。しかし、国防において、少しも警戒を怠らず、伝統的な自己防衛の政策を変えようとしません。





今、日本は、スイスよりはるかに危険な国際環境におかれています。北朝鮮は、核兵器を保有し、ミサイルを急速に進歩させています。核をもつアメリカと北朝鮮の両国は、戦争の危機をはらんでいます。軍事大国・中国は、アジア・世界に勢力圏を広げ、日本の領土を侵略しようとしています。





北朝鮮の脅威は、弾道ミサイルだけではありません。20万人におよぶ特殊部隊も恐るべき存在です。一旦有事の際には、日本の国内に侵入し破壊活動を行います。彼らの主要な武器は、もちろん、「銃」です。しかし私たちは、銃に対する備えが全くありません。銃の攻撃を受けたら、直ちに身を伏せるという基本動作すら知りません。ぼう然と立ちすくみ、恰好の標的になるしかありません。私たちはこのように、銃に対する必要最小限の認識もなく、有事において、初めて直面した銃への恐怖のあまり、極度のパニックに陥り、有効な対処はできなくなります。





16世紀、ポルトガルがアジアに進出してきたとき、銃の一斉射撃をして威嚇するだけで、現地人は銃声の大音響に驚愕し、容易に征服できたという歴史がありますが、私たちも似た状態に陥るでしょう。





昨年、令和の元年に、世界は本格的な冷戦に突入した感があります。米中貿易戦争がつづき、11月にアメリカにおいて、「香港人権・民主主義法案」が成立し、次は、ウイグル、チベットに対する同様の法案が成立する情勢です。これにより中国共産独裁体制は許さないというアメリカの意思が明確に示されました。また、9月には、EUにおいて、全体主義(共産主義)は許さないという決議がなされました。まさに世界は、自由民主主義と共産全体主義が、ふたたび価値観を中心に、冷たい戦争を繰り広げる時代に戻ったのです。





共産全体主義者は徹底した「力の信奉者」で、世界の覇権を狙い、着々と勢力圏の拡大を謀っています。強力な敵であるアメリカが障碍になるときには、統一戦線工作をおこない、敵陣営の弱いほころびを狙い、平和攻勢を仕かけ、民主諸国を分断します。一方、平和攻勢と力の威嚇を使い分け、周辺国を従属させます。今や、韓国やアセアンの多くの国々は、中国に経済的に依存し、理不尽な要求をされてもNOと言えない状態になりました。台湾に対しては、国民党を抱き込み、実質的な支配を進めています。尖閣諸島で挑発行為を繰り返し、沖縄も狙っています。もし、台湾が中国の勢力圏に組み込まれれば、日本は中国に石油輸入ルートという生命線を握られ、中国共産党に服従するしないのです。





新冷戦は、米ソ冷戦とちがいます。先の冷戦は、アメリカとソ連が大きな負担をになって、自分の陣営を防衛しました。しかし、トランプ大統領は、同盟国に対し、応分の努力と負担をしなければ、防衛の責任は負わないというスタンスです。各国が、自国防衛の努力を求められる体制に変わりつつあります。





すなわち、共産全体主義から、日本の自由と民主主義を守るのは、私たち自身の力という時代が到来したのです。スイスはそのような時代にふさわしい自己防衛の思想をつちかってきました。スイス政府が発行する『民間防衛』には、次のような記述があります。





自由と独立は、われわれの財産の中で最も尊いものである。自由と独立は、断じて、与えられるものではない。自由と独立は、絶えず守らねばならない権利であり、ことばや抗議だけでは決して守り得ないものである。手に武器を持って要求して、初めて得られるものである。(P.13)




21世紀の国際社会は、各国に自己防衛の努力が要求されるのです。日本人は、このスイス人の精神を学ばなければなりません。自己防衛の基本として、「銃」の知識と、それへの対応が求められます。また長期的視点として、国の安全保障とともに、市民の安全のための銃は、果たして、日本で意味はないのか、論じることも必要ではないでしょうか。以上のような、銃をめぐる諸問題について、多角度から考えてみたいと思います。