宗教&インテリジェンス(旧harmonyのブログ)

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「元禄」は宗教からはじまった!

1.日本中枢の元禄は、儒・仏奨励から始まる


綱吉は、儒教と仏教の本格的奨励を元禄元年から開始し、「元禄」は、儒・仏にとって特別な意味をもつ時代でした。徳川将軍が、寺院を訪問したり、僧侶の法門を聞くなどは極めて異例なことでした。元禄1年から3年までの、綱吉の主な儒・仏関連行動を見てみましょう。


元禄1年(1688) 9月 3日 山王社を参詣する。        仏教
12月18日 知足院を参詣し、法問を聞く。           仏教

11月21日 林家の孔子廟を始めて参詣する。          儒教



元禄2年(1989) 閏1月25日 山王社を参詣する。  仏教
閏1月25日 知足院を訪問し、法問を聞く。           仏教
2月21日 再び林家の孔子廟を参詣する。               儒教
12月 3日 寛永寺を始めて訪問し、法門を聞く。      仏教



元禄3年(1690) 2月10日 山王社を参詣する。    仏教
2月18日 知足院を参詣し、法門を聞く。             仏教
3月21日 林家孔子廟に三回目の参詣をする。         儒教
7月9日 湯島聖堂建設を明らかにする。                 儒教
8月21日 自ら『大学』を講じ、諸老臣が聴講する。   儒教
9月21日 諸役人に儒教学習に励む事を命じる。     儒教
12月1日 日光門跡から経典講義を聞く。        仏教




時代が元禄になるとともに、綱吉は寺院参詣と林家の孔子廟参詣を開始しました。この3年間は、孔子廟である湯島聖堂建立のための準備期間で、聖堂完成の翌年から、儒・仏奨励は堰を切ったように積極的になります。儒教政策の核心事業が行なわれた時期に、仏教奨励も本格化し、その後も、儒・仏奨励はおなじテンポで進み、両者を並行的に奨励するという綱吉の意図が見て取れます。




2.徳川幕府に儒・仏の魂が入った


綱吉以前の将軍達は、家康をのぞき、仏教を篤く信じる人物はいませんでした。宗教心がない一方で、キリシタン禁圧に仏教を利用する宗教政策は、まさに「仏つくって魂いれず」といえました。将軍は、歴代将軍の月命日に霊廟を参詣し、仏式の法要を行なうことになっていましたが、実際はほとんど幕臣が代参しました。将軍と仏教との関係は、このような務め以外は、稀に大寺院の住職を接見するぐらいのもので、寺院を参詣したり、僧侶の法話を聞くこともありませんでした。





綱吉の仏教に対する姿勢は、儒教に劣らず真摯なものでした。仏教界に対して絶大な権威と権限を有する将軍が、おおくの僧侶を集め、法問の場を主催し、僧侶の問答を熱心に聴講したのです。これは、法問を通じて仏教界の活性化を促進するもので、事実上、仏教に対する奨励策といえるものでした。徳川幕府は仏教を統治に利用したという認識が強いのですが、将軍が仏教を心から尊崇し支援したならば、両者の関係はより自然で相互的なものになります。





この時代、天台宗僧侶円空(1632-1695)、は何万もの仏像を刻み、人々はそれに手を合わせ拝みました。綱吉も同じように、一人の仏教信者として僧の話を聞き、仏に手を合わせたのです。将軍である綱吉の仏教信仰は、幕府の仏教政策を、政治的意図を越えた為政者の純粋な信仰的動機を持つものに転換させたのです。





3.綱吉の儒・仏尊重はすべての武士に投影


綱吉は、個人的にも僧侶と語らうことを好み、江戸城に招き、儒教を講義し、法問を聞き、あるいは食を饗し、ともに能を鑑賞し、自身が舞う能を見せました。綱吉代になり、僧侶は儒教経典の受講者として、仏典の講師として、社交の相手として頻繁に江戸城に招かれるようになったのです。





将軍が絶大な権威をもつ体制では、将軍の行動を注視し、それに追随することが自身と集団の安泰をはかる術で、将軍の思想と行動は武士に必然的に投影されて行くものでした。綱吉の仏教奨励は、武士たちに、儒教とともに仏教をも尊重するよう促すことになったのです。





仏教奨励には、生母桂昌院が重要な役割を担いました。桂昌院は篤く仏教を信仰し、寺院を足繁く参詣し、僧侶の法話を聴きました。そもそも、綱吉が仏教を信仰するようになったのも彼女の影響と思われます。また、幕府の援助を請う寺院のために綱吉にとりなしました。従一位という破格の官位が授与されていた彼女の権威は極めて高く、桂昌院の活躍により仏教奨励は一層強化されたのです。   (永田)



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綱吉、皇室政策も「武断」から「親和」へ -大嘗祭を221年ぶりに復活-

 1.綱吉の徹底した皇室優遇政策


綱吉は、歴代徳川将軍のなかで最も朝廷を重んじた人物です。天和3年(1683)、東山天皇が皇太子位にのぼる際、幕府の援助によって336年ぶりに立太子の儀式を再興し、東山天皇即位にも、皇室の要請にこたえ援助し、221年ぶりの大嘗祭が執り行われました。これは、今年の11月におこなわれる今上天皇の大嘗祭につながるのです。



皇室の賀茂祭り等の祭礼再興、皇室とのつながりの深い寺院の造営などもおこなう一方、南北朝の動乱以降、荒廃していた歴代天皇陵を探索し、保全、保護するなど、皇室への支援を惜しみませんでした。これも、前政権の皇室政策を根本的に改革する措置でした。





2.朝廷にとって徳川幕府は恐怖の政権だった



幕府の朝廷政策は、禁中並公家諸法度の第一条に「天子御芸能の事、第一御学問也」と規定しているように「学問=文」のみに専念すべきであるとし、政治上の役割を禁じました。反対に、武士に対しては武家諸法度で「武」に専念することを強調したのです。





武士は「武」、朝廷は「文」と厳に分離することによって、朝廷が、「武」である権力の世界に影響を及ぼすことを遮断したのです。それは、朝廷からすれば、自分たちは丸裸の弱者で、幕府は凄まじい武威をまとう恐怖すべき存在になったことを意味します。





3.朝廷と幕府を結びつけた「儒教」



しかし、朝廷にとって綱吉は、儒教という「文」の価値観を共有する将軍でした。父の家光のように、露骨に武威を背景に臨んでくる将軍とは全く異なりました。江戸における、朝廷を代表する存在とも言える「日光門跡」、すなわち日光輪王寺宮は、綱吉の儒教経典講義を他に率先して聴講するなど、儒教奨励政策に協力し、とくに公弁法親王は綱吉との親交がたいへん厚かったのです。





「文」の思想である儒教は、幕府と朝廷が共有する価値となり、両者を融和させる媒体となりました。綱吉の朝廷を尊重する姿勢は後代にしっかり受け継がれ、幕末まで変わりませんでした。この綱吉の朝廷尊重政策の在り方が、後に大政奉還、明治維新を可能にする土壌を形成したのです。 (永田)



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「徳川の平和」と儒・仏信仰

1.パックス・トクガワーナ


綱吉の時代は、儒教と仏教の奨励が幕府の最重要政策でした。朝廷も、儒・仏尊重の王権で、綱吉の儒・仏信仰と朝廷を重視する政策は、朝廷、幕府、儒教、仏教、という、日本の、聖、俗界の核心勢力を、「文治的思想」で結びつけたのです。




この大きな輪が、「徳川の平和」をつくり、元禄入亜を成し遂げた母体です。この文治による連帯が行なったことは、戦国時代から引き継がれた悪弊である「戦国殺伐の風習」の克服でした。その思想的背景となった綱吉の宗教観を見てみましょう。




2.儒・仏は車の両輪・「観用教戒」


綱吉は、仏教界を支援し、その規模はむしろ儒教に対するよりも大きなものでした。今日に残る奈良の大仏殿や法隆寺なども、綱吉の支援により再建が成ったのです。儒仏奨励の背景には、綱吉の独特な宗教観があり、それは『常憲院殿御実紀』付録巻中に記載された「観用教戒」に示されています。




仏教と儒教は、慈悲をもっぱらとし、仁愛を追求し、善を勧め悪を懲らすもので、まことに車の両輪であり、その教えは人が篤く敬うべきものである。しかし、今の世は仏教を学ぶ者は教義にこだわり、主君を離れ、親を捨て、出家して世間を離れ、世の道徳は乱れている。また、儒教を学ぶ者も、教義にこだわり、禽獣を祭祀に捧げ、食し、万物の生命を損なうことを厭わない。そのため世の中は不仁で夷狄のようになり、まことに憂うべきである。儒仏を学ぶ者は教えの本質を見失ってはならない。




綱吉は、僧侶は出家せずに世のために尽くし、儒学者は、動物を祭祀に捧げることや食することをやめて、動物を愛護すべきと主張しています。彼の儒・仏観は、厳格で、理想主義的ですが、この言葉のなかに、綱吉の宗教政策の動機があらわれています。




綱吉にとって儒・仏は、「車の両輪」で、どちらが善く、悪くという二者択一の関係でも、どちらがより優れているかという優劣を問うものでもなく、同じ価値を持つものでした。社会を善導するという宗教本来の目的を重視し、ふたつの教えを分け隔てず奨励したのです。




綱吉はまた、「皆は儒教を何と心得る。古来の堯舜、禹湯、文武などという聖人はみな儒者である。今のごとく読書をもって業とする者のみを儒者というのは後世の事で、大きな誤りである。それは聖人の道を狭隘にすることである」と語りました。




3.綱吉の宗教観が私たちにもおよぶ


上の考えと、「観用教戒」を総合すると、綱吉は、儒教と仏教、また儒学者と一般人を区別せず、それらを区別する狭い考えを嫌ったことが分かります。このような寛大な思想が、儒・仏の並行的奨励、儒官がするべき儒教講義を自らが行なったこと、またその受講対象が公家、旗本、大名のみならず陪臣、僧侶、神主、山伏にまで及んだことの背景にあったのです。




徳川光圀(水戸黄門)は、儒教を尊重しましたが、多くの寺院を廃し、仏教を圧迫しました。明や朝鮮でも、儒教は仏教を排斥する傾向があり、それはひどいものでした。日本の儒学者も仏教を陰湿に批判しました。儒教を学んだ人物が、仏教もまた篤く信仰するというのは極めて稀なことだったのです。




この綱吉の儒・仏に対する融和的姿勢は、幕府の宗教政策に引き継がれ、日本における儒教と仏教の葛藤解消に貢献し、それは、現代においても、私たち日本人の寛容な宗教観にあらわれています。  (永田)



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暴れん坊将軍と犬将軍   -吉宗と綱吉のちがい-

1.吉宗は綱吉の儒教重視を継承


8代将軍吉宗は幕府中興の英主と称えられています。施策の大方針は「諸事権現様(家康)の御定め通り」で、家康の政治を模範とし、武芸を奨励するなど、政治に「武」を復興させました。




しかし、吉宗は綱吉の儒教奨励を踏襲し、武家諸法度の儒教主義も継承したのです。荻生徂徠や室鳩巣などの儒学者をブレーンとし、儒官林信充、信智兄弟を重用し、幕臣に儒官の講義を聴講することと、儒教学習を命じました。吉宗は、家康が決めた内容を大きく変革した綱吉の儒教政策を、「権現様の定め」に反するものとは見なかったのです。




2.家康は、文・武両面を強調 



吉宗がすんなり綱吉の儒教政策を継承できたのは、家康の統治思想が、「文」、「武」両面を強調する二面性を持つものだったからです。家康は、武将であるにもかかわらず、自らは人を殺したことはないと広言し、「馬上をもって天下を得ても、馬上をもって天下を治めることはできない」と言い、聖賢の教え(儒教)で政治をしなければならないと語り、儒教を幕府体制に導入しました。




一方「朝夕の煙立る事はかすかにても。馬具の具きらびやかにし。人も多くもたらむこそ。よき侍の覚悟なれ。― 随分武士は武士くさく味噌は味噌くさきがよし。武士は公家くさくても。出家くさくても。農商くさくてもならず」とも語ったのです。


 


家康は、「儒教」と「武人の心得」を並行的に強調しています。どこまでも「並行的」で、どちらがより上位概念であるかは示していません。それが後に武断の時代とともに、儒教の時代も出現し得る余地をのこしたのです。




3.綱吉は極端に「武」を否定、吉宗は「文」・「武」調和 



綱吉の儒教奨励は家康の文治的統治観を反映したものでしたが、「文」を強力に押し出す反面、「武」の奨励はしないどころか、生類憐みの令は、武家政権としては考えられないほど極端に「武」を否定するもので、まさに家康が嫌った「出家くさい」法でした。




吉宗は、家康の統治思想の「武」の側面を強調することによって綱吉代とは異質な時代をつくりましたが、「文」である儒教も奨励したのです。吉宗政権の性格は、文武調和と言えるもので、儒教という普遍思想と、武を強調する二本立ての政治を行ない、強い求心力を持ちました。




吉宗のこの姿勢は、「武」を主とし「文」を従とする武家の伝統と合致しています。武術に優れているが儒教的礼節もわきまえている武士像は、綱吉の儒仏にこだわり、武を軽視する武士像より明らかに武家における正統と言えます。吉宗の高い評価は、名君という個人的要素と、「文」・「武」のバランスが日本の伝統と調和し人々に共感されたからでしょう。それはまた、日本の儒教にとって、文武調和の中での在り方が形成されたことで、武家社会への定着が一層促進されたのです。




4.吉宗の政治は、綱吉の文治政治の成果の上にある


しかし、吉宗が儒教を強調できたのは、綱吉からはじまり家宣、家重と続いた38年間に及ぶ儒教の基盤作りと、奨励の成果があったからです。また、吉宗時代は平和な時代でした。逆説的な言い方ですが、平和な社会であってこそ「武」の強調が可能でした。辻斬りや「かぶき者」が横行する時代であったら、「武」を強調する政治は、火に油を注ぐようなもので、実行できなかったのです。その平和をつくり上げたのは「文」の政治で、吉宗の文武を強調した政策は、綱吉の文治政治の成果の上にあったのです。




吉宗は良きサムライの典型といえます。武術を好み、庶民の事情も配慮する思いやりがあり、分をわきまえ政治に専念しました。まさに模範的武士で、今日でも歴代徳川将軍のなかで最も慕われている将軍です。




一方、綱吉は、武術はまったく駄目で自己主張が強く、文化に莫大な金を使い、将軍職の本分を越えて政治より儒仏の布教に専念しました。彼は非日本人的であるとともに非サムライ的でした。その権威の在り方は、フランス絶対王政の頂点をきわめたルイ14世、儒仏奨励はプロシアのフリードリッヒ大王の宗教的寛容を旨とした啓蒙政策を彷彿させます。




5.綱吉の功績は、日本の枠では計れない


綱吉の成し遂げたことは、徳川幕府の将軍という枠を越えています。儒教を日本の統治理念としたことは、徳川時代だけに意義が限定されるものではなく、日本史全体のなかに大きな位置を占めるものです。生類憐みの令は、戦うことを任務とする武士に「動物を慈しみ、人を殺さない武士」たることを命じ、それが普通の武士像となるほど、武士の意識の画期的転換をもたらしました。綱吉の政策は、スケールが大き過ぎる一方、達成した成果は精神的なもので見えにくいのです。




改革の難度からいえば、家康の時代を強調し、伝統的価値である「武」を復興させるよりも、家康の政策の枠を越えて儒教を奨励し、「武」優位の社会に、「文」の価値観を浸透させることの方がはるかに困難なことです。




6.綱吉の「文」、吉宗の「文武両道」が日本を救った


ともあれ、綱吉から始まった儒教奨励は吉宗に継承され、吉宗死後36年を経て、その孫の松平定信が、ふたたび儒教強調の政治を行いました。吉宗は、綱吉の政策を継承する「要」の位置にある将軍でした。儒教はこの100年余りの期間に揺るぎない日本の統治理念となったのです。




江戸時代の中後期、儒教は武士の必須の学問となり、幕末には藩校が全国で215校にのぼりました。そこでの主要教育科目は儒教で、多くの私塾でも儒教を教えていました。




近代日本の命運を分けた幕末、重要な役割を担った人物たちは、幕府側であろうと朝廷側であろうと儒教を学んだ武士たちでした。日本は江戸城無血開城という優れた選択をしましたが、西郷隆盛は「遺訓」のなかで「古人を手本に自身を律することが肝要」だとし、それは「堯舜を手本とし、孔子を教師とすること」であると述べています。江戸城総攻撃を中止した西郷の精神の核には儒教があったのです。




清や朝鮮王朝は、「文」を重視し「武」を疎かにしましたが、日本は儒教を尊重しつつも、「武」の必要を忘れませんでした。それが近代に西洋列強に対抗し得た理由だと思います。しかしまた、武士が儒教を学び、平和を重んじる精神を養っていたことが、日本が破局を免れて、江戸から明治に時代を転換できた背景で、もし武士の精神が「武」だけだったら、維新の順調な成就は困難だったでしょう。このような思想状況の形成には、綱吉に始まり吉宗に継承された、徳川幕府の儒教奨励政策が大きく貢献したのです。      (永田)



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儒教、徳川幕府の法となる -憲法を変え日本の姿を変えた綱吉-

1.徳川幕府の最高法「武家諸法度」とは?




綱吉は、大名統制のための法で、幕府の最高法とも言える「武家諸法度」を、儒教思想を強く反映する内容に改正しました。武家諸法度は幕藩体制の在り方を規定する法で、そこに盛り込まれた文言は体制の理念を示します。




この法は、元和1年(1615)、家康が大阪落城直後、伏見城に諸大名を集め宣布しました。立法精神は「武」を基調としたもので、「弓馬の道」、すなわち武の伝統こそ武士が指標とすべき価値であり、それを体現した徳川家の覇権を正当化するものでした。




2.法の基本精神が「武」から「文」に



綱吉は天和3年(1683)、在職4年目に武家諸法度を改正します。綱吉以前に、若干の改正はありましたが、綱吉ほど大幅にかえた例はありません。1条の「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」を、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と変え、法の基本精神を「武」から、儒教に基づいた「文」へと転換させたのです。




従来の文言は、文武と謳ってはいますが、「弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」と続いており、明らかに「武」を強調するものです。しかも、儒教が普及していない当時、「文」とは必ずしも儒教を意味するものではなく、広く文芸のことを指したので、従来の武家諸法度は儒教色が希薄なものでした。



 
3.儒教を中心に据え「弓馬の道」を削る



綱吉が示した文言は、「文武」の次に「忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と続きます。ここでの「文」は、明確に、「儒教」を意味しました。そして「弓馬の道」という、長く武士の心得となってきた用語を除き、儒教的な価値を強調したのです。「弓馬の道」を削除した思想的意義は、どんなに強調しても足りません。




4.儒教精神の武家諸法度は幕末まで継承



武家諸法度改正以前、役人には「代官戒諭」、国民には「高札」で儒教思想を打ち出し、最後に「武家諸法度」を儒教理念に立脚したものに改正することによって、儒教が、徳川幕府の理念であると最高法(憲法)で規定しました。この、儒教に基づく武家諸法度は幕末まで継承されたのです。




次に、武家諸法度以外の儒教政策の内容を見て行きましょう。徳川幕藩体制では法令・戒諭が強い強制力を持っており、綱吉は、儒教道徳をさまざまな法律に盛り込み、人々が従うべき規範と定めたのです。




5.代官戒諭 -全ての役人は儒教の心で公務を果たせ-



綱吉は、まず代官に、儒教思想で仕事をせよと命じました。それが代官戒諭です。延宝8年(1680)、これは、将軍宣下前に頒布しました。




民は国の本なり。代官の輩常に民の辛苦を察し。飢寒の愁なからむやうはからふべし。国寛なる時は民奢り。奢る時は本業に懈怠す。諸民衣服屋舎奢侈あらしむべからず。民は上に遠ければ疑多く。上もまた下を疑事すくなからず。上下疑なからんやう。万に心いれはからふべし。代官等常に其身をつつしみ奢なく。稼穡の事明詳にわきまへ。賦税に心入て。諸事属吏にまかせず。みずからつとむべき事肝要なり。




時代劇でも「悪代官」は庶民を苦しめる元凶になります。代官とは、幕府直轄地において民政をつかさどる重職です。代官に命じたことは、事実上すべての幕府役人に命じたことを意味し、直ちに、諸藩にも影響がおよびます。家綱代まで、幕府には確たる住民統治理念はありませんでした。代官戒諭は、役人が儒教の教えに則って人々を統治せよと命じたもので、この戒諭により、幕末まで一貫する、幕府の国民に対する統治理念が確立したのです。




6.忠孝の高札   -儒教道徳を全国民に- 



天和2年(1682)、綱吉在職3年目、日本全国で掲げられた「高札」は以下の言葉で始まります。




忠孝をはげまし。夫婦。兄弟。諸親戚にむつび。奴婢等までも仁恕を加ふべし。もし不忠不孝のものあらば重罪たるべし。―




高札は、幕府や藩が住民に法律を周知させるために掲げた板札です。「忠孝」という言葉は、儒教の重要な徳目で、儒教文化圏の国では頻繁に用いられ、地名などにも見られます。高札では、倹約、勤勉の奨励、賭博や喧嘩、人身売買の禁止なども挙げています。




中国・明の洪武帝が国民に示した「六諭」は、「父母に孝順し、郷党は和睦し、長上を尊敬して、子孫を教訓し、各人の生理に安んじて、非為をなすな」です。洪武帝はこの教訓を、中国のすべての里で唱えさせました。高札は、「忠」という社会の上下秩序を強調していますが、儒教思想の基本である家族、親族の和を重視する内容は六諭とおなじです。この「忠孝の高札」掲示は、日本において、儒教的価値観が国民生活に強く影響をおよぼすことになる、画期的施策となりました。




1868年、明治新政府が発した、「五榜の掲示」は、「人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事」で始まり、儒教道徳である五倫を強調し、1890年に発布された「教育勅語」も儒教思想が根幹になっています。綱吉が始めた、国民に対する儒教的価値観の奨励は、明治以降の日本にも大きな影響を及ぼしたのです。




7.服忌令 ー 生命軽視から生命尊重に -
 


貞享1年(1683)、在職5年目に発した「服忌令」は、近親者が死亡した時に、喪に服する期間を定めた条令を中心とした法で、服は葬服、忌は忌引を意味します。そのほかに、産穢、死産など蝕穢に関する規定も付されました。発令後、服忌令は民間にも急速に広がり、現代に至るまで、日本人の生活に強い影響を及ぼしています。




父母が死去したとき、悲しみの情とともに、敬虔に喪に服すことは、その前提に、「生」を尊重する観念が存在します。儒教教理では、先祖を祀り、子を生み、先祖祭祀を子孫に継承することを人の重大使命と考えます。そのため、人の生命を尊び、それを疎かにする行為はよほどのことがあっても許容しません。




しかし、戦うことを任務とする武士の世界では、ともすれば「生」が軽いものとされかねませんでした。武士が、主君への忠義を貫くため、責任を負うため、あるいは名誉を守るため、死を選んだ行動を人々は褒め称え、反対に、ぶざまに生に執着することを軽蔑しました。




とくに、戦国乱世では、死を恐れぬ勇猛さが求められ、元禄時代もそのような観念が残っていたのです。服忌令は、このような武士の価値観や感性、また時代の風潮までも転換させる、新しい規範の確立を目指したものでした。



死を恐れないことを美徳とする武士の価値観に対し、生を尊重する儒教によって命を惜しむことを教えたのです。神道の要素が反映された、死穢や流産を忌む内容も、「死」に繋がるものから遠ざかろうとする、生命尊重の観念があります。




8.儒・仏・神で、日本独自の生命尊重思想を発展



この法令は、明朝、朝鮮王朝の服喪制とは内容を異にする部分はありますが、服喪を中心とする法令であり、基本は同じです。この服忌令により、日本国民と、東アジア儒教国家の人々の、生活慣習と感性の接近が成されました。




日本はその後、独自の、生命を尊重する思想を発展させました。中国で地震があったとき、日本の救命隊員が、犠牲者の遺体をかこんで、全員で黙祷を捧げていた場面が、外国メディアで感動的に報道されました。日本では当然の行為ですが、外国では珍しい光景なのです。このような、日本人の生命尊重の心と、服忌令の思想は、ふかく結びついています。




歴史的に日本は、儒教、仏教、神道の教えを調和した生命尊重の精神を養いました。その形成に、元禄時代、徳川綱吉が一貫して推進した、儒・仏奨励政策が、ひとつの大きな礎になったことは否定できない事実です。私たち日本人は「犬公方」として毛嫌いする綱吉がおこなった宗教政策を、根本的に見直し、再評価する必要があると思います。     (永田)




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